ヨハネ黙示録第五章



 われまた寳座くらゐする者 なゝついんにて封印せる内外うらおもてに文字あるまきものその右の手にもてるを見たり われまた一人ひとりの强き天の使つかひ おほいなる聲をいだして たれこのまきものひらき封印をとくたふ宣傳ふれつたふるを見たり しかるに天にも地にも地のしたにもこのまきものひらき又これをみることをる者なし 一人ひとりとしてこのまきものひらき又これをみるたふる者なきがゆゑわれはなはだしくなけ長老ちゃうらう一人ひとりわれにいひけるは なくなかれ ユダの支派わかれよりいでたる獅子しゝ ダビデの根 すでにかちを得たればこのまきものひらき又このなゝつの封印をとくことをうるなり ── 黙示録五章一〜五節

 

 ただいま読みました黙示録第五章の一節に、七つの印にて封印せる巻物がありますが、諸君みなさまの既にご承知のごとく、昔時むかし、人がもし貧苦に陥りておのが産業を他人に売り渡す時には、必ず封印せる巻物を与えて、先祖より伝わった産業を所有する特権の記号と致しました(エレミヤ記三十二・十一)。さて私共人間は神より賦与せられた生業を一時所有しておりましたけれども、私共の先祖が神にそむき罪を犯してその産業を失いました。しかしてその産業とは、創世記の二章 三章に記してあるエデンの園の幸福であります。もしその産業を失いませなんだならば、私共はこれを得て常に神と交わり、絶えず神の国の平安と喜楽よろこびを蒙り、ほかの動物を支配する権力を保ち、死もなく罪もなく、けがれも不義もなき者でありましたろう。しかるに悲しいことには人は罪を犯し、サタンはこれを人類より奪い去りました。ゆえに人はみな貧しくして、神に遠ざかり神と交わることができません。従って心に平安と喜楽なく、死と神の刑罰を怖れ、実に憐れむべき状態でありますが、諸君は果たしていかなる有様でおられますか。諸君は果たしてこの産業を所有しておられますか。何卒なにとぞ各自の体験を省みなさい。諸君は絶えず神と交わり、神に近づき、はばかるところなく神に祈禱を捧げられますか。常に乱れざる平安をそなえ、罪に打ち勝つ神の力と権威がありますか。日夜流れて尽きざる川のごとき喜楽がありますか。或いは諸君の中には霊魂たましいの産業を失える貧しき人が多くありますまいか。もしこれを失っておりますならば、どうして産業を取り戻すことができましょうか。三節に記してあるところを見れば、『天にも地にも地のしたにもこのまきものひらき又これを見ることをる者なし』とあります。そうですから誰でも自分の力でこれを取り戻すことはできません。しかるに私共は愚かにも、しばしば自分の力や熱心をもってこれを取り戻し得るように考え、勉めて神に近づき、励みて罪に打ち勝ち、心の中より汚れを追い出してきよき生涯を送らんと思いましたが、ただ常に失敗を重ねるのみで少しも成功がありませなんだ。このような経験は熱心なる諸君の中にも必ずあることと思います。実に私共の力にては決して産業を取り戻すことはできません。かく自分の力で取り戻すことのできないことを知るのは、まことに悲しむべきことであります。けれどもこれを認めるは悲しみの中の幸福であります。ヨハネもこれを見て甚だしく泣きました。『一人ひとりとしてこのまきものひらき又これをみるたふる者なきがゆゑわれはなはだしくなけり』。かく己が力によりて産業を取り戻すことはできず、聖霊を受けることもできないならば、いかが致せばよろしうございますか。実に痛哭の至りではありませんか。諸君はこれによりてしばしば自分の薄弱を知り、自分の決心は衰え、勇気は砕け、望みを失い、絶望悲嘆の淵に沈まれることはありませんか。今晩この席に集まれる諸君の中にも自分の弱きを認められる御方おかたが多いでしょう。けれども神はまた喜ばしい音信おとずれを諸君に与えたまいます。『長老ちゃうらう一人ひとりわれにいひけるは なくなかれ』()。私もまた諸君に申します、諸君よ、泣くな、諸君は或いはしばしば失敗の歴史を重ね、罪を犯して献身の生涯を汚したことがありましょう。しかれども決して泣くな。諸君のためにあがなぬしとなり、諸君のために全く産業を取り戻し、諸君のために巻物を開きたもう者があります。神の聖名みなはほむべきであります。神のめぐみは感謝すべきであります。ハレルヤ!

