ヨ ナ 書 霊 解

ビー・エフ・バックストン著
御  牧  守  一  譯


第 一 章



ヨ  ナ

 本書は他の預言書とは大分趣を異にしています。他の預言書は預言者の言葉で満たされているにかかわらず、本書は神のしもべに対する神の御取扱の有様が事細かに描写されてあります。この点ではヨブ記やエステル記に類似しています。

 ほかの預言者等を通して神は周囲の国々の罪悪を譴責し、きたるべき審判さばきを語っていたまいます。ヨナも罪悪と必ずきたるべき審判さばきを同様明確に宣言しています。しかしこの場合には異教徒が神の御言みことばを心に受けれ、深く悔い改めています。しかも神が彼らを恵み、審判さばきより救い、かえって聖霊の大氾濫を与えて、言うべからざる祝福を垂れていたもうではありませんか。外国伝道のにおけるこのリバイバルの物語は旧約聖書中に例を見ないものです。

ヨ ナ の 史 実 性

 ヨナ書を読んでいきますと、物語はさながら実話であって作り話とは思われません。

 確かにヨナは歴史上の人物でした。彼はイスラエルの諸王中最も偉大なりしヤラベアム二世の治世に生活していました。当時イスラエルにとっては非常な患難の時代でした。アッスリヤ軍により膨大な領土を侵略され、なお引き続きおびやかされていました。イスラエルを援助する王もなく、全く絶望の状態でした。かかる時しもヨナは希望と救拯すくいの預言者として立たされました。彼はアッスリヤ軍の手より『ハマテの入處いりぐちよりアラバの海までイスラエルの邊境さかひ恢復とりかへ』すべしとの神の御言みことばを頂きました(列王紀略下十四章二十五節)。神は約束に御忠実でありました。かれしもべが忠実に宣伝したこの希望のことばの如く神は成したもうて、『ヨアシの子ヤラベアムの手をもてこれをすくひたまへり』(同二十七節)。これらのことからしてもヨナは歴史上の人物であることがわかります。

 次にしゅイエスもヨナとその物語を歴史上の事実としてお話しなさいました。ニネベの人々が審判しんぱんに来て、彼等の悔改くいあらためほかの悔い改めざりし者どもの罪を定めるであろうとおっしゃったのです(マタイ十二章四十一節)。作り話中の人物が審判さばきに来るはずがありません。これはヨナが確かに生存している事を証明しています。

 第三に、主は御自身が与えたもうた多くの明らかなしるしを受けれなかった不信仰のユダヤ人らに、ヨナの経験こそは彼らに与え得る唯一のしるしであると申されました(同三十九、四十節十六章四節)。しかも主が御自身の死と復活の証拠としてヨナの物語をお用いになったのですから、いよいよその史実性は確実です。まさか主が御自身の復活を証明なさるのに作り話をお用いなさったとは思われません。キリストはまたニネベびとがヨナの宣べたことばで悔い改めたと仰せになりました。かくヨナの伝道は真実なりしことを裏書きしておられるのです。

ヨ ナ の 使 命

 『ヱホバのことばアミタイの子ヨナにのぞめり』(一・一)。神よりのことばであると明瞭あきらかに記されています。これは歴史的事実です。もし事実でなかったら誰もかかる書き方をしないでしょう。しゅは二度同じ恩恵めぐみを与えたまいました。第三章一節にも同様な事が起こっています。『ヱホバのことば』とは、第四章四十節にある『ヱホバいひたまひけるは』とは大分異なっています。後者の場合には神がヨナに対しあたかも友に対するが如く語っておいでになる意味合いが含まれています。或いはいさめ、或いは弁じ、彼を導き救わんとするが如く、或いはかれの理性と良心とに訴えんとする如きであります。しかし『ヱホバのことば』とは鮮やかな啓示であって、我らが見違えたり、聞き違えたりすることのできない、まがいもなき事実で、これは服従せねばならぬ神の御命令である事が分かり、今後如何いかに動作すべきかという明瞭めいりょうな指導と使命を与えられる性質のものです。神は愛という方面よりニネベに非常な関心を持っていらっしゃったゆえに『ヱホバのことば』がヨナに臨んだのです。もし彼らが悔い改めずば神は審判さばきたまわねばなりませんでした。ゆえに警告のことばを送りたもうたのです。

 神はこの高くしてきよき働きのために御自身のしもべヨナをお選びになりました。特に彼に神が最も心を痛めておられたこのお仕事をお委ねになったのです。それはニネベに救いの機会を与えるという仕事です。

