第 四 章
これまでの三章を通して三つの素晴らしい救いの事実を学びました。第一章では恩恵により船夫らが救われました。船夫らは颶風から救われ、人々は大いにヱホバを畏れました。第二章では祈禱に答えられてヨナが救われました。第三章では悔改めによってニネベが救われました。
ニ ネ ベ の 救
かくてニネベは救われました。神はお喜びになりました。疑いもなく天において大いなる歓喜があったでしょう。『我とともに喜べ、失せたる我が羊を見出せり』(ルカ十五・六)。天において大いなる歓喜がありました。しかるに『ヨナこの事を甚だ惡しとして烈く怒り』(四・一)。彼は神の御意に同情できませんでした。ヨナは彼の説教に驚くべき結果を見ました。しかし大きな結果のありましたことが必ずしもその人が神と偕に歩んでおります証拠にはなりません。
心 の 誤 れ る 説 教 者
この厳かな事実によって、私共はいかほど奉仕において成功いたしましても、神との関係において正しいとは言えないということを警戒せられます。ここでヨナは神と同一の心になっておりません。彼は予期だに致しませんでした驚くべき光景──麻布を纏うたニネベを見ました。ニネベは真の神に只管呼ばわりました。しかしこれはヨナを怒らせました。ちょうどこれは放蕩息子の兄の精神です。彼は放蕩息子の帰ってきたのを喜び楽しむ父を見て怒りました。ヨナも『烈く怒り』ました。
『ヱホバに祈りて曰けるは』(四・二)。彼が跪いたのは大変良いことでした。烈しく怒った時にも祈り得たことは、彼が神の恩恵を多分に持っていたことを表します。彼は怒ったことを恥ずかしく思いまして、これは何か自分に誤りがあると感じたに相違ありません。怒ったり苛立ったりした時に跪くことは良いことです。それをそのまま神にお話しなさい。『エホバに祈りて』。
ヨ ナ の 信 条
そうしてヨナは驚くべき証詞を神になします。彼は神御自身の姿と神の恩恵と神の栄光の様とを鮮やかに見ていた人でした。彼の言をお聴きなさい。『我汝は矜恤ある神 憐憫あり怒ること遲く慈悲深くして災禍を悔たまふものなりと知ばなり』(四・二)。これは驚くべき信条ではありませんか。ヨナは真にこの信条を持っていたと思います。彼は真に神が矜恤と憐憫あり、怒ること遅く慈悲深い御方であると知っておりました。この神の描写は実に偉大であります。新約聖書においてさえこれに匹敵するような大きい信仰があるだろうかとさえ思われます。ここまで私共の信仰が来ますならばよいことです。
しかし彼は『ヱホバよ願くは今わが命を取たまへ 其は生ることよりも死るかた我に善ればなり』と続けて申しております(四・三)。彼は彼の説教が虚偽になってしまったと感じました。彼はニネベが滅亡てしまうと預言しました。然るに反対にニネベは救われました。自分の預言が虚偽となってしまったことの方が、神との一致を缺くということよりも彼にとっては苦しかったのです。彼が苦しんでいるその事を却って神は喜んでおられるということに彼は気がつかなかったと見えます。
彼は『其は生ることよりも死るかた我に善ればなり』と言っております(四・三)。もちろんこのように言うことができるのは良いことです。パウロも『我はこの二つの間に介まれたり。わが願は世を去りてキリストと偕に居らんことなり、これ遙に勝るなり』(ピリピ一・二十三)と言っております。もちろんヨナも『生るよりも死るかた我に善』しという、永遠の救いの明確な確信を持っていなくてはなりません。しかしこの場合は、このように言うのは誤りです。彼が神に対して誤った態度にあることを示すのみでした。
神 の 質 問
『ヱホバ曰たまひけるは 汝の怒る事いかで宜しからんや』(四・四)。神はこの質問を残してヨナからお去りになったように思われます。神はしばしば質問を残してその僕から去りたまいます。夜、眠れない時など、あなたの心の中を疑問が去らない時がありますでしょう。神はあなたがそれを解いて神に返答するようにさせておいでになるのです。
ヨ ナ 説 教 を 止 む
『ヨナは邑より出てその東の方に居り己が爲に其處に一の小屋をしつらひその蔭の下に坐して府の如何に成行くかを見る』(四・五)。彼は説教者とならないで見張り人となってしまいました。彼はむしろ二節の後半に言っていることをニネベの中に住まって説教した方がようございました。人々は喜んでそのようなメッセージを受け入れましたでしょう。彼らは神が或いは悔いて烈しき怒りを止めて下さらないものかと不安に襲われておりました。故にもしヨナが神は喜んで怒りを止めたもうと告げましたならば、そのメッセージは非常に受け入れられ易く、またニネベのリバイバルを確実にしたでありましょうと思います。