 私共には産業を得る力はすこしもありません。けれども、主イエス・キリストはこれを得て、私共に授けたまいます。主はこれがために天国を捨ててこの世にくだり、おのが血を流したまいました。サタンは自らこれをイエスに授けようと思いまして、『なんぢもし俯伏ひれふしてわれを拜せば此等これらみななんぢに與ふべし』(マタイ四・九)と申しました。主はこれをサタンの手より受けたもうこともできましたけれども、もししかしますれば真正ほんとうに人を救うことができないのを知っていたまいました。また或る時は、人々がイエスを立てて王となそうと致しましたから、人の手より産業を得たもうこともできました。けれどももししかすればこれもまた人を救うことができません。ゆえにこれを受けたまいませなんだ。『こゝおいてイエス彼等がきたりておのれとりて王になさんとするをしりたゞひとりにてこれさけふたゝび山にいりたり』(ヨハネ六・十五)。主はただ十字架にのぼり、己が血を流し、肉を裂きたまわねば、ほかに道なきことを知りたまいましたから、サタンの詭計を捨て、世人の推挙を退け、甘んじて十字架の苦刑を受けたまいました。そうですから今もなお十字架の上に流したもうた血によって、私共の一度失った産業を取り返してくださいます。これは実に大いなる幸福と言わねばなりません。

 『われ寳座くらゐおよびよつ活物いきもののあひだ 長老等ちゃうらうたちあひだこひつじたちをるを見たり このこひつじさきに殺されし事あるが如し これなゝつつのなゝつの目あり この目は全世界に遣はす神のなゝつれいなり』(黙示録五・六)。これによりて考えますれば、私共のしゅは神の子にいましませども、私共のためにほふられたもうて小羊と名付けられたまいました。しかし主は小羊と呼ばれたもうのみならず、五節には獅子と名付けられたまいました。これは主の力あることを示したものでありまして、主は私共のために屠られる小羊でありますが、また敵に打ち勝つ獅子のごとき能力ちからそなえたまいます。ゆえに主は小羊のごとく血を流して私共のために価を払い、獅子のごとき能力をもって私共の産業を敵の手より取り戻したまいます。この小羊に七つの角ありと記してありますが、七つの角とは小羊の力強きことを示したものであります。これはちょうどマタイ伝二十八章十八節に、『天のうち地の上のすべてけんわれたまはれり』とあるのと同じことであります。また七つの目ありとは、ちょうどコロサイ書二章三節に『智慧ちゑと知識の蓄積たくはへ一切いっさいキリストにかくれあるなり』とあるように、主の全き知恵を有したもうことであります。またこの七つの目をもって私共を常に見たもうがゆえに、一つとして主の目に隠れるものはありません。以上申し上げましたことは、私共のために屠られ、死より甦り、天に昇りたまいし主なるイエスの状態であります。どうぞ諸君みなさまがこのような主の栄光と、主の権威と、救いの能力を見られんことを切に望むところであります。諸君は今日に至るまで、自分の力を尽くし、心を煩わしても、ついに産業を得ることができませんでしたが、今や主は全能の力をもってこれを得て諸君に与えたまいます。私共は自分の力では決して聖霊を受けることも、その価を償うこともできませんが、主は己が血を流してこれを受け、私共にもまたこれを授けたまいます。兄弟よ、何卒すべての権威をちて天に坐したもう主をご覧なさい。