ち て 往 け』

 ヨナの使命は『ちてニネベにく』ことでありました(一・二)。誰しも行くべきニネベを持っています。そこへ行くためには自己に死に、単純に神に頼らねばなりません。この命令の目的はニネベのすくいです。しかしそれはまたヨナのすくいでもありました。彼は神に対する真実まことの服従を学び、彼の生涯は『我にあらず、キリストなり』となる必要があったのです。彼は信頼と服従の訓練を受ける必要がありました。

 これと同様な『ちてけ』という命令がピリポにも来ました(徒八・二十六)。しかしてかれの幸いな働き場を去って、のちに大陸に福音の門戸を開く端緒となった一箇の霊魂たましいをキリストに導くために出立するように命ぜられました。それはペテロにも来て、異邦人に信仰の門戸を開くという思いがけざることをきてなすべく命じました(徒十・二十)。しかしてそれは今も主の忠実なしもべら各自に来て、或る個人の霊魂とか或る場所、或る国へくように命ずるのです。

 この召命と使命は、各自に如何いかなる生涯を送るべきか、如何いかにすれば最も善く祝福を受け、『祝福を与え得る者』(創世記十二章二節)となることができるかを教えるものです。これは『たゞ一つにてる』のでなく『地に落ちて死す』べき神の召命であります(ヨハネ十二・二十四)。

ニ ネ ベ

 この召命は、ニネベにき、しかも『よばはりせめよ』(一・二)というのでした。すなわち神は見たまわざるところなく、知りたまわないところなき御方である事、罪はそのしきり取らねばならないという事を彼らに告げるのです。彼らに警告を送り、彼らが悔い改めるなら神は救いたもうであろうとの希望を与えたもうのは、実に神の憐憫あわれみであります。しかしそれは『渡りて我らを助けよ』という異邦人の叫びに応ずる『それ神はその獨子ひとりごを賜ふほどに世を愛し給へり』、『神はすべての人の救はれ……んことを欲し給ふ』(ヨハネ三・十六テモテ前二・四)という福音のことばとは異なるものでした。

 しかし彼らの悪が神の前にのぼきたったのです。ソドムとゴモラの場合のように、その號呼さけびが神に至り、神はそれを完全に調査なさってその事実なることをお知りになりました。しかし神は審判さばきをなしたもう前にその憐憫あわれみにより彼らを警告せんと欲したまいました。ちょうど神は今も同様に個人をも取り扱いたまいます。神は『われらの不義をみまへにおき、われらの隱れたるつみを聖顏みかほのひかりのなかにおき』たもうのです(詩九十・八)。また聖顔みかおの光のうちにおいてのみ『其の罪甚だ重き』ことを知り得るのです。

タ ル シ シ

 たぶん神の召命はヨナに再三再四来たのでしょう。そして彼が祈りの中で神に近づけば常に神はこれを彼にお迫りになったでしょう。今もしばしば同様です。しかしヨナはしたがいませんでした。そこで、良心のとげから救われ、神の臨在を遁れ去らんとして、ついにタルシシに逃れることに決心しました。神は『ニネベ』と明らかに語りたまいましたが、悪魔は『タルシシ』とささやきます。ヨナは選択しましたが、悪い方を選んでしまいました。彼はニネベにけとの神の御言みことばが来ていると知っているのです。しかしタルシシに往きたかった。それでそこを選んでしまいました。

 しかし神の臨在をのがれ、その御声みこえの響きを遁れんといたしましても、それはできるものではありません。詩百三十九篇七節における『われいづこにゆきてなんぢのみまへをのがれんや』との問いに答えて、『われわがとこ陰府よみにまうくるとも よなんぢ彼處かしこにいます われあけぼののつばさをかりて海のはてにすむとも かしこにてなほなんぢのみてわれをみちびき なんぢのみぎのみてわれをたもちたまはん』と歌っています。ヨナは今このことを悟りませんでしたが、のちに分りました。そして『陰府よみの腹』の中からもさえ救いたもうと悟りました。

をり よ き 船

 そこでヨナはヨッパにくだりました。タルシシに出帆せんばかりになっている船がありました(一・三)。悪魔は神からのがれんとする者のために備えられた便りよき船を常に持っております。しかも神はその人を試むるためにそれを許していらっしゃいます。誘惑が大きな口を開いて来ました。彼にはそれに抗抵こうていして陥らないだけの力がありましょうか。かれの心は否応なしにそこに引きり込まれてしまいます。神は明らかに『ニネベ』とおおせになっているではありませんか。取り返しの付かない不従順の一歩を踏み出そうというのでしょうか。

 彼は価値あたいを払いました。神にそむくには常に犠牲を払わなければなりません。アダムは罪を犯して、エデンのそのを犠牲にしてしまいました。サウル王はそむいて、王国を失いました。アナニヤは罪を犯して生命いのちを失いました。『價値あたひ』は常に払われなければなりません。

