今晩私が取り次ごうとしている聖書の言葉は、昨夜の私たちの主題に私たちを連れ戻します。すなわち神の内住です。これは深く大切な事柄でありますが、それを聞き慣れていない信者の方も多く、この真理を受け入れても、一度でそれを完全に理解することができない事柄でもありますので、もう一度それについて語る価値があると思います。今日の箇所はコリント後書13章5節であります。
あなたがたは、信仰の内にあるかどうか、自分を試し、自分を吟味しなさい。それとも、あなたがたは、自分自身のことが分からないのですか。あなたがたの内にはイエス・キリストがおられるのです。ただし、あなたがたが失格者なら別ですが。
注意深い聖書の読者なら誰でも知っていることですが、コリントの教会の状態はたいへん悲しむべきものでした。彼らの間には数々の恐るべき罪がありました。二つの手紙はどちらも悲しみと怒りに満ちています。二つ目の手紙の終わりで、パウロは多くの願いを告げた後にこの質問で結んでいます。「あなたがたは知らないのですか? 私はあなたがたが知らないのではないかと、そして違った生き方をしようとしているのではないかと恐れます。あなたがたは知らないのですか? あなたが神から完全に見捨てられた者でないのなら、イエス・キリストがあなたの内におられるということを」。昨夜語りました聖句と同様、この言葉も、クリスチャンを罪と怠惰の中から引き上げる偉大な真理は、神の内住の約束であるということ、イエス・キリストが私たちの内におられるという自覚であることを、私たちに教えます。
あなたがたは、自分自身のことが分からないのですか。クリスチャンは誰でも、自分自身のことを知る必要があります。自分の罪深さや弱さを知ることはもちろんですが、それだけではなく、それよりはるかに大切なことは、自分自身の内になされた神の驚くべきみわざ、自分自身が三位一体の神の宮となされ、住まいとなされていることを知ることです。他の何よりも、自分自身を知ること、イエス・キリストがあなたの内におられることを知ることを学びとうございます。どのクリスチャンの群れの中にも、低く弱い生を生きている方がたくさんおられます。罪に勝つ力も喜びもなく、ほかの人の祝福となることもできません。このようなすべての人のためにパウロの使信があります。ですから心を静めて聞きなさい。この驚くべき思想、あなたがたの内にはキリストがおられるという思想に深く思いを向けなさい。それはあなたがたにとって全く新しい生涯への招きであると同時に力でもあるのです。あなたがこれを信じることを学びさえすれば、そしてそれに従いキリストに自分自身を委ねることを学びさえすれば、あとはキリストがご自身の力ある救いのみわざをあなたの内になしてくださいます。
この集会に来るような人たちは、そこで二つの大きな問いに同時に向き合うことになります。その一つは、これほど多くのクリスチャンが堕落してしまうのはどのようにしてなのか、という問いです。それに対する答えは次のようなものです。彼らは自分自身の内におられるイエス・キリストを正しく知っていないからであると。もし人がイエス・キリストが自分の内におられることを確かに知っているのであれば、その人は世俗的な生涯を送ることはできないはずです。自尊心や利己心や感情の高ぶりに身を任せることはできないはずです。神の聖霊を悲しませることはできないはずです。ですからこの知識の効果はまったく驚嘆すべきものです。一方においてこの知識は、人を厳粛にし、謙遜にして、「私はもう、私の内におられるこのキリストを悲しませるような思いを抱くことができない」と言うまでにさせます。他方においてこの知識は、人に勇気を与え、力を与えて、「神を讃めよ、イエス・キリストが私の内におられ、私に代わって私の人生を生きてくださる」と言うまでにさせます。どうか神が私たちを、これまでこの信仰がなかったためにどれほど多くのものを失ってきたかを告白するように導かれますように。そして私たちに、私たちの生涯が常に変わらず「イエス・キリストわが内にあり」という生涯であるように、十分に祈ることを教えてくださいますように。
