二  神 と の 語 ら い



 このように神との交わりの中に生活する者は、必ず定まった祈禱を持つに相違ありません。絶えることのない祈禱の霊は必ず言葉に形造られるものであります。キリストの御生涯においてもそうでありました。彼は普通日常の生涯の筋道にあって、他の者たちも共にある時、確かにしばしば
     声 高 く 神 に 語 り
たまいました。このようにしてマタイ十一章においても、彼は数多くの人が彼の救いの御言葉を拒んだ時、神に向かうことによって失望に勝ちたまいました。彼は『天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます』と言って父を讃美し、『父よ、これはまことにみこころにかなった事でした』と、彼の献身と神の聖旨を喜ぶこととを繰り返し申し上げておられます。もし私共が神との接触の中に生活しておりますならば、失望落胆しなければならない時にこのようにすることができましょう。神の聖旨を喜ぶ歓喜の言葉は、最も苦い失望から、そのすべてのとげを抜いてしまいます。
 また、主は幾度かその奇蹟の前に、神とのほんの一言の語らいのために天を仰ぎなさいました。マルコ六章四十一節のパンの奇蹟の前、および七章三十四節の耳の聞こえない人の癒しの時に主はそのようになさいました。
 それからヨハネ十一章四十一節では、ラザロの墓前にてそのようになさいました。主は父がご自身と偕に在して働いて下さることを知っておられました。が、いよいよという時に神に対する確信を表すために、ただ、上を仰ぎなさいます。『父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています』。このような確信をもって瞬間的に神を見上げることは、確かにその時に必要な力を引き出すに違いありません。私共の働きや生涯の危機に際して、これは失敗か成功かの分かれ目にもなりましょう。突然の誘惑に遭った時、このように讃美と確信をもって神を仰ぎなさい。霊魂を取り扱って彼を大決心にまで到達させるためにあなたが力を要する時、上を仰ぎなさい。御名によって御言葉に奉仕しようとする時、主があなたに与えて下さるところを、或いは立ち越えたり、或いは減じて語るように誘われることのないために、上を仰ぎなさい。
 今一つの場合がヨハネ十二章二十七、八節にあります。『父よ、み名があがめられますように』。主は人々との会話の最中でありましたが、それに没頭して神と語れないようではありませんでした。私共も人々と共にある時、神との交わりの中にあるように注意しとうございます。そうすれば愚かな話や不親切な言葉は出ては来ないでしょう。言葉は常に恵みをもって味付けられ、神の方へ向かって語られましょう。私共には人に取り次ぐべき御言葉が常に貯えられているでしょう。その時キリストは心騒いでおりたまいました。十字架が目前にありました。しかしそれを避けることを願ってはおられません。ただ一つの願いは、そのことにおいて神の崇められることでありました。そのことを私共も、ただ一つの叫び問いたしとうございます。たとえ前途に何か試みられる事情が見えうかがわれる時にも。
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 主は他にこのような祈禱を三度口になさいました。それはみな十字架の時においてでありました。兵卒どもが主を十字架に釘付けていた時、たぶん主は恐ろしい苦痛と、苦々しい獣のような残酷さの的でありましたでしょう。しかしそれらすべての真っ最中でも、心中の平安は乱されず、彼は父に執り成しておられました。『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』と(ルカ二十三・三十四)。如何に恵み深くその祈りは答えられましたか。私共はマタイ二十七章五十四節から知ることができます。それらの兵卒どもは悔い改め、主を神の子であると公に告白しております。どうぞ私共もそのように、人々から痛みを与えられる時、『正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねて』(第一ペテロ二・二十三)、心中の平安を乱されることのないように守られたく思います。
 次に、悪魔が主に向かって全力を尽くすことを赦された、かの暗黒の時に、叫びは上って参ります。『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と(マタイ二十七・四十六)。暗黒は周りにあり、神は自らを隠されましたけれども、主はなおも父を求めて叫ばずにはおられませんでした。そして主の祈りはその恭しさによって聞かれました。もし罪のためにあなたが暗黒の中、また悪魔の権力の中を通らなければならない時にも、あなたの唇を閉ざしてはなりません。そのことについて神に申し上げなさい。救いは必ず来ます。
 今一度、地上の御生涯の終わりにおいて、主は祈られます。『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』(ルカ二十三・四十六)。人生の危機をこのように貫き通すことのできるクリスチャンは如何に勝利でありましょうか。喜んで未来を神にお任せしましたと、このように声高らかに言葉に表すのは、確かにどんな出来事をも神は御支配下さり、またそれら一切の中に私共は神と偕に歩むことを確実に保証することであります。
 これらの場合に主は神に「父」と呼びかけられました。あなたがこの類の神との交わりを楽しむのは、子たることの明らかな証を持つ時のみであります。別にこれといって神に申し上げることを持たない時にも、私共はたびたびこの一語
     『父 よ !』
をもって神を見上げたいものであります。これはすべての時において、喜びと交わりと力とをもたらすでしょう。そしてまた彼の幼子であるあなたが、このように絶えず、愛の称号をもって彼に語りかけることは、父をお喜ばせすることであります。このように私共は神と偕に歩む時、神に語りかけとうございます。一人のスコットランドの少女が他の者に尋ねました。「あなたは主を知っておられますか」。知っているとの答えでしたが、なお満足することができなかったと見えて更に尋ねました。「あなたはお話しすることのできるように主を知っておられますか」と。
 キリストの能力の秘密は、神をお話しできる御方として知っておられたことでありました。あなたはいかがですか。



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