第 二 章
『ヨナ祈禱て』
『ヨナ魚の腹の中よりその神ヱホバに祈禱て』(二・一)。彼の祈禱には効き目があるでしょうか。何か役に立つでしょうか。彼は神にも人にも捨てられてしまいました。かかる者の祈禱に何の益がありますか。彼は明らかに神の怒りを身に受けて、極の極まで投げ捨てられました。神の聖顔は彼を見放してしまいました。しかるに彼は主なる己の神に魚の腹の中から祈りました。
もしヨナがかかる事情の許でも祈ることができたとしますならば、もし彼がかかる罪と叛逆と頑固の後に祈り得たとしますならば、そしてかかる場所と状態から祈り得たとしますならば、如何なる人でも祈ることができ、如何なる人でも聞かれることができる筈であります。私共も如何なる境遇にあろうとも大胆に祈る事ができます。『その時ヨナ……祈禱れり』。
ヨナがかく祈り得たということは不思議です。罪は一般に人の心を頑固にしてしまうものです。しかるにヨナは祈りました。主がダマスコのアナニヤに、タルソのサウロが真に改心した証拠として、『視よ、彼は祈りをるなり』(徒九・十一)と仰せになりました。実際、タルソのサウロが祈っているなどということは考えもつかないことでした。しかしそれがアナニヤにとってはタルソのサウロが罪を自覚し改心した証拠でありました。
『ヨナ……祈禱て』。これは確かに彼の心に変化が起こり、神のお取り扱いによって悟り始めた証拠でした。『ヨナ……祈禱て』。神の聖前から遁れ去り、神に背を向けてしまったように見える不従順な子供や友人を持っている者にとっては、この事実によって如何に励まされることでありましょうか。神の聖前から全く退けられ、全く絶望の状態に陥り、如何なる事をしても救い出すことはできないように見ゆる時ですら、神の御手は届き得、なお救い得る──御声をもって近づき、恩恵をもって新しき生命に引き入れ得るという激励を、この第一節は与えるではありませんか。かかるが故に私共は希望と期待をもってかかる者のために祈り続けることができるのであります。
ヨナと放蕩息子
『ヨナ魚の腹の中よりその神ヱホバに祈禱て』(二・一)。ルカ伝十五章と比較すると面白うございます。放蕩息子もヨナと同様に父の家に背を向け、父の愛を捨てて己が途に行きました。ヨナもまたニネベに行きて神に従うよりはタルシシに行った方が良いと思いました。そして放蕩息子のごとく彼もまた最も低い状態、即ち陰府の腹の中にまで行ってしまいました。放蕩息子は全く神の途を見棄ててしまいましたが、しかし彼もまた祈ったのです。彼は自己に返り、祈って父を仰いだのであります。
ヨナの如き経験
『ヨナ魚の腹の中よりその神ヱホバに祈禱て』。詩篇を開いてみましょう。詩篇にはしばしばこの経験が描かれてあります。即ちヨナと同様な人々の霊的状態が記されてあります。そのような状態においても神に祈り、神より答えを頂いております。詩篇は、人間の経験を反射している驚くべき鏡です。あらゆる種類の経験が満ちていて、ヨナが魚の腹の中で祈って答えられたような場合をしばしば発見することができます。
第六十一篇には『あゝ神よ ねがはくはわが哭聲をきゝたまへ わが祈にみこゝろをとめたまへ わが心くずほるゝとき地のはてより汝をよばん なんぢ我をみちびきてわが及びがたきほどの高き磐にのぼらせたまへ なんぢはわが避所 われを仇よりのがれしむる堅固なる櫓なればなり われ永遠になんぢの帷幄にすまはん 我なんぢの翼の下にのがれん セラ』。『……地のはてより』──即ち神から最も遠ざかった場所、そこからさえも『汝をよばん』。よしや『わが心くずほるゝとき』であろうとも祈らん、これこそわが頼りです。