さて、ここから次の問いが立ち現れます。私はこれまでこのような生涯を知らなかったし生きてこなかったことが分かったとしましょう。そうすると今、私は「これからは神の恵みによってこのような生涯を私は生きます。イエス・キリストがわが内におられるという全き経験が来るまで私は満足して安らうことができません」と言う用意ができているでしょうか。私たちは深い貧しさと空虚感のうちに来なければなりません。カルバリでのみわざを完全に成し遂げられた方は、今それを私たちの心の中に成し遂げてくださると約束していたまいます。どうか神が聖霊によって私たち一人ひとりのうちに、そうなされること、私たちがその満足を得ることが、神のみこころであることを啓示してくださいますように。私は今日の午後の集会で、若い人々がたくさん来ておられることに気付きました。私は、最も若いクリスチャンでも、神が私たちのために備えておられるこの祝福の生涯を正しく理解できるように、できるだけ単純に語りたいと思います。私はまた、昨夜のメッセージを通して、この神の内住ということが何か非常に高くてよそよそしいことのように感じられてしまった方のために、そういう方の心にわき起こった疑問にお答えしたいと思います。神ご自身が語られるところに信仰をもって耳を傾けましょう。
まず初めに、もしあなたがこの生涯の力を知っておられるなら、私は内住のキリストがおられることを信じてそれを受け入れなさいと申しましょう。あなたにお聞きしますが、あなたは内住するキリストがおられることを完全に、真実に、信じておられますか? あなたはキリストの受肉を信じておられます。あなたはキリストという名前が出て来ると、それはベツレヘムに嬰児としてお生まれになった神であって、私たちと同じ性質を取り、人として世に生きられた方であると、すぐに思い浮かぶでありましょう。この思想はあなたのキリスト信仰から切り離すことはできません。あなたはまた、私たちの罪のために十字架につけられてカルバリで死んだキリストを信じています。あなたはまた、天に挙げられていつまでも生きておられるキリストを信じています。栄光の主がおられて、今も天の玉座に座しておられることをあなたは信じています。けれどもあなたは、これと同じように明確に、また自然に、内住のキリストがおられることを信じていますでしょうか。あなたにとってキリストの受肉や十字架が信仰箇条となっているように、それと同じくらい現実に、キリストの内住も信仰箇条となっているでしょうか。この真理が受け入れられ、保たれている時にのみ、他の真理もまた現実に力あるものとなるのです。私たちの受肉の主、十字架の主、昇天の主の愛と救いを経験できるかどうかは、主が私たちに内住されて、その臨在を啓示してみわざをなしてくださるかどうかということに、完全に依存しています。もしあなたが自分の生活が虚弱で病気がちであることに気付いたなら、あなたはそれがイエス・キリストがあなたの内におられることをわかっていないためであると確信しなければなりません。今晩ここに来て今すぐに言いなさい。「私は心を尽して願い求めます。このことを、単なる教理としてではなく経験として獲得することができることを。すなわちイエス・キリストが私の内におられるということをです」と。そしてすぐにそれを信じ始めなさい。今すぐにキリストを内住の救い主として受け入れなさい。内住の主の臨在の幸いな自覚なしには決して満足せずに日を送りなさい。キリストがご自身をあらわそうと願っておられるのです。
人はいつでも自分の家を、多かれ少なかれ自分の趣味と性格に合うように作るものです。私は昨夜、神の内住について語る中でそのように申しました。主イエスもまた、ご自身の内住を受け入れ信任する心に対して、同じようになしたまいます。すなわちご自分と同じ心、一致した心となしたまいます。その時に主の及ぼす影響はどのように現れるのかと問われるならば、その答えは難しくはありません。主があなたの命となりたまいます。主があなたの中に生きたまいます。そしてこのような約束の生涯においては、すべてが、すなわちあなたの思いも、感情も、性向も、行動もすべてが、主の命と霊が満ち、動かすものとなるのです。イエス・キリストがあなたの内におられるものとして自分自身を認識したことがないクリスチャンがおられますか? それなら今すぐに彼を信じ、彼を内住のキリストとして受け入れなさい。
