三  特 別 な る 祈 禱 の 時



 イエスはこのように常に祈りの霊の中に生きました。彼は絶えず神に語り、常にご自身とともにおられる父に対するように、お語りになられました。しかし彼の心は、また一層深い乱されない交わりを慕われ、彼の働きもまた、しばしば時間をかけた懇求と禱告とを必要としたのであります。このように私共は、主がひそかな祈りと神との交わりとのために特別な一定の時を献げておられるのを見るのであります。
 そのように主が祈られたのは、いつも同じ時刻ではありませんでした。或る時、主は午後のすべてを費やされました。それから長い宵の時、徹夜、また早朝の時もありました。このように私共も一日のうち、いつでも私共の平素の仕事を離れて、神との交わりに、時を使いたいものです。
 いま、キリストのこのような祈りの時について学びましょう。マタイ十四章二十三節にてはこのような
     午   後
が祈りに費やされていることを読みます。私共の中にも午後にしばしば良い祈りの機会を持たない者はほとんどありません。仕事の重圧を、祈りの時が持てないことの口実にできる人はひとりもありません。キリストはいつも忙しくしておられました。しかし主は祈りの時を持つために熱心な聴衆をも斥けられました。たびたび主はそのようになさいました。
 ルカ五章十五、十六節には『しかし、イエスの評判はますますひろまって行き』とあって、主の御名はますます広まり、称讃され、多くの人々は御言葉を聞きに参りました。主は説教し、また人を癒された後に荒野に退いて祈られました。多くの人々が私共の言葉を聞きに参ります時、そしてまた、私共も評判となり、働きは祝され成功して霊魂は救われ潔められる時、その時こそはまさにキリストがなさいましたように、それら一切から退いて長い祈りの時を持つべきであります。主はいつも人に丁寧でありました。しかし決して人に対して親切をするために神に対する礼儀を欠くことはありませんでした。群がる人々が彼に付き従い、彼の言葉に聞き入りました。かねて主は驚くべき結果を得ておられたのであります。病は癒されました。人々は歓喜に満たされ、彼に熱中しています。今まさに主は驚くべきさまを、人々の間に現されたところです。次の歩みは何ですか。休息ですか、くつろぎですか、交わりの喜び、また歓談ですか。否! 悲しむべきことには、主の従者である者たちは、主のために働き、それが成功したあと、このようなことになりがちです。もし、そうしたことが私共にもありますならば、まさに悔い改めるべきであります。主は人を離れて父のみもとに退かれました。群衆を離れ、その称讃を後にし、友を離れ、その同情を振り切り、神を求めなさいました。働きについて申し上げ、また、恵みの御言葉を聞いた人々のために祈ろうとして神を求められました。
 ゲツセマネにおいては主は
     祈 禱 の 夕 べ
を過ごされました。夕食は終わりました。そしてその時から裏切られる時まで二、三時間の時を主はかの場所で祈り続けておられました。それは闘いの時でした。世はより容易な途で救われないものだろうか。十字架は負わなければならないのか。主は問題に直面されました。彼は払わなければならない値を計りました。そして、ついに十字架を選ばれました。
 私共も、私共の生活におけるゲツセマネ、すなわち自己に死んで十字架を負うべく進み出た時を振り返り見るでしょうか。私共がこのように死ぬのでなければ、霊魂は救われません。今もなお、より深く死ななければならない死が私共の前にあるかも知れません。神とただ一人、その問題に直面致しとうございます。心を強くして一切に対して死にとうございます。霊魂の救われるためであります。
     祈 禱 の 夜
の記事がルカ六章十二節にあります。このとき主は、地上の神の国の基礎として最も大切な踏み出しをしようとしておられます。十二使徒の選定であります。私共にも世にある御国の拡張のために何か大切な一歩を取らなければならない時が参ります。その時、私共はそれについて多くの時を祈りに費やさなければなりません。そのために昼間に静かな時が得られなければ、夜に得ることができます。とにかく、その問題に関して必ず長い間、神との交わりを持つことをするようにいたしたいものです。
 マルコ一章三十五節では