第百二十篇をご覧なさい。『われ困苦にあひてヱホバをよびしかば我にこたへたまへり』とあります。次の数節を見ますと、如何に恐ろしいところに彼が置かれてあったかを示しています。『わざはひなるかな 我はメセクにやどり ケダルの幕屋のかたはらに住めり わがたましひは平安をにくむものと偕にすめり』。されども困苦の中よりヱホバを呼びしかば我に答えたまえり。この人は困苦の中に在りつつも神はなお救い祝福し得る、今でも祈禱は答えられるということを経験しました。
第百三十篇を見ますと『ああヱホバよ われふかき淵より汝をよべり』とあります。これもヨナと同一の経験です。彼は神から遠く離れた深き淵にあります。『ああヱホバよ われふかき淵より汝をよべり 主よねがはくはわが聲をきゝ 汝のみゝをわが懇求のこゑにかたぶけたまへ ヤハよ 主よ なんぢ若もろもろの不義に目をとめたまはゞ誰かよく立ことをえんや されどなんぢに赦あれば 人におそれかしこまれ給ふべし』。
次に哀歌をご覧なさい。第三章には神の聖前から全く放擲せられ極端な困難に陥っている人々の哀歌が記されてあります。三章五十四節に『また水わが頭の上に溢る 我みづから言り 滅びうせぬと ヱホバよ われ深き坑の底より汝の名を呼り なんぢ我が聲を聽たまへり わが哀歎と祈求に耳をおほいたまふなかれ』とあります。彼は底深い坑の中に投げ入れられました。しかしそこからでも祈り得るということを知っておりました。そこからですらも彼の声は聴かれ、神は答えたまいました。
ロマ書の四章に参りますと、やはり絶望の状態から祈った者の物語を見ます。即ち十七節にアブラハムの経験が記されてあります。『彼はその信じたる所の神、すなはち死人を活し、無きものを有るものの如く呼びたまふ神の前にて我等すべての者の父たるなり。錄して「われ汝を立てて多くの國人の父とせり」とあるが如し。彼は望むべくもあらぬ時になほ望みて信じたり』。これはヨナの祈禱の他の一例と言ってかまいません。アブラハムは彼の祈禱がとても聴かれるとは思えない状態にありました。しかしかかるどん底から彼は祈りました。神は死人をも活かしたもうと信じました。ゆえにかかる時においてすら信仰の祈禱を献げることができました。彼は復活の神を信じました。死人をも活かし、如何なる不思議をもなしたもう神を信じました。死人を活かしうるとは、神でなくてはできないことだからであります。そして若し神はそれをなし得たもうならば、彼のために如何なる不可能事をすらもなしてくださるとさえ信じることができました(ヘブル書十一・十九)。ヨナの信仰も同様でした。死人の中からでさえ彼を甦らせることができる神を信じつつ、『ヨナ魚の腹の中よりその神ヱホバに祈禱て』、しかして神はそれを成就なしたまいました。
そうですからもし私共も復活の神、即ち死人をも活かし得る神を信じて祈るならば、こんな奇蹟中の奇蹟とも言うべき不思議なる業をなしたもう神は、確かに私共の祈禱にも答えたもうのであります。ヨナはかかる奇蹟をなしたもう神を信じましたから『その神ヱホバに祈禱』ったのであります。
ヨ ナ の 祈 禱
祈禱の内容をご覧なさい。これは素晴らしい祈禱です。これは聖霊に由って生み出されたものであると分かります。彼は九つの詩篇から引いています。聖書に記されてあります引照を全部ご覧になることをお勧め致します。これは非常に教訓に富んだ助けになる改作でありまして、引照を見ますとほとんど全部が聖書から出来上がっている事がわかります。聖書を暗誦していることは良いことです。聖言を引くことができるのは良いことです。神様に神御自身の御言をもって迫りますことは祈禱を力強いものにします。ヨナの心は聖言で一杯になっていたに相違ありません。ゆえに彼がこの難局に立った時に自然にそれが口を衝いて出て来て、聖言に由って祈ることができました。詩篇の中に、彼が置かれてあるのと同じ状態の写真を発見したのです。欧州大戦の恐ろしい惨状を通過した人の話によりますと、そのような場合に必要とする適当な助けを詩篇は与えてくれました。そして過去においては思いも寄らなかったような詩篇の聖句が再三再四心に浮かんで来ました。その一つ一つはその場合に最も要するような適切なものであったということです。