私が二番目にお話ししたいことは、あなたが内住のキリストを受け入れる時は、キリストの全体を受け入れなければならない、ということです。次のような方がおられます。その人たちは内住のキリストを求めてはいるのですが、キリストをもっぱら自分に満足と誇りを与える者、平和と喜びをもたらす者としてしか見ておらず、キリストのすべての性格と職務を受け入れるということをしないのです。キリストの半分だけで満足してしまってはなりません。キリストの全部をあなたが受けているかどうかに気をつけなさい。キリストを自分の罪を贖う祭司としてのみ受け入れていて、自分がその法に従うべき王としては受け入れない人がいます。そういう人は、自分の意志をすべて完全にキリストに明け渡さなければならないとは考えたことがありません。彼らがキリストに来るのはただ幸福を求めてであって、聖潔を求めてではありません。彼らはキリストが自分のためにすでになしてくださったみわざは受け入れますが、これから自分の内になしてくださるみわざに自分自身を明け渡すということをしません。罪の赦しについてはよく語りますが、すべての不義からのきよめについてはほとんど何も知りません。そういう人は、キリストを過去の罪の罪責からの救い主として受け入れているだけであって、現在の罪の力からの解放者として全的に受け入れるということをしていないのです。
あなたがたはこのことをよく学びなさい。キリストの地上の生涯について聖書を読む時には、その聖なる属性の現れの一つひとつを、あなたに対する神の意志を示すものであるとして受け入れなさい。キリストの聖なる謙遜と柔和について学んだ時は、このキリストが私の内に住んでいるのであると認めなさい。キリストが御父に深く依り頼み、ただ御父を喜ばせることをなすために自分のすべてを献げていることを読んだ時は、その同じことを私の内にも実現していただくために、私は内住の主に自分を明け渡してしまったのだと言いなさい。十字架につけられたキリストを目の当たりにした時には、その十字架はただ私の罪の宥めの供え物としてあるだけではなく、私が罪に勝利するためにその十字架と一つになるように与えられているのであることを認めなさい。キリストが私のために十字架につけられたとだけ言って終わりにしないように注意しなさい。私もキリストと共に十字架につけられていることを認めなさい。キリストがあなたの内に生きられるただ一つの目的は、あなたの性質が彼と同じものになるようにそれを吹き入れるためです。すなわち、キリストの十字架の霊、そのために御父が彼の犠牲を喜んで受け入れたところのキリストの貴い属性を、あなたにも持たせるためなのです。このキリスト全体をあなたに内住される方として受け入れなさい。
とりわけ、あなたの内におられるキリストは愛なる御方であること、失われた者に対する奉仕者であり救済者であることを忘れてはなりません。キリストは自分のためではなく他者のために生き、死にました。これこそ彼が神の子であることのしるしの中心であり、栄光なのです。キリストがあなたの中に住まわれる時にも、彼はこの性質を変えることができません。あなたを所有しているものは神の愛、十字架につけられた贖いのための神の愛にほかならないのです。どうぞ、あなた自身を彼に献げて、魂に対する彼の愛を注ぎ入れていただきなさい。魂の救いのためにすべてを献げる彼の思いを、神の全能の勝利する恵みを信じる彼の信仰を、注ぎ入れていただきなさい。キリストのすべてを受け入れなさい。あらゆる罪と自己からの救済者として、あなただけでなくあなたの周囲にいるすべての人の救済者として、キリストの全体を受け入れなさい。
次に三番目にお話ししたいことは、あなたがキリストの全体を受け入れる時には、心全体で、心を尽して受け入れなければならないということです。それ以下では、神は満足されませんし、キリストが完全に内住することもできませんし、あなたの心に平安は訪れません。このことは旧約聖書の中でも命じられていることです。『心を尽し、力を尽してあなたの神、主を愛しなさい』(申命記6:5)。そのような者にのみこの約束が与えられました。『幸いな者、心を尽して主を尋ね求める人』(詩119:2)。当時の聖徒たちは告白しています。『私は心を尽してあなたを尋ね求めます』と(詩119:10)。そうだとすればどうして私たちは、新約が与える驚くべき祝福であるところの私たちの内なるキリスト、そのキリスト全体を、彼に対して心のすべてを尽すことなしに知ることができるなどと想像できるでしょうか。