 しかしヨナは、これで永久に不愉快な義務からのがれることができたと思いました。十字架を負って『地に落ちて死ぬ』など何と馬鹿らしいことでしょう。彼が取った道は神の十字架の道よりも遙かにいものに見えました。しかしそれは彼を遙かに下り坂へと導く道でありました。彼は『ヨッパにくだり行』きました。そして次には『舟に乗』りました(三節:英訳では went down into it)。また次には『舟の奥にくだりゐ』ました(五節)。始終くだるのみでした。堕落者は常に下り坂の道を歩んでおります。彼にはたぶん分からないでしょう。しかし彼の喜悦よろこびは減じ、能力ちからは消え失せ、神との交際まじわりは無くなり、平安が次第に去っていきます。いよいよ光輝かがやきを増して昼の最中まなかにいるただしき者のみちとは如何いかに隔たりがあることでしょう。ただしき者のみちは常に『向上前進』であります。『いよいよ高く……いよいよ高く』上るのであります(エゼキエル書四十一章七節:英訳では still upward と三度繰り返されている)。

神 の 干 渉

 ヨナは計画を立てて、神の御前みまえからのがれるくらいは手易てやすいことであると考えました。しかしたとい人間が如何いかなる提案を持ち出しても、神はそれを処理して御自身の意志を決行なさいます。ヨナは神をのがれることはできませんでした。囚人は逃亡しましょうが、警察では全国に刑事を出してすぐに捕らえてしまいます。

 詩篇三十二篇の八、九節には神がたみを導きたもう二つのみちを語っておいでになります。第一は目をもってなさるおん導きです。神にとっては、導きを喜び、心してち望んでいる者をお導きになるのは楽です。しかしもしかくお導きになろうとしましても、神の子等こたちがその合図に無関心であったり、或いは反抗的でありましては、どうしても神は、ちょうど手柔てやわらかい手段ではなかなか仕事をしない驢馬うさぎうまぎょするように、『くつわたづなのごとき具』をもってなさらなければなりません。それで主はヨナにも『くつわたづな』をお用いになる必要がありました。それによりヨナは自分が次第に低みに沈みつつある事が分かりまして、死の恐怖さえ感ずるに至らしめられたのでした。

はげ し き 颶 風はやて

 そこで主はヨナをとどめるために大風を起したまいました(一・四)。はげしき颶風はやてになりました。舟はほとんど破れるばかりでありました。

 すべての自然界は主の御支配のもとにありまして、主のしもべ悔改くいあらためと祝福とに導くために用いられるのであります。颶風はやては神のことばを成就しました。大きなうおも、或いはひさごも、目にとまらないような小さな虫も、東風ひがしかぜもそうでした。神はおの権能ちからことばをもってすべての物事を保ち導き、すべてのことを相働かせてあなたを悔改くいあらために導きたもうのであります(ロマ二・四)。

 はげしき颶風はやて船夫ふなびとらを恐れしめました。これは何か神の思召おぼしめしがあるのだ、ただ祈るよりほかみちはないと感じました。しかるに神がことに語らんと欲したもう者はその御声みこえに至極無関心で、熟睡しておりました。不従順は常に霊的鈍感と睡眠をもたらします。しかし神の民が眠っていても、その周囲の世人はちょうどこの船夫ふなびとらのごとく非常に難渋し、滅亡を恐れております。ヨナは多勢の人々の中で、しかも自分の起した患難くるしみの中で熟睡していました。

 船長ふなおさは彼を覚まして、祈ってもらいとうございました。実際、無関心で心が頑固かたくなになっている信者よりは、未信者の方がしばしば信者としてなすべき事をよく知っているものです。しかし祈るなどとはヨナにはできない事です。もし心が神に服従しきっていなければ、祈っても駄目であります。

 船夫ふなびとらは舟を軽くするために載荷つみにを捨てました。しかし如何いかに貴重な物を投げ棄てても平安は来るものではありません。神が私共をお取り扱いになる時、私共はいろいろなものを捨てるかも知れません。しかし標的まとに当たったものを投げ捨てなければ、平安を得ることはできません。標的まとに当たったものとは、神が現に私共と争っておられるところのものです。

神ヨナを指摘したもう

 船夫ふなびとらはくじを引いて、神が問題にしておられる者を発見しようといたしました。くじはヨナに当たりました。

 かく神は常に罪を明るみに引きいだしたまいます。隠れたることは必ずやねの上でべられてしまうのです。『なんぢわれらの隱れたるつみを聖顏みかほのひかりのなかにおきたまへり』(詩九十篇八節)、『必ずその罪なんぢらの身におよぶとしるべし』(民数記三十二・二十三)、『主はくらきにある隱れたる事をあきらかにし、心の謀計はかりごとをあらはし給はん』(コリント前四・五)。

