『神の子イエス・キリストの福音のはじめ。預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは
バプテスマのヨハネは幸いな人でありました。何故かと言いますと、彼は神から選ばれた使者であって、キリストの道を備えるためにつかわされた人であったからであります。私達もこのヨハネと同じような特権を与えられているものであります。何故かと申しますと、キリストの道を備えるからであります。すなわちキリストの再臨の道を備えるためにそなえられたものであり、また来らんとする天国の土台として備えられたものであります。これは実に驚くべき特権でありますが、また一面、大いなる責任があります。それで幸いな堅固なる土台を備えるためにはどうしてもヨハネのようにならなければなりません。ヨハネという人はどんな人であったかといいますと、
『ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った』(ヨハネ福音書一・六)
彼は人より遣わされた人でなく、神より遣わされた人です。ですから少しも恐れがありません。人間の顔を恐れませんでした。パリサイ、サドカイの人々がバプテスマを受けんとして来ました時も、彼は彼らに頭を下げずにかえって汝等まむしの
『わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう』(マルコ福音書一・七、八)
と言いました。私達は神に用いられたいと思いますなら謙遜でなければなりません。神が嫌いたもう人は謙遜でない人です。日本にリバイバルが起らないのは何のためですか。神は日本にリバイバルを起したくないのですか。否、神は何処にもこのリバイバルを起したいのですが、それに必要な謙遜な人がいないためです。人間は少し神に用いられますとすぐ高慢になってしまいます。いつもヨハネのごとく謙遜でありますならばリバイバルは起るはずです。
『ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした』(ヨハネ福音書五・三十五)
さらにヨハネがかく驚くべく用いられたのは何故であったかと言いますと、彼は生まれ出た日から聖霊に満たされた人でありましたからです。彼は火を受けた人です。この火がなければだめです。何事もできません。昔モーセはエジプトにあって、エジプトのすべての学術を学んだ大学者でしたが、上から神の火が来るまでは少しも用いられませんでした。ヨハネはかく火を受けた人でありましたのみでなく、朝から夜まで神との交わりを続けた幸いな生涯を送った人でありました。これは大切なことで、上よりの火を受け聖霊に満たされましても、神との交わりをしなければせっかく受けた火を失ってしまいます。これは今日までの失敗をした多くの人の失敗の原因です。
『イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが、
マルタとマリヤは熱心な主のしもべで、燃ゆる心をもって主に仕え、主をもてなしましたが、マルタは三つの失敗をしました。一、心が入りみだれて安心を失い、二、妹を批評し、三、イエスを叱りました。実に大きい失敗をしたのですが、どういうわけでこのような失敗をしたのですかと言いますと、彼女はあまり忙しくてマリヤのように主の前に跪いて聞くことができませんでしたためです。ですから皆さんはこの山から下って後も、どんなに忙しくても神と交わりなさい。神との交わりが断たれれば失敗です。幸いにこれから毎日毎日神に交わり、神に聴き、これに従いますならば驚くべく用いられて参ります。
『それから、彼らはカペナウムに行った。そして
と書かれてあります。その後に主は悪霊を追い出したまいました。どういうわけでかかる能力に満たされていたもうたのですか。『そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に
『そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた』(マルコ福音書一・五)
実にこれは不思議なことです。このことがあったところは
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