心を尽してとは、いかなる意味でしょうか。まず第一に、心とは愛と情を意味します。私たちがキリストに持つべき関係は、単にキリストの助けを頼ったり、キリストのために奉仕するということだけではなく、強い心のつながりを含むのです。私たちに向けられるキリストの心はいつでも愛であります。彼の働きはいつでも無限の愛と憐れみの現われでありましたし、これからもそうあり続けます。私たちが彼の愛を真に受け入れたこと、また知っていることの証しは、私たちの側における愛以外ではあり得ません。ペテロがキリストを否認した後、彼が再びキリストの顧みを受けて主の群れの牧者としての地位を回復することは、『あなたは私を愛しているか』という三度繰り返された問い(ヨハネ21:17)に彼がどう答えるかにかかっていたのです。救い主に対して情愛のこもった言葉で熱烈な愛を語りかけるのは、女性や子どものすることだと思ってはなりません。また神秘主義者や聖者だけがすることだと思ってはなりません。もし全心をもって、心を尽して主を受け入れるのであれば、私たちは強い人格的な愛を育まねばなりません。『私があなたを愛することは、あなたがご存じです』と、何度でもためらわずに言おうではありませんか。心とは愛であります。心を尽すとは、全力を尽して愛することです。
また、心とは意志を意味します。心を尽してキリストを受け入れるとは、言葉を換えて言えば、あなたの意志を完全に、無条件にキリストに明け渡すことです。どのようなことについてもあなた自身の意志を決して追求しない、それはもう決まったことであると、自分自身に言い聞かせなさい。大きなことでも小さなことでも、最重要の判断事項であっても、日常生活の中のどうでもよいように見える問題であっても、自分にあってはただ神とキリストの意志だけがそこに行われる、そのような者として生活しなさい。キリストが天から来られたのは、神の御心を行うためでした。キリストがあなたの心の中に住まわれるのも、神の御心をあなたを通して行われるためなのです。キリストがこの幸いなわざを行われるのを妨げたり、悲しませたりしないように気をつけなさい。「神が私たちの内に意志を創られたのは、私たちがそれを用いるためではありませんか?」このように尋ねる人があります。「人間が意志を持っていることも人間の貴さの一つなのではないでしょうか? なぜあなたはその意志を完全にまた無条件に神に返すようにと命じられるのですか?」と。このような問いを発する人は重大な誤解をしています。神が私たちに意志を与えられたのは、私たちが知性をもって、神の意志されるところを自分でも意志できるようになるためなのです。子どもにとっては、賢明で愛のある父親に自分の意志を預けて父親の言うとおりにしても、それはなんら恥ずべきことではありません。同じように人間にとっては、神の完全な意志を見いだし、受け入れ、喜んで従うことは、人として最高の尊厳であるのです。心を尽し、曇りのない意志をもってキリストを受け入れなさい。キリストにあなたの内に神の意志を満たし、働かせていただくことを、あなたにとって真実で唯一の祝福と心得なさい。心を尽すとは、意志全体を献げることです。どんなことにも自分の意志を残してはなりません。自分の意志とはただ、神の意志の支配のもとに自分を服させるという決断でなければなりません。そして、困難や弱さに直面するたびに、あなたはそれを、自分の望みを実現するにはただ一つの道しかないことを改めて確信する機会としなさい。その道とは、イエス・キリストをあなたの内に内住の救い主として受け入れること、そしてキリストにあなたの意志を通して働く生ける力となっていただくことです。あなたがキリストに自分を差し出すなら、ちょうどその分だけあなたはキリストを持つことができるのです。心全体を差し出せばキリスト全体を得ます。
この午後に説教者どうしで語り祈り合う会合がもたれましたが、その折に、この私たちの集会を祝福に変えるために何が必要なのかが話題になりました。次のように言う人がありました。まず初めに大規模な認罪が必要である。クリスチャンたちが自分たちの生活の中にどれほど欠けたものがあるかに気付くように導かれないと、大きな祝福はまず期待できない、と。昨年、私はイングランドを訪れた時に、ケズィックで行われた集会の話を聞きました。その集会では、参加したクリスチャンたちが自分の生活を覆う邪悪さと恥ずべき面に深く気付かされたため、集会が終わっても口を開くことができず、ただ神の前に出て告白するように迫られていると感じたとのことです。私たちが必要としているものはこれです。私たちは自分でこれをなすことはできません。ただ神が私たちの内に働かれるのです。私たちの神は栄光の神であり、私たちの創造者にして贖い主であられるのですから、私たちから全面的な愛を受けるのは当然です。