祈禱の聴かれるという確信
ヨナがここで握ったのはこのことです。彼は『われ患難の中よりヱホバを呼びしに彼われにこたへたまへり』(二・二)と言っております。ヨナは神が祈禱を聴いてくださる確信を握って祈り出したのです。『彼われにこたへたまへり』。彼は祈禱の応答を何ら経験したわけではありません。神が聴いてくださると確信したのです。『われ陰府の腹の中より呼はりしに汝わが聲を聽たまへり』。
詩篇三十四篇を見ましょう。これは赦を願った驚くべき詩です。繰り返し繰り返し神が祈りに答え、救いたまいしを見ることができます。六節に『この苦しむもの叫びたればヱホバこれをきゝ そのすべての患難よりすくひいだしたまへり』とあります。ヨナもここでかく祈りつつ、救いたもう神を期待していました。『汝我を淵のうち海の中心に投いれたまひて 海の水我を環り汝の波濤と巨浪すべて我上にながる』(二・三)。彼は彼が乗り込んだ船の船夫や船長に対して少しも恨むような苦々しき思いを持たず、一切を神の御手から受けました。一切は彼自身の罪の結果であり、誰の責任でもない事を悟っていました。故に彼は罰を神の御手より受けました。『汝我を淵のうち……に投いれたまひて』。
神の目の前より逐われて
詩篇八十八篇をご覧なさい。これはたぶん詩篇全巻中最も深刻な苦難の詩であります。五節に『われ墓のうちなる殺されしもののごとく死者のうちにすてらる 汝かれらを再びこゝろに記たまはず かれらは御手より斷滅されしものなり なんぢ我をいとふかき穴 くらき處 ふかき淵におきたまひき なんぢの怒はいたくわれにせまれり なんぢそのもろもろの浪をもて我をくるしめ給へり セラ』と。
これはヨナの経験です。神に叛いた罪人が誰も経験するところです。気がつかないかも知れませんが、かかる経験をしているのです。しかしヨナはかかる経験の中からでさえ神ヱホバに叫びました。四節に『我なんぢの目の前より逐れたれども復汝の聖殿を望まん』と言っております。汝の目の前より逐われたれどと。彼は神の顔を避けたかったのではなかったでしょうか。第一章三節に『ヨナはヱホバの面をさけてタルシシへ逃れんと起て』、また『ヱホバの面をさけて偕にタルシシへ行んとてその舟に乗れり』と。また十節にも『その人々はかれがヱホバの面をさけて逃れしなるを知れり』と繰り返されています。
彼は三度も第一章でそれを述べています。神の面は彼の恐れるところでした。しかるに今彼は『我なんぢの目の前より逐れたれども』と言って、神の面前より逐われていることを恐れています。彼はかつて神の面前を逃れたにもかかわらず、今は神に背を向けているこの立場を恐れています。神の目の前より逐われているということが分かりました。罪人は繰り返し繰り返し何度もこのことをいたします。神の面前を恐れて逃げるのですが、うまく神に背を向けることができたと悟ると今度は、その事が尚更恐ろしくなるという具合なのです。
神の聖殿を望む
しかしヨナは絶望しませんでした。『復汝の聖殿を望まん』と言っております。『されどわれ汝に祈らん』。ソロモンは宮を献げた時の大祈禱の中でかかる祈禱に答えたまわんことを神に求めています。
列王紀上八・三十八に『若一人か或は爾の民イスラエル皆各己の心の災を知て此家に向ひて手を舒なば其人如何なる祈禱如何なる懇願を爲とも爾の居處なる天に於て聽て赦し行ひ各の人に其心を知給ふ如く其道々にしたがひて報い給へ 其は爾のみ凡の人の心を知たまへばなり』。故にヨナはここでもう一度神のすみかを望み、神の答えを俟ち望みました。
ヨナの絶望的状態
