ビー・エフ・バックストン著
小 島 伊 助 訳
── 民が皆、ヨルダンを渡り終わった時(ヨシュア記四・一)──
出エジプト記、民数記、ヨシュア記の三書は旧約聖書の天路歴程であります。出エジプト記はイスラエルの子孫がエジプトから携え出されたさまを語り、民数記は荒野の道中の事柄を語り、ヨシュア記は彼らがカナンの国に入り、これを占領し、そこに住むことのできるようにされたさまを語っております。
カナンは泉あり谷ある地、乳と蜜の流れる地、神の顧みられる地であったと言われます。イスラエルの子孫がエジプトを離れたのは、ただその奴隷のくびきから逃れたかったからばかりではありません。神が彼らにカナンの国を約束しておられたからであります。この約束の地に入るために、信仰によって彼らはエジプトを振り捨てたのでありました。長い以前、神の賜物として既に彼らに与えられていましたこの国に、今や彼らは綺麗にヨルダン川を渡り尽くし、この国に入ったことを知ったのであります。
カナンの地とは、神の御霊に満たされることの型であります。これはかの奴隷の地エジプトから私共の心を引き出した恵みであります。信仰によって私共は、かの奴隷の地エジプトを振り捨てました。それはこの恵み、神の御霊に満たされること、神が御言の中に約束しておられるこのことのためでありました。おお、カナンにおることは如何に幸いなことでありましょう。この恵みを受けることは驚くべきことであります。そしてこの恵みを保つことは驚くべきことです。皆様はこの国にとどまるために、神の恵みとその大いなる力とを要します。
この小冊子において私共は、おもに民がこの国に入ってから後に起こったことを調べたいと思います。すなわち私共は、彼らがどういうことをなしたかを見て教訓を受け、どういう風にして私共のカナン、すなわち神の御霊の満たしを保ち続けるべきかを知りとうございます。
ヨシュア記の四章において、彼らはまず最初に二つの大きな石塚を造ったことを見るでありましょう。一つはカナンの地の中にありました。『それを携えて渡り、彼らの宿る場所へ行って、そこにすえた』(八節)。もう一つの石塚はヨルダンの河底にありました。これらの十二の石から成る二つの石塚によって、イスラエルの子孫は彼らが神に依り頼んで死を通ったことを証いたしました。古い生涯は永久に去ってしまいました。それはもう溢れる流れの下になってしまって死の場所にあります。そして彼らはその立場をカナンの中に獲たのであります。ですから私共にとりましても、第一になすべきことは、ちょうどあの国の中に造られた十二の石の記録のように、記録を作ることであります。それは、はっきりとした証をすることであります。「私は最早天の処に参りました。私は神に対して生くる者であります。私は御聖霊の宮であります」と証することであります。ヨルダンの底にあるその十二の石は証して言います。「私は罪に対して死んでおります。過去は血潮の下にあります。私は事実、罪に対して死にました」と。私の『古き人』はヨルダン川の中にあります。そして私は罪から解き放たれて自由に神に奉仕することができます。たびたびあなたの生涯において、それらの十二の石に帰りなさい。そしてあなたの過去の生涯はヨルダンの下になっていることを覚えさせられなさい。たびたびあなたの部屋において全く神様とただ一人ある時に、その場所にお帰りなさい。そしてあなたが天の処に在ることを覚えなさい。『罪に対しては死んだ者‥‥‥神に生きている者』と(ローマ六・十一)。
ヨシュア記の五章において注意しなければならない三つの大きな出来事があります。
〔一〕 割 礼 の 儀 礼
『その時、主はヨシュアに言われた、「火打石の小刀を造り、重ねてまたイスラエルの人々に割礼を行いなさい」』(五章二節)。
彼らがこの国に入ることができたのは神の契約のためでありました。それで彼らは今や契約のしるしを取るはずでありましたが、それは割礼でありました。まず第一のことは彼らが契約に真実であるかどうかを見ることでありました。私共も心を探りとうございます。私共は契約に真実でありますか。神はご契約のご自身の側を果たしておられます。私は私の分を果たしていましょうか。あなたは鋭い小刀を取って、肉に属ける一切を切り取らねばなりません。心に届く割礼は、肉の罪のからだ全部を私から切り離すのであります(コロサイ二・十一)。もしもあなたがキリストと偕に死んで偕に甦っていますならば、そして主の再び来られることを待ち望んでいますならば、『地上の肢体‥‥‥を殺してしまいなさい』(コロサイ三・五)。どうぞあなたの生涯の隅々、隈々までが神のご契約にかなっているかどうか、あなたの立場がこの国に神の子供として相応しいかどうかをお考えなさい。罪は神の御言の鋭い小刀によって切り取らせなさい。
中国で開かれたゴーフォース氏の一つの集会で、一人の中国人が非常に深く感動いたしました。家に帰って妻に言うのに、「この二、三日、私は主イエスを王とすることについていろいろ聞いた。いま私はいよいよそれを実行するつもりだ」。すると妻は言いました。「そうするといたしますと家庭内のことでも商売上のことでも、かなりたくさん改めなければならないことがありますね」。「そうだ」と彼は申しました、「そのことをするのだ」と。そしてその晩いろいろ相談してすっかり改めましたが、一つの結果は、看板を造って家の前に掛けることでありました。その上にはこういう言葉が記されてありました。「この家では、主が王である。我らは彼の小さきしもべらである」。彼はまた同じ言葉を上衣にきれいに刺繍しました。これはヨシュア記第五章における割礼の意味でありました。すなわちご契約に従ってすべてのことを正しく改めることであります。
〔二〕 穀 物 の 蔵 蓄