 ヨナはそれを拒むことはできませんでした。彼らの質問に答えて明瞭な証詞あかしをなしました。『我は……海とくがとを造りたまひし天の神ヱホバを畏るゝ者なり』(九節)。そして神に従うべきであったところを従わざりし不忠実をへりくだって告白し、ヱホバのかおを避けて逃れし事を告げました。彼は正しい信仰を持っていましたが、それに従って生活していなかったのです。

 異教の船夫ふなびとらは彼の罪状を聞き、愕然として叫びました。『なんぢなんぞ其事そのことをなせしや』(十節)と。そして海を静かにするには『如何いかがなすべきや』(十一節)と問いました。罪の善後策はありましょうか。

罪の恐るべき結果

 不従順な神の子は自分に懲戒こらしめを受けるのみならず、他人にも危険を与えます。かれの受けた懲戒こらしめは他人にも、ことに彼に接近せる人々にも影響しました。しかるにパウロが難船した場合は、反対に同船のすべての人々に祝福と安全が及びました(徒二十七章)。神のまなことどめられている者、聖顔みかおの輝きのうちを歩んでいる者は、周囲の人々に助けとなり保護を与えるものです。人々は彼と共に神の祝福にあずかることができます。十人のただしき者が住んでいますならば一つの悪しき町も救われます(創世記十八・三十二)。神の恩恵めぐみは常に溢れ出て働くからです。

 ヨナはちょうどアカンがイスラエル全軍を困らせたごとく(ヨシュア七・二十五)、自分が全船の人々を困らせていることを悟りました。イスラエルが平安を恢復するには当のアカンを滅ぼす必要がありました。そして彼は『神に従ふうれひ』(コリント後七・十一)をもって罪を認め、悔い改めしことを示しました。自身を犠牲ぎせいとして献げました。『われを取りて海になげいれよ』(十二節)。

 船夫ふなびとらは見上げた人々でした。『船夫ふなびとくがこぎもどさんとつとめたり』(十三節)。しかし彼らの努力の甲斐はありませんでした。彼らはヨナを救いとうございましたが、できませんでした。罪が投げ捨てられざる間は平安は来ません。誰か神の審判さばきと戦うことを得ましょうか。『海かれらにむかひていよいよはげしくあれたればなり』(十三節)。船夫ふなびとらは神がどうしてもそうせざるを得ないように仕向けておられるのを感じました。そこで彼らはヱホバに帰りました(十四節)。もはや『おのおのおのれの神』(五節)に呼ばわりませんでした。彼らは自己の執らんとする手段が悪くともゆるしたまわんことを願って『ヨナを取りて海に投入なげいれたり』(十五節)。

船夫ふなびとの改宗とヨナの保護

 『海のあるゝことやみぬ』(十五節)。神はよみしたもうた事をかく示し、彼らに御自身の御心みこころなだめられたもうたしるしを与えたまいました。急に海が静かになったのは明らかに神のわざでした。それは船夫ふなびとらの心に触れました。彼らは確かにそれにり改宗しました。『かゝりしかばその人々はおほいにヱホバをおそれ』(十六節)。神を畏れることは智慧の始原はじめであり(箴一・七)、すくい恩恵めぐみを受ける第一歩であります。そして彼らは罪ゆるされんために『ヱホバに犧牲いけにへを獻げ』神と和解しました。加うるに将来神に仕えるという『誓願をたてたり』。かくてヨナの犠牲ぎせいとなりし事にりパウロの時のごとく『同船する者をことごとく』(徒二十七・二十四)彼に与えられたのではありませんか。

 神はたとえ御自身のしもべを見捨てたもうたように見えましても、決してそのままにしておくことを好みたまいません。ヨナが如何程いかほど罪の困窮くるしみの深みにありましても神は救いとうございます。神は既に方法を講じておいでになりました。神は決して面食らいたもう御方ではありません。自然界はすべて、『海と其等それらうち一切すべての物』(出エジプト二十・十一)はかれの御配下にあります。大きなうおがヨナを呑んでしまいました。これはヨナを滅ぼすためでなく、彼を教え、彼を癒すためでした。それは貴重な教訓を学び得るところの神のしもべの学校です。私共は恭敬うやうやしき畏懼おそれとをもって御心みこころに適う奉仕つとめを神になす恩恵めぐみを得たいものであります。『我らの神は焼盡やきつくす火なればなり』(ヘブル十二章二十九節)。



| 1 | 2 | 3 | 4 | 目次 |