それにもかかわらずそのような全的な愛を神に献げるのを私たちが怠ってきたとすれば、そこに私たちの罪があります。それはちょうど、一人の婦人がその心をすべて献げると誓った夫に対して裏切りを働いたのと同じことであり、同様の恥と屈辱を受けるに値します。この事実は私たちを塵灰の中に伏させずには置きません。このことに私たちが気付き始めるなら、キリストに心のすべてを献げずにきたという思いは、私たちにとって耐えがたいものとなるはずです。私たちは神に対して相応しい栄光を帰してきませんでした。自分の意志と名誉と快楽を追求してきました。キリストお一人が住むべきであった心の中の場所を自己と世に与えてきました。このことを私たちが告白するならば、神の聖霊が私たちのクリスチャン生活の罪深さを私たちに示されます。その結果、私たちは心から次のように言い表し、また神がそれを認めてくださるという確信を得るまでは、休むことができなくなります。「私は心全体をもってキリスト全体を受け入れます」と。
それでは四番目の事柄に移りましょう。それは、内住のキリストがあなたの心の中で必要なことをすべてなしてくださると信任しなさい、ということです。冒頭に掲げました聖句の少し前のところで、パウロは『あなたがたはキリストが私によって語っておられる証拠を求めている』と言っております(コリント後書13:3)。つまり人々が見たいと思っていたのは、パウロに内住しているキリストだけではなく、パウロを通して働き語られるキリストであったということです。コリントの人々がそのように期待するのは正しいことでした。キリストが私たちの内に来られて所有してくださるならば、キリストは聖霊によって、私たちにはできないことを私たちの内になしてくださるはずだからです。キリストはあなたを、神があなたをなそうとしておられるもの、すなわち御子のかたちに似たものと変えてくださいます。私たちが自分の努力によってキリストの歩まれた跡を歩もうと、彼の見本に倣おうと、彼の生き方をそのままに生きようと思っても、それは全く無駄であります。イエスが地上で人間としての生涯を生きられたのは、私たちがどのような生涯を送るべきかを身をもって示すためでした。しかし、私たちがクリスチャンだからと言って、彼の生涯に少しでも近づくことができる、また近づくはずだと考えるのは誤りです。それは不可能なのです。私たちがそのような生涯に招かれていること、またそのような生涯が私たちの第一の義務であることは確かです。しかしそうであるのは、私たちがキリストご自身に、私たちの中でそのような生涯を生きていただく場合に限られます。キリストの生涯はどこまでも崇高で神的なものであって、私たちにはとうてい真似のできるものではありません。それはキリストの生涯であり、キリストだけの生涯なのです。しかしキリストはその生涯を、私たちの中で生きてくださいます。あなたは喜んで謙遜になろうと、忍耐強くあろうと、また柔和であろうとしていました。あなたはこれまでたびたび祈り努力してきました。しかしそれらはすべて失敗でした。あなたは神であるキリストが天から持って来られたような謙遜を、この地上で、自分自身の中に見いだそうとしました。しかしそれは間違いでした。どうぞ自己とその努力を断念することを学びなさい。内側に目を向けなさい。そこに内住されている全能の方だけを信じ、その方にとどまりなさい。その方はあなたの生命となりたまいました。それはあなたの生命をご自身の生命で満たすためです。あなたの内に住んでおられる方が、なすべきことをすでに引き受けられており、それをなしてくださると信任しなさい。その方が地上に来られた時には、何も知らない弱い赤子としてその生涯を始めたまいました。その方は街から離れた場所で育ちたまいましたから、この人が人類の救い主であると思う人は誰もいませんでした。彼が公共の伝道活動を始められた時にも、彼は街中で声を上げるということをなさいませんでした。人々は彼を軽蔑し、排除しました。彼らは彼が栄光の主であるとは知らなかったのです。あなたがたの心の中でもそうでありましょう。彼の外貌は貧相で弱く、見る影もありませんでしょう。そのような中にあって、ただ信ぜよとの彼のご命令に心を向ける時が参ります。彼に限りない信任を置きなさい、彼が彼ご自身の時と方法をもってあなたの内にそのみわざをなしてくださると。あなたがたの内で起こることがいかに遅延して、不分明で、非現実的に見えるとしても、彼がそこにおられるのだという確信をしっかり握りなさい。彼がそこでみわざをなさっておられ、時が来ればご自身をあらわしてくださると確信なさい。