第二の出来事は、彼らが『その地の古き(=英訳)穀物‥‥‥を食べた』(五・十一)ことであります。神は今までマナを与えてこられましたが、今や彼らはもっと堅い食物を摂るべきでありました。その時その時に養われている幼子らのようではなく、あらかじめ集め蓄えて、九ヶ月以前に熟した古い穀物に養われるはずでありました。今や堅い食物が彼らのものであったのであります。ヘブル書五章十四節には『堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである』とあります。彼らはその知力を働かせましたから、神はさらに多くの能力を与えられました。或いはあなたは聴くことに鈍くして知力を活かし働かせず、乳ばかり飲んできているかも知れません。あなたは、単純でわかりやすいのでしばしばヨハネによる福音書ばかり読むことを好みました。或いは書翰の或る部分、または詩篇の一部ばかり読んでいるかも知れません。おお、神は、もはやヨルダンを渡りましたなら、あなたが堅い食物を摂ることを望まれます。あなたは贖罪について、また聖霊の教理について、深く悟らされることが必要であります。神はあなたに再臨やその他の深い事柄について知らせたいのであります。彼はあなたが毎日、何か麗しい思想を得るばかりでなく、それも有益ではありますが、或る実際的な霊的教訓を得て、知力を煉り、神の深き事柄を知る知識に進むことを求められます。レビ記はあなたにとってどういう書でありますか。ロマ書はいかがですか。ヘブル書はどうですか。ヘブル書は聖潔についての驚くべき良書であります。
ご記憶のように、主イエスは聖霊のバプテスマを受けられてから荒野に行かれました。主は三つの試練において、ことごとく申命記からの御言葉をもって悪魔に答えられました。私はたぶん荒野へ申命記を持って行かれたと思います。申命記と言えば、これは聖霊に満たされたばかりの人にとりまして誰にでも適当な書であります。主は、あなたがその地の古い穀物に養われ、善悪を弁別するために知力を練って霊の筋力が強くなり、かくして神のすべての真理を充分に証し得て、他の人々をもこの土地に導き入れることのできるような者になられることを望んでおられます。あちらこちらの修養会においてたくさんの人々がこの地に入られることを疑いません。しかし、他の人々をこの恵みの地に導き入れることのできる人が、英国にもまた他の所にも如何に少ないことでありましょう。神は、人々が他の方々をも純潔と力とに導き入れて、主イエスの中にある満ち足らせて下さる分を彼らに示すことを求めておられるのであります。
〔三〕 軍 旅 の 将 の 黙 示
さて、第三のことはこれであります。すなわちキリストが主将として顕されております。この民の道には恐ろしい困難が横たわっておりました。エリコがそこにあったのであります。彼らは、一度その地に入るならば、もはや一切は滑らかにたやすくあるだろうと考えたかも知れません。同じようにあなたもたぶん、潔められて満たされるならば一切は滑らかに行くと考えたでしょう。常に勝利、平安と喜び、光と楽しみばかりであろうと。そうです。一面から見るならばそれは真理でありますが、しかし、あなたが聖霊をもってバプタイズせられてこの地に入られましたならば、ほとんどただちに、或るエリコ、すなわち何か打ち勝ち難い困難、或いは非常に危険なことに出会われることを疑いません。イスラエルの子孫は戦いのことにおいてこの上もない危険に遭遇しておりました。もしも神が彼らに勝利を与えられるのでなかったならば、彼らはこの上もない損害を蒙って、ヨルダンの彼方に追い返されてしまったことでありましょう。しかも、ああ皆様、私は憂えて申します。これは修養会の後においてさえも起こることであります。神の民は、その前にエリコのあるために、そして信仰による勝利の缼けるために、全く敗北して追い返されてしまいます。しかし感謝すべきかな。あなたがあなたのエリコに参ります時に──それは必ず一度は来ることでありますが──、その時に神は勝利の道を示して下さいます。軍旅の将、勝利の与え主が顕されます。そこにおいて、主ご自身があなたに黙示されましょう。そして、あなたは主を新しい風に知ることでありましょう。彼はイスラエルの子孫のために出エジプト以来すでに多くのことをなして来られました。救い主であり、供給者であり、祈りに答えられる御方であり、秘密をも顕される御方であります。しかし、ここにおいて、主はご自身をヨシュアに新しい有様において黙示なさいました。すなわち、ヱホバの軍旅の将であり、勝利の与え主であられます。皆様もヨルダンを渡り切り、信仰によって聖霊のバプテスマをお受けなさいましたから、主は新しい風に、そして今までよりもさらに深い、また一層驚くべき有様に、ご自身をあなたに示して下さいます。主はまた、自ら主将であり、あなたの全責任を持って下さる御方なることをも示されましょう。あなたは自分のことを自分で引き受けて行く必要はありません。彼こそ責任を持って下さる御方であり、まつりごとをその肩にしていて下さるただ一人の御方なのであります。しからばヨシュアのように、新しい明け渡しをもって、新しい意味をもって「私ではなく、キリストです」と申し上げつつ、彼の御足の下に倒れ伏しなさい。未来において勝利のあるためには、今ヱホバの軍旅の将である主ご自身に対しての新しい服従と新しい信頼とがなければなりません。このようにヨシュアはヱホバの軍旅の将に出会いましたが、主将は申しました。『わたしはエリコをあなたの手にわたしている』と(六・二)。ヨシュアが神の手に陥りました。そこで直ちにエリコはヨシュアの手に陥ったのであります。
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