『時にわたしは見ていたが、見よ、ケルビムの頭の上の大空に、サファイヤのようなものが王座の形をして、その上に現れた。彼は亜麻布を着たその人に言われた、「ケルビムの下の回る車の間にはいり、ケルビムの間から炭火をとってあなたの手に満たし、これを町中にまき散らせ」。
…………
『彼が亜麻布を着ている人に、「回る車の間、ケルビムの間から火を取れ」と命じた時、その人ははいって、輪のかたわらに立った。ひとりのケルブはその手をケルビムの間から伸べて、ケルビムの間にある火を取り、亜麻布を着た人の手に置いた。すると彼はこれを取って出て行った。』(エゼキエル書十・一、二、六、七)
ただいま読みましたエゼキエル書十章の二節と七節にある
『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門が北にあって、その入口に、このねたみの偶像があった。彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼のしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」』(同書八・五、六)
いま読みましたところによりますと、神の宮の内に像があります。これは嫉妬の像であると書かれてあります。これはどんな像であったか知りませんが、神がねたみたもう像が宮の至聖所にあったのです。私はこれを読んで非常に感じましたことは、人の手によって作られた目に見える宮でなく、聖霊の宮である人の心の内にこのねたみの像があります。兄弟姉妹よ、あなたの内にこの像がありませんか。私はよく経験したことがありますが、自分の伝道、自分の働き、自分の慾のためにのみ、己を献げていませんか。主よ、祈りたいのですが今日は忙しいですから御免下さいと言ったことはありませんか。私には祈る時間がないと言います。神はかかる時にこそあなたの祈禱を求めていたもうのです。神とあなたとの間に何かが入っておれば、それは神がねたみたもう像です。或いは、私の教会、私の団体というように、神にのみ全き愛を献げず、私の伝道、私の教会ということにのみ捕えられて、神を第二のものにいたします。これは、働きという偶像が神と私の間に入っていますから、ゆっくり聖書を読んで
次に、
『そして彼はわたしを庭の門に行かせた。わたしが見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼はわたしに言われた、「人の子よ、壁に穴をあけよ」。そこでわたしが壁に穴をあけると、見よ、一つの戸があった。彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。そこでわたしがはいって見ると、もろもろの
皆さん、これは実に恐ろしい有様ではありませんか。これがかつてイスラエルの神によって救い出された者の写真です。イスラエルの家の長老たち、すなわちこれは教会の責任者等が『暗い所で行う事』を預言者は見ました。宮の中に一つの秘密の部屋がありましたが、その部屋には壁があるために外からは誰にも見えず、また知られませんでした。しかし神はこれを知っていられました。そのために神は預言者エゼキエルを導いてこれを見させ、かく語りたもうたのであります。これはきよめられない人の心の有様だと感じている人はありませんか。外から見ますと実に立派なものです。ちょうど白く塗った墓のようなもので、表面は立派に見えますが、その内には
『またわたしに言われた、「あなたはさらに彼らがなす大いなる憎むべきことを見る」。そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。その時、彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。これよりもさらに大いなる憎むべきことを見るだろう」』(同書八・十三〜十五)
ここにタンムズのために泣いていたとありますが、タンムズとはペリシテ
『その時、彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。これよりもさらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた』(同書八・十五、十六)
ここで日を拝んでいるのです。これはちょっと考えるとそれほど大した罪のようには思われませんが、今までの多くの罪よりもなおさらに憎むべき大罪であると神御自身は言いたまいました。二十五人の老人たち、すなわちイスラエルの導き人、責任者、教役者等は神の宮を後ろにして日を拝んでいます。これはこの世の光を拝んでいるのです。この世の光、すなわち哲学、教育、知識、学問ではありませんか、かかるものを慕い、或いは求め、これを拝んでいる説教者は今日多くあるではありませんか。教育が欲しい、そして教育によって伝道しようとします。この世の知恵に頼って伝道する、これは神に対する恐ろしい罪です。私達は聖霊に頼り、聖霊を慕い、聖霊に満たされて、この能力によって伝道しなければなりません。さらに九章に書かれていることはなお深いことであります。
『時に彼はわたしの耳に大声で呼ばわって言われた、「町を罰する者たちよ、おのおの滅ぼす武器をその手に持って近寄れ」と。見よ、北に向かう
ここに現わされたことは実に恐ろしいことです。筆記人がその額に記号をつけない人達を、滅亡の器をもってこれをことごとく殺してしまえと言いましたが、これは
幸いにも神より一人の人が遣わされて町の中を歩み、罪に対して悲しみ嘆きおる者があれば彼にその記号をつけようと言いましたが、これは血潮の記号、十字架の記号です。神が私達の間を歩んで、罪よりきよめられたいと願っている人々を見られると、彼に印をつけてくださいます。ゆえに彼らは
『時にわたしは見ていたが、見よ、ケルビムの頭の上の大空に、サファイヤのようなものが王座の形をして、その上に現れた。彼は亜麻布を着たその人に言われた、「ケルビムの下の回る車の間にはいり、ケルビムの間から炭火をとってあなたの手に満たし、これを町中にまき散らせ」。そして彼はわたしの目の前ではいった。この人がはいった時、ケルビムは宮の南側に立っていた。また雲はその内庭を満たしていた』(同書十・一〜三)
この白い布(亜麻布)を着た人は誰ですか。これは私達の救い主イエスです。何のために彼は天国に入っていられますか。火を散らすためです。
『イエスは神の右に上げられ、父からの約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである』(使徒行伝二・三十三)
これはエゼキエル書十章二節によく似ていますが、彼はこの火を「受けて注いでくださる」お方です。預言者はこの火を受けて町に散らしましたが、私達もこの火を受けて町々に散らすべきであります。
『彼が亜麻布を着ている人に、「回る車の間、ケルビムの間から火を取れ」と命じた時、その人ははいって、輪のかたわらに立った。ひとりのケルブはその手をケルビムの間から伸べて、ケルビムの間にある火を取り、亜麻布を着た人の手に置いた。すると彼はこれを取って出て行った』(エゼキエル書十・六、七)
皆さん、『火を取れ』です。火を祈れではありません。取れです。これは信仰によって取るのです。感謝ではありませんか。実際書かれてあるように取ればよいのです。これは自分のためでなく、自分の成功のためでもなく、この火を町に散らすために取るのです。火を取るとともに、いたるところでこの火をつけるのです。あなたの働きが今日まで祝されなかった理由は、この火がなかったからです。けれども今日、ここでこの火をお取りなさい。私達に必要なものは聖霊の火です。この火は
またこの火は愛の火です(コリント前書十三・一〜十)。この愛という字の代わりに自分の名を入れて読んでごらんなさい。『××は寛容であり、××は情深い。また、ねたむことをしない。××は高ぶらない、誇らない。……』かく読んで行きますといかに自分の実際のことと相違があるかということに気付いて、恥ずかしく思わずにはいられません。聖霊の火は愛です。聖霊はこの火をもって私共を
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