みなさん、あなたがたが受肉のキリストを、或いは十字架のキリストを信じると言う時には、それは、キリストが地上に生きかつ死ぬために来られたその目的であるところの働きを、キリストがすべて完全に成し遂げられたとあなたがたが信じているということでありましょう。あなたがたが昇天の主、栄光の主を信じると言う時には、それは、主が今も生きておられ、神の右に座して神の権威を手にしておられることを、あなたがたが一点の疑いもなく信じているということを意味するはずです。内住のキリストに対するあなたの信仰を、純粋で明白なものとしなさい。キリストがあなたの内に入られたのは、あなたの内的生活の全体を掌握し、更新して、栄光を与えるという偉大な働きをなすためであります。それをキリストは驚くべき力と愛をもってなしたまいます。キリストにそれをお任せしなさい。あなたの内におられるキリストは、ベツレヘムのキリストであり、カルバリのキリストであり、天の玉座に就かれたキリストです。そのイエス・キリストがあなたの内におられると、そのイエス・キリストがあなたの内でそのみわざを完全になしてくださると、今から信じなさい。ヘブル書にある驚くべき約束にただ耳を傾けなさい。こうあります。『平和の神が、御旨に適うことをイエス・キリストによってあなたがたになしてくださり、御心を行うために、すべての良きわざにおいてあなたがたを完全な者としてくださいますように』(ヘブル13:21)。そうです、イエス・キリストによってであります。もし神ご自身があなたの内にイエス・キリストを通して働かれるのだとすれば、それはあなたの内に住むイエス・キリストによってであるとしか考えられないのではないでしょうか。神はあなたを、あなたの内に住むイエス・キリストを通してご自分の意志をなされるに適した者と変えられます。疑わずにただ喜びなさい。自分自身をイエス・キリストが住んでおられる者と知りなさい。
「このようなことが現実になるのでしょうか?」と尋ねる人があるに違いません。「キリストご自身が私の内に住まわれるために何が必要なのか、そんなことが私に分かるだろうか」と。あなたはしかし次の短い、よく知られた言葉の中にその答えを見いだすことができます。『子よ、あなたの心を私に委ねよ』(箴言23:26)。あなたはこのことを実際になしたことがあるでしょうか。私は、あなたが信者であるかどうかと聞いているのではありません。またあなたが罪の赦しを確信しているかどうか、クリスチャン生涯を生きることを願っているかどうかということを聞きたいのでもありません。しかしあなたはキリストにあなたの心を、所有していただくために、支配していただくために、新しくしていただくために、キリストお一人に住んでいただくために、そして神の意志で満たしていただくために、委ねたことがあるでしょうか。あなたの心をあなた自身の力から離してキリストの力に委ねたことがあるでしょうか。自分に対する信認、自己満足、自分を喜ばせようとすること、そして自分の意志を、すべてキリストの足元に投げ出したことがありますか? そうすればキリストはそのすべてを処分して、あなたの心をご自身で満たしてくださったはずです。もしそうしていないなら、今そうすることを何ものにも妨げられてはなりません。今、神に属するものを、それを取り戻すためにキリストが来られたところのものを、キリストに委ねなさい。あなたの心は神のために創られたのです。人間には、その人を強く引きつける対象、その人の愛を獲得した対象に対して、すぐに心を奪われて心を引き渡してしまうところがあります。人間にはそのような強い傾向があるのです。そういう時には地に伏しなさい。イエス・キリストがあなたの内におられることにどれほど無頓着であったか、彼に日々全存在を明け渡すことをどれほど怠ってきたかを思い、後悔と羞恥とをもって地に伏しなさい。それをへりくだって告白しなさい。今なお罪に染まっていて無価値なものとなっている心を彼に献げなさい。そしてそれを彼が所有してくださると信じなさい。私が献げるものを神は取られます。神は取られたものをイエス・キリストを通して保ち守られます。主をほめたたえよ。私たちはいま自分自身を、主よ、あなたに献げます。そしてあなたは受け入れてくださり、あなたが私たちの中に入られ、あなたご自身で満たしてくださると知っております。