しかし彼は五節、六節において彼のおかれている恐るべき状態を告白しています。『水われを環りて魂にも及ばんとし 淵我をとりかこみ海草わが頭に纏へり われ山の根基にまで下れり 地の關木いつも我うしろにありき』。これは絶望的な状態です。彼は地の関木が『いつも』彼の後ろにあると言っています。いつになっても到底そこから抜け出せそうにありません。ついに神に向かうまでは、救われるなどとは信ぜられもしませんでした。『地の関木いつも我うしろにありき』。
詩六十九篇一節を開いてご覧なさい。同様な経験が記されてあります。『神よねがはくは我をすくひたまへ 大水ながれきたりて我がたましひにまでおよべり われ立止なきふかき泥の中にしづめり われ深水におちいる おほみづわが上をあふれすぐ』。
罪人が陥り、彼が罪を自覚した時に初めて悟るところの悲哀の深さをこれ以上巧みに言い表すことはできないでしょう。『水われを環りて魂にも及ばんとし』ましたが、我『汝の聖殿を望まん』(四節)。それから六節には『しかるに我神ヱホバよ 汝はわが命を深き穴より救ひあげたまへり』。かく神を仰ぎ望んだことが答えを齎したのであります。神はその祈禱を聴き、彼の生命を深き穴より救い上げたまいました。彼はまだこれを経験していません。しかし信仰によって救いは来りつつあると信じました。たとい絶望的状態にあろうとも神は祈禱に答えたもうと信じました。人間的に考えれば望みなどあろう筈がありませんが、彼は『我神ヱホバよ 汝はわが命を深き穴より救ひあげたまへり』と言いました。
彼は神を憶えていた
第一節を見ますと彼は『その神』エホバに祈ったとあります。彼は神に背を向けていたとは言え、まだ神は『彼の神』(英訳)でありました。故にこの祈禱の中においても同様に『我神ヱホバよ』と叫んでおります。『我神』という所有代名詞が用いてあるのは彼に信仰があった徴です。彼はまだ神を捉えていました。彼は手に神の手をまだ握っておりました。故に『我神ヱホバよ……わが霊魂衷に弱りし時我ヱホバをおもへり』(七節)と叫んだのです。
しばしば霊魂が衷に弱って参りますと心は鈍くなり神を忘れがちになるものです。しかるに彼は憐憫に由りて、霊魂弱りし時に神を憶えておりました。詩四十二篇六節にも同様なことがあります。『わが神よ わがたましひはわが衷にうなたる 然ばわれヨルダンの地よりヘルモンよりミザルの山より汝をおもひいづ なんぢの大瀑のひゞきによりて淵々よびこたへ なんぢの波なんぢの猛浪ことごとくわが上をこえゆけり 然はあれど晝はヱホバその憐憫をほどこしたまふ 夜はその歌われとともにあり 此うたはわがいのちの神にさゝぐる祈なり』。彼はヨナの如き経験を通っていたものと見えます。彼の霊魂はうなだれてしまいましたが神を思い出しております。遙か遠く神から離れるだけ離れてしまったところから神を憶い起しております。かくして彼は祈りが神に『至り』しを知ることができました(七節)。
彼は今まで虚偽の声に聴き従って参りました。そしてその結果の恐るべき事を学びました。『いつはりなる虛き者につかふるものは自己の恩たる者を棄つ』(八節)。彼はこれを経験してきたのです。彼は今まで、いつわりの声なる悪魔の声に聴き従って参りました。その声は虚偽であり、空虚です。彼はニネベよりもタルシシに行く方がよいとの悪魔の声に従ってしまいました。そして彼は虚しき者の正体を見てしまいましたから、自己の恩であり自己の喜悦たる者に帰って参りました。彼はタルシシで安らかな生活を送りうると考えておりました。しかるにそれどころか、あらゆる祝福も恩恵も援助をも失ってしまいました。彼は経験して初めて悟ったのであります。
罪のための犠牲