そのリバイバルは、実際は続きませんでした。他の預言書を見ますならばニネベは罪に戻って間もなく滅亡されたとあります。レイヤード博士は千八百五十年にその廃墟を発掘しました。高等批評家は、ニネベなどという邑は地上に跡形も残っていないのだからそんな邑はなかったのだと申しておりました。しかるに府は発掘されてその実在が証明されました。ヨナが見張り人とならずして再び説教をしに戻りましたなら、多分その業は確くせられ、ニネベは一時的でなく永久的に救われておりましたでしょうと思います。
神 の 業 を 見 よ
然るにヨナは邑より出でて小屋の中に坐り、邑が如何に成り行くかを見ておりました。ここにも私共の学ぶべきことがございます。私共は静かに坐して神が如何になしたもうかを見る方がよい時があります。私共が神の命じたまえる言に随って私共の分を尽くしてしまった時こそ、静まって祈り、神が如何になしたもうか、結果が如何になるかを見る時です。ヨナは邑が如何に成り行くかを見んがために彼処に坐りました。
神 の 慰 め
『ヱホバ神瓢を備へこれをして發生てヨナの上を覆はしめたり こはヨナの首の爲に庇蔭をまうけてその憂を慰めんが爲なりき』(四・六)。これには二つの目的がありました。一つは彼の頭を覆って彼の体を保護するためです。もう一つは彼の憂いを慰めてその霊魂を救わんためでした。肉体と霊魂とを助けるためでありました。神はしばしばその民の肉体のためにもご用意下さいます。列王紀上十九章では神は天使をして食うべき水とパンとをエリヤのために供えしめたまいました。主イエスはヨハネ伝二十一章において、終夜労して獲物のありませんでした飢えて濡れていた弟子たちの肉体のためにご用意下さいました。彼らに仰せにならなくてはならない事がたくさんありましたにも拘わらず、主が第一にお気づきになったのは朝食の準備のことでした。そして主が弟子等にお話しになったのは『斯て食したる後』(十五節)でありました。ここでも同じことです。恩恵の主はヨナの肉体のために瓢を用意なさってヨナの憂いを慰めようとなさいました。苦難の時において励まし慰めんとして神があなたに与えたもう賜物も同じような性質のものです。
ヨナの浅はかな感情
『ヨナはこの瓢の木によりて甚だ喜べり』(四・六)。ヨナは二節では烈しく怒っているかと思えば、六節では甚だ喜んでおります。神が悲哀を喜悦に変えたもうことは如何に速やかなことでしょうか。どなたでも神様が私共のためにかかることをなして下さいました時のことはお忘れになりはしないでありましょう。神はここでそれをなしておいでです。ヨナの悲哀を喜悦に変え、彼に庇蔭を与え、その憂いを慰めようと隠れ処を与えたまいました。『ヨナはこの瓢の木によりて甚だ喜べり』。しかしまたそれは何と浅はかなことでありましょう。何とつまらないことでありましょう。ニネベの悔改めました時に神は非常にお喜びになりました。その時に神は非常に喜び楽しみたもうたにもかかわらず、ヨナは烈しく怒りました。邑中が救われた時に少しも喜びませんでしたヨナが、彼の肉体に僅かばかりの慰めが来た時に非常に喜びました。私共はこの事によって充分に心を探られなければなりません。誰か他人が救われたという救いの報知が来た時よりも、何か一時的な慰安が来た時の方がよほど勝った喜びを持ちは致しませんか。他人が救われた事を聞いた時は喜びもしませんのに、何か小さな慰安が与えられると非常に喜びは致しませんか。
虫 と 風
瓢のような慰安の源泉は常にその中に虫がおりまして永続きしないものであります。神はいつでも私共の喜悦が永続きするか否かお試しになります。ハバククの喜悦のようなものであるかどうかお試しになります。ハバククの喜悦は『無花果の樹は花咲ず葡萄の樹には果ならず』(ハバクク三・十七)とも続きました。神は虫を備えなさいました。瓢は枯れて、それとともにヨナの喜悦も去ってしまいました。