 『このこひつじすゝみて寳座くらゐする者の右の手よりまきものとれり』()。この巻物とは産業の記号でありまして、産業はすなわち神の聖霊であります。私共の喜楽よろこびも、平安も、能力ちからも、神に交わるのも、ことごとく聖霊よりきたるものであります。天に昇りたまいし主は父なる神より聖霊を受けたまいましたから、もし主を信じ、昇天なしたもうた主の権威を信じますれば、聖霊を受けることができます。エペソ書一章三節に『神すなは我儕われらしゅイエスキリストの父はほむべきかな かれキリストによりすべてれいめぐみて天のところにて我儕われらすでに惠みたり』とあるように、神は既に聖霊を私共に授けたまいました。けれどもエペソ教会の信徒のように心の目を閉じてこれを見ず、或いは不信仰にしておのれに与えられた大いなる恵みと力を知らず、父なる神の豊かなる賜物を悟りません。しかし主は円満なる産業、すなわち聖霊を私共のために贖って、エデンの園の幸福喜楽を私共に与えたまいます。どうぞ昇天なしたもうた主をご覧なさい。昔時むかし、弟子たちは昇天したもうた主を見た時に、ペンテコステの日の聖霊を授けられました。主は諸君みなさまのため、私のために、大いなる恵みを与えたまいます。聖霊はすなわち私共のものであります。罪人つみびとはこれを失いましたけれども、主は貴き血をもって私共のためにこれを贖いたまいましたから、聖霊はすでに諸君のものであります。主イエス・キリストは私共の中に立ちて『聖靈をうけよ』と命じたまいます(ヨハネ伝二十章二十二節)。主はこれを贖いたまいましたから、かく命じたもうは理に合うことではありませんか。神は『萬物ばんぶつ爾曹なんぢらの物なり』(コリント前書三・二十一)とのたまいました。ここに主は円満なる聖霊を贖い、産業を買い取りて、これを諸君に与えたまいます。兄弟よ、聖霊は諸君のものであります。姉妹よ、聖霊はあなたがたのものであります。

 昇天なしたもうた主は、かく貴き血を流して聖霊を贖いたまいましたから、私共はどういたせばよろしうございましょうか。私共は勉め励み、もだえ苦しんでこれを信ずる信仰を起こしましょうか。富める人がもし一万円の金を与えるように約束いたします時に、努めてこれを信ずる信仰を起こさねばならぬ必要はありません。ただ喜んでこれを受ければよろしうございます。ちょうどそれと同じように、主は信ずる者に聖霊を惜しみなく与えたまいますから、ただ信仰をもってこれを受け、感謝すればよろしうございます。

 『まきものとれるときよつ活物いきものおよび二十四人の長老ちゃうらうおのおの琴をとりまたかうもりたるきん香爐かうろとりこひつじの前に俯伏ひれふしたり このかう聖徒等せいとたち祈禱いのりなり』()。主が天にあらわれたもう時、天にるすべての者はみな立ちて主の聖名みなを讃美いたしました。これは最も自然のことでありまして、さようでなければなりません。彼らは気も狂わんばかりに神の聖前みまえに喜びました。私共は主の救いを教えられ、或いは聖書を開いてこれを読みましても、少しも喜楽平安を感ぜず、冷淡なる心をもって看過みすごします。けれども天に在る者は気も狂わんばかりに喜楽と感謝を捧げています。使徒パウロもまたかように主の救いを見ました時、神の聖前に狂するがごとく喜びました。私共もまたかように神の聖前に喜び、そのめぐみを受けとうございます。天に在る聖徒はひれ伏して主を拝し、主を讃美いたしました。私共も、ただ心に悶え苦しんで多少の信仰を増すようなことをせず、どうか円満なる聖霊を受けとうございます。

