バ プ テ ス マ の ヨ ハ ネ

昭和五年五月兵庫県有馬で開催された日本伝道隊年会に於ける
ウィルキンソン先生の説教



 『神の子イエス・キリストの福音のはじめ。預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使つかいをあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。荒野あらので呼ばわる者の声がする、『しゅの道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」』(マルコ福音書一・一〜八

 バプテスマのヨハネは幸いな人でありました。何故かと言いますと、彼は神から選ばれた使者であって、キリストの道を備えるためにつかわされた人であったからであります。私達もこのヨハネと同じような特権を与えられているものであります。何故かと申しますと、キリストの道を備えるからであります。すなわちキリストの再臨の道を備えるためにそなえられたものであり、また来らんとする天国の土台として備えられたものであります。これは実に驚くべき特権でありますが、また一面、大いなる責任があります。それで幸いな堅固なる土台を備えるためにはどうしてもヨハネのようにならなければなりません。ヨハネという人はどんな人であったかといいますと、

 『ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った』(ヨハネ福音書一・六

 彼は人より遣わされた人でなく、神より遣わされた人です。ですから少しも恐れがありません。人間の顔を恐れませんでした。パリサイ、サドカイの人々がバプテスマを受けんとして来ました時も、彼は彼らに頭を下げずにかえって汝等まむしのすえよと言って責めました。のみならず、権威をもって語ることが出来ました。『神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る』(ヨハネ三・三十四)と書かれてありますように、私達は日本伝道隊の隊員ですが日本伝道隊より遣わされてはいません。神より遣わされた全権大使ですから人の顔を少しも恐れるところがありません。しかも権威をもって語ることができます。彼はかく神より遣わされた人でしたが、驚くべき謙遜な人でした。彼が権威と能力をもって語りました時、多くの人はメシヤではないかと思って彼に尋ねました時に、『わたしは荒野で呼ばわる者の声』であると言い、また

 『わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう』(マルコ福音書一・七、八

と言いました。私達は神に用いられたいと思いますなら謙遜でなければなりません。神が嫌いたもう人は謙遜でない人です。日本にリバイバルが起らないのは何のためですか。神は日本にリバイバルを起したくないのですか。否、神は何処にもこのリバイバルを起したいのですが、それに必要な謙遜な人がいないためです。人間は少し神に用いられますとすぐ高慢になってしまいます。いつもヨハネのごとく謙遜でありますならばリバイバルは起るはずです。

 『ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした』(ヨハネ福音書五・三十五

 さらにヨハネがかく驚くべく用いられたのは何故であったかと言いますと、彼は生まれ出た日から聖霊に満たされた人でありましたからです。彼は火を受けた人です。この火がなければだめです。何事もできません。昔モーセはエジプトにあって、エジプトのすべての学術を学んだ大学者でしたが、上から神の火が来るまでは少しも用いられませんでした。ヨハネはかく火を受けた人でありましたのみでなく、朝から夜まで神との交わりを続けた幸いな生涯を送った人でありました。これは大切なことで、上よりの火を受け聖霊に満たされましても、神との交わりをしなければせっかく受けた火を失ってしまいます。これは今日までの失敗をした多くの人の失敗の原因です。

 『イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが、しゅの足もとにすわって、御言みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである』(ルカ福音書十・三十八〜四十二

 マルタとマリヤは熱心な主のしもべで、燃ゆる心をもって主に仕え、主をもてなしましたが、マルタは三つの失敗をしました。一、心が入りみだれて安心を失い、二、妹を批評し、三、イエスを叱りました。実に大きい失敗をしたのですが、どういうわけでこのような失敗をしたのですかと言いますと、彼女はあまり忙しくてマリヤのように主の前に跪いて聞くことができませんでしたためです。ですから皆さんはこの山から下って後も、どんなに忙しくても神と交わりなさい。神との交わりが断たれれば失敗です。幸いにこれから毎日毎日神に交わり、神に聴き、これに従いますならば驚くべく用いられて参ります。

 『それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日あんそくにちにすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである』(マルコ福音書一・二十一、二十二

と書かれてあります。その後に主は悪霊を追い出したまいました。どういうわけでかかる能力に満たされていたもうたのですか。『そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分にくだって来るのを、ごらんになった』(同十)。すなわち主は聖霊に満たされていたまいましたからです。のみならず『朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた』(同三十五)。主は常に祈り、神との交わりをもっていられました。食事をする暇がないほど忙しい御生涯でしたが、祈りの時を絶えずおもちになりました。私達はそのごとく、上よりの火を受け、神との交わりを続けて、ヨハネのごとく火のバプテスマを宣べ伝えなければなりません。フレッチャーという人はこのことを宣べ伝えなかったために五回まで失敗したと言いましたが、この恵みを保つために宣べ伝えなければなりません。

 『そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた』(マルコ福音書一・五

 実にこれは不思議なことです。このことがあったところは荒野あらのです。キリストが来りたもう前にこのバプテスマのヨハネが現れて驚くべきリバイバルが起りました。キリストの御再臨前の今日、私達は聖霊に満たされてこのリバイバルが始まりますように祈らねばなりません。



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