『かくて日の出し時神暑き東風を備へ給ひ』(四・八)。神は瓢を備え、虫を備え、東風をも備えたまいます。神は辛抱強くこれらの自然界の事象、これらの些細な事柄をもってその僕を取り扱いたまいました。神はその僕を瓢や虫や東風で試験なさったのです。つまらない事が私共を非常に喜ばせ、つまらないことが私共を苦しめ悲しませるものであります。神は両方面から私共をお試しなさいます。私共の信仰は岩の上に基を置いていますか。私共は常に喜ぶことができましょうか。如何なる状態にあっても満足することを学んでおりますか。これは神がパウロをお仕立て上げなさった学校における大きな学課でありました。神はいまヨナを訓練なさいます。また私共一人ひとりをも訓練なさりとうございます。
ニネベを我惜まざらんや
神はヨナに『瓢の爲に汝のいかる事いかで宜しからんや』と仰せになりました(四・九)。然るにヨナは『われ怒りて死るともよろし』(同)と申し上げました。そこで神は『汝は勞をくはへず生育ざる此の一夜に生じて一夜に亡びし瓢を惜めり。まして……ニネベをわれ惜まざらんや』(四・十、十一)と仰せになりました。おお、これは神の大御心をあらわしております。神はヨナにご自身の御心をお示しになりました。神はヨナの心が如何に浅はかで、少しも分別なく、少しも神の御心をお察し申し上げないかを示したまいました。そして今ご自身の大御心を披瀝なさったのであります。『まして十二萬餘の右左を辨へざる者と許多の家畜とあるこの大なる府ニネベをわれ惜まざらんや』(四・十一)。そこには十二万余りの幼児がいると言うのであります。その幼児の故に神はニネベを惜しみたまいます。これには深い教訓があると思います。今でも幼児らのいるが故に惜しまれ恵まれている家庭がたくさんあると信じます。神は幼児の故にニネベを惜しみたまいました。いわば幼児は沈黙のうちに訴えていたのです。神がニネベを御覧になった時に多くの幼児が神に向かって訴えているのを見たまいました。十二万余りの幼児がいたというのです。それだけで神にとって充分でありました。十人の義人があればソドムを救うことができました。これらの幼児は神の御手を止むるに十分でありました。これらの幼児の故にニネベは惜しまれたのであります。
幼 児 と 家 畜
幼児とは如何に神聖なものでしょうか。また私共の心をも動かすことでしょうか。しかるに幼児ばかりでなく、家畜すらも神に対して訴えていたというのです。神は家畜をも憐れみ恵んでいたまいます。ニネベは今まで神に反抗し続けて参りました。ニネベは罪悪と放縦とで深く堕落しておりました。しかし、そこにこれらの罪なき黙せる家畜がおりました。そして神はその家畜を御心に留めていらっしゃいました。この黙せる家畜も神に対して暗黙のうちに訴えていたのです。故に神は十二万余りの右左を弁えざる者と許多の家畜のゆえにニネベを惜しみたもうたのです。
ヨ ナ 黙 す
かく神は御自身の僕をお取り扱いになりました。神は彼と議論なさいました。ヨナは神と論争を続けました。ヨナは自分の怒りを正当化したくありました。しかし神は辛抱強く彼をお取り扱いになりました。神は辛抱強く彼と議論し、辛抱強く彼にお話しかけになりまして、彼の立場の不合理なこと、神の立場の正当なことをお示しになりました。神のこの態度が議論を終わらせたと思います。ヨナは最早一言の余地もなく神に降伏しました。神は人がついに神に降伏するまでは、彼が如何に罪人なるかをお示しになりません。ただそのお取り扱いの中に御自身の憐憫と恩恵と柔和とを示して下さいます。
それゆえ神が私共と議論したまいます時には注意致しとうございます。私共が神の教訓を受け、彼に服従し、彼の途に進むように心がけとうございます。殊に最後の二章においては不朽なる霊魂の価値を学びとうございます。私共はヨナのように物質的な利益をのみ考え過ぎてはおりませんか。しかし不朽の霊魂のことを第一に置きまして、神はそれを如何に考えていらっしゃるかを悟り、如何にして霊魂を救うべきかに励みとうございます。
ヨナ書霊解終
昭和七年十一月二十日印刷 定価金貳拾銭
昭和七年十二月 一日発行 (送料金貳銭)
不許複製
訳 者 御 牧 守 一
兵庫県明石郡垂水町盬屋八十七
発行人 澤 村 五 郎
兵庫県明石郡垂水町盬屋八十七
印刷者 落 田 健 二
兵庫県明石郡垂水町盬屋八十七
印刷所 日本伝道隊聖書学舎出版部
兵庫県明石郡垂水町盬屋八十七
発行所 日本伝道隊聖書学舎出版部
振替大阪七六〇八九番
(電話舞子四〇九番)
| 1 | 2 | 3 | 4 | 目次 |