     早 朝 の 祈 禱
について読むのであります。前夜おそくまでキリストは働いておられました。教えと癒しのために大いに注ぎ出しておられました。主は肉体の休息を必要としておられますが、それにもまさって霊の能力を新たにされることを必要とされます。そのため夜明け前、非常に早くに起き出されて、寂しい場所を求めて、そこにご自身の神またお父様とお会いになります。私共にとりましてもまた早朝は、神を求め、また神とお会いするのに最も良い時であります。『朝はやく』起き出でなさい。そしてあなたが『主の前に立』つところまで静まりなさい(創世記十九・二十七)。聖書の中に、朝早く起きることと、その時刻において神が与えたもう恵みとについての引照が少なくとも六十二ほどあります。どうぞ怠慢のゆえにそれらの恵みを損なうことのないようにしとうございます。各自は断乎たる決心をもって、このことにおいてもキリストの模範に従いとうございます。このようにして朝早くに主を求める者は必ず神を見出すことができます。
 私共は主が聖霊のバプテスマの後に荒野に出て行かれたのを見ます。それは
     祈 禱 の ひ と 月
を過ごすためでありました。主はきっとこの天の開けた経験と、御聖霊がご自分の上に来てとどまって下さったことの経験との後に、神に近づくことの必要を感じなさったのでしょう。主は祈禱と断食に四十日を過ごされました。しかし主は、ただ神に近づかれたばかりでなく、またサタンにも近づかれたのです。ちょうどモーセが民を救い出す前にパロに直面しなければならなかったように、キリストも人々をその残酷な支配の手から導き出す前に、まずサタンに直面し、彼を征服しなければなりませんでした。霊魂を得る者はみな、何かこの類の経験をしなければならないことを私は信じます。あなたが他の人をサタンの権力から救い出そうとするならば、あなたはまず、ひそかにサタンに渡りをつけ、まず勝利者とならなければなりません。どうぞ私共も、この恐ろしい経験に主と共にあずかる者となって、主のなされたように囚われている者に救いを宣べ伝えるために御霊の能力をもって出て来る者となろうではありませんか。
 あなたは祈りのために静かなる場所を得ることが困難でありますか。私共の弓がいつも強く、私共がいつも征服する力を保つ者であるためには、どうしても静かなる祈りを保たなければなりません。マタイ六章に主は、私共が隠れたるところにおられる父に祈る最善の場所として、部屋に入り戸を閉ざせと仰せになっています(六節)。主自らまた戸外の田舎の寂しい所を用いられました。私共はそのいずれへも退き隠れたいものです。家におらなければならない時があります。しかしまた、人の住む里から遠く離れ、森の静けさの中や丘の頂きにあって、より近く神に近づき得る時もあります。誰でありましても御霊が能力をもって宿っている者は、時に御霊に追いやられて人のいない寂しい所、どこか荒野に導かれるに相違ありません。
 私共は主がしばしばひとり祈っておられることに注目してきました。主はまた、時として弟子たちをお連れになって祈りに行かれました。ルカ九章十八節では主はひとり祈っておられますが、弟子たちも共におります。ルカ十一章一節にも同様のことがあります。ゲツセマネにおいても主は他の者たちがご自分と時と所を共にして、共に祈りに加わることを望まれました。このように私共もまた、他の人々を招いて共に祈るならば、祈りにおいて祝福と力とを味わうでしょう。必ずしも祈り会として皆が声高く祈るという必要はありません。このように集まる一同が祈禱の霊に重荷を負わされ、どこか静かな所に集えば充分でありましょう。

 このように私共は主の模範に従って、神との交わりに、また祷告に、長時間を献げたいものです。主は何ものによってもこれを妨げることを許したまいませんでした。このことにおいては何の口実も許してはなりません。そうするならば私共は常に力を新たにし、神に対して常に『全地の主のかたわらに立つ』しもべたちでありましょう(ゼカリヤ四・十四、六・五、列王紀上十八・十五〔英訳では『わたしの仕える』はbefore whom I stand〕、詩篇百二十三・二、ルカ一・十九)。



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