しかし今、彼は悪魔の声に従わずして神の声に従い始めました。彼は神に降伏しました。神の命じたもうことは何でもする気になりました。九節に『我は……汝に献祭をなし』とありますのは『われ貴き血に訴へん』という意味です。壇の上の献げ物、即ち罪を除く犠牲です。私はあなたの前に何らの立場もありません、貴き血の外に何ら望みがありません、『我は感謝の聲をもて汝に献祭をなし』、十字架のゆえに神に感謝します。たとえ自己の罪を深く感じている時ですらもなお感謝の声をもって、その独子を賜うほどに世を愛したまえる神に感謝することができるのです。
『わが誓願をなんぢに償さん』(九節)。私は聖霊に導かれたと信じますからこれらのお約束をいたします。私はそれを実行いたします。あなたは約束を成就して私の生命を深き穴より救い上げて下さったのですから、私もこの約束を果たします。しかり、私はわが誓願を償します。
信 仰 の 告 白
かくして次に彼は信仰の大告白をいたします。『救はヱホバより出るなり』(九節)。自己の努力に由るのでもありません。また過去そうして来たように己の途を歩むことに由るのでもありません。救はヱホバより出るなり。彼こそは救いて満足を与える唯一の御方です。彼のみがこのことをなしうる御方ですから私は彼に依り頼みます。これはヨナの大告白でした。そして彼がこの告白をなすや否や、直ちに自由が与えられました。直ちに復活の生命に立ち上がりました。死より生へ移ったのであります。罪人が死より生へ救い出される時にもちょうどこの十節のごときことが起こります。『死より生へ』──これはヨナの経験でした。
祈禱により途が開かる
このようにヨナは祈りましたが、彼の祈禱の中には祈りに必要な心情の大部分が織り込まれてあります。彼の祈りが復活をもたらしました。彼の祈りの故に途が開かれました。祈っても途が開かれない人が多くあります。彼らはどうしても自由を握れません、もう一度広々とした所に出ることができないのです。彼らは周囲にある大浪小浪、或いは海草や関木から解放されません。どうしても自由が来ません。しかしヨナの祈禱は自由をもたらします。復活を与え、神の能力をもたらします。この祈禱によりヨナは受けたところの一切から解放されたのです。
今一度この祈禱を見返しますなら次の諸点を発見するでありましょう。
一、凝視。彼は如何に恐ろしい状態になってしまったかを判然と凝視しています。五節六節はそれを語っております。神の目の前より逐われて水の中に沈んでいる状態です。
二、砕けたる告白。彼は告白しました。それは神の罰であると告白しました。それは単に船夫らが海中に投げ込んだというのでなく、神の罰でありました。彼は淵の中に投げ入れられたと言っています。『汝我を淵のうち海の中心に投いれたまひて』(三節)。四節には神から逐われたと言っております。神の浪が彼の上を過ぎ行いたのでした。
三、希望。しかし彼は期待をもって祈りました。『われ陰府の腹の中より呼はりしに汝わが聲を聽たまへり』(二節)。彼は神が祈りを聴き答えたもうと予期して祈りました。彼は『我神ヱホバよ、汝はわが命を深き穴より救ひあげたまへり』(六節)と祈りました。
四、服従。彼は神に服従しました。『わが誓願をなんぢに償さん』(九節)。彼は明らかに『救はヱホバより出るなり』(九節)とわかりました。そして彼は生命の新鮮さを経験しました。こうして信仰の祈禱に由りあらゆる波濤から救い出され、乾ける陸に吐き出され、復活の生命と祝福の満ち足れる中に持ち来らせられました。
神は今日も変わりなき御方であります。私共が霊的になりさえいたしますならば、たとい罪のために神の聖前から逐い出されてありましょうとも、祈って全く救い出されることができます。あらゆる暗黒、あらゆる羈絆、あらゆる恐怖より、キリストの自由のただ中に入り得るのです。
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