 『この長老ちゃうらうたち新しき歌をうたひいひけるは なんぢこのまきものとりその封印をとくたふる者なり そはなんぢかつて殺され …… かつ我儕われらの神のため我儕われらを王となし祭司となし給へばなり われら地に王たるべし』(九、十)。私共も今夜、天に在る長老等と共に新しき歌を歌うことはできますまいか。諸君は自分が救われることを信じて感謝の歌を歌われましたか。今や神の聖霊を与えられ、新しき恵みにあずかりましたから、新しき歌を歌わねばなりません。主は聖霊を与え得る力をそなえたまいますゆえ、これを信仰しましても毫も疑い懼れるところはありません。主はかく大いなる権威を有したまいますから、これを信ずればその信ずべき価のあることを知るようになりましょう。今日こんにちまで疑惑の雲霧くもきりに蔽われて聖霊を受けることのできなかった兄弟方は、主の力と主の権威を信仰なさるようにお勧め申します。血を流し、死より甦りたまいし主は、必ず聖霊を与える力を具えたもうに相違ありません。なるほど私共は主によりて罪より救い出され、罪の羈絆きはんを遁れた者でありますから、救いの讃美は長老等とともに歌うことができますが、今また一歩を進め、王とせられ、祭司とせられしことを感謝することができますか。既に聖霊のあぶらそそがれて、王のごとく祭司のごとき力と恵みを得たと感謝することができますか。私は諸君がこれができるように切に願ってまないのであります。私共の歌うべき感謝は、ただ過去の恩と現在の恵みを感謝するのみでなく、『彼らは地の上に王となるべし』、すなわち未来に与えられる恩をも感謝せねばなりません。主は私共を栄光より栄光に導く約束を授けたまいましたから、未来の喜楽よろこびと希望を抱いて新しき歌を歌わねばなりません。かく私共が新しき喜びの歌を歌いまするならば、私共の周囲にある人々もこれを聴き、自分の頑固かたくななる心を和らげ、私共とともに神の聖名みなを讃美するようになりましょう。

 『われまた見しに 寳座くらゐ活物いきものおよび長老等ちゃうらうたち四圍まはりおほくの天の使つかひの聲あるをきけ其數そのかず千々せんせん萬々まんまん かれら大聲にいひけるは さきに殺されしこひつじは權威、とみ智慧ちゑ能力ちから尊敬たふとき、榮光、讃美をうくべき者なり』(十一、二)。兄弟姉妹よ、諸君は天の使と共にこのように献身の歌を歌うことができますか。私共の権威も富も知恵も能力も、すべてのものは悉く神の手にし奉るべきものであります。そうですから私共は自分の身を全く主に献げ、宝も地位も何もかも主の聖手みてに委ね奉らねばなりません。今晩、深く主の恵みを味わう人々は、この歌をもまた歌うことを願われるでありましょう。しかしてかように歌を歌うことができましたならば、その結果はただ一人の上に留まらずして多くの人々に大いなる感化を与えます。そうですから歌を歌いつつ各自の持ち場に帰りまするならば、必ず他の人の心に著しき影響を与え、諸君みなさまと共に感謝讃美の歌を歌うようになることは、火を見るよりも明らかであります。ちょうど、静かな湖の中に石を投げれば波紋がますます広がってついに岸に達するように、諸君の心の中に新しき歌を投げられまするならば、必ず人より人に伝わり、多くの人々をして神を感謝するに至らしめます。

 『われまた天および地および地のしたおよび海の上にある所のすべつくられたるもの 又そのなかあるもの 皆いへるをきけいはねがはくは讃美、尊敬たふとき、榮光、權力、寳座くらゐする者とこひつじとにして世々よゝかぎりなからんことを』(十三)。これはすなわちすべての栄光を神に帰し奉ることであります。私共に受けし恵みやすべての賜物は、悉く神の賜物で、私共の信仰の結果でもなく献身の応報でもありません。そうですから私共の今日まで受けました平安と喜楽に対し、栄光を神に帰さねばなりません。

 『こゝおいよつ活物いきものアメンといへり 二十四人の長老ちゃうらうふしはいせり』(十四)。これは実に一大アーメン(しかりの確答)であります。私共も四つのき物と共にこのアーメンを叫ぶことができますか。主は諸君に聖霊を与えんと仰せられるならば、諸君はこれに対してアーメンと叫ぶことができますか。或いは己を全く主に委ね、献身的生涯を送らんとの祈禱を聞きまするならば、これに対してアーメンと申されますか。すべてのものを神の聖手より受け、すべてのものを神に帰すべしと言えば、これに対してアーメンと答えられますか。真正ほんとうに神の耳に達するようにアーメンととなえることができますか。

 兄弟姉妹よ、私は諸君が神の聖前みまえにひれ伏し、神を拝し奉り、神の恩を仰ぎ、これを己がものとなし、自ら謙りて神に奉仕なさるように、切に願うところであります。



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