『……おのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。……イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。……その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣の、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、
ここで私達の学びたいことは、血の力です。恐るべき神の
多くの説教者は「もしも信者が、その信仰の生涯を全うせんと願うならば、まず聖霊を求めよ」と、聖霊のバプテスマとその働きのみを強く高唱して、少しも宝血の働きと力とを説きません。今日の教会が恵まれず、霊魂の救われる者が少ないのはこの故であります。説教者がいくらキリストの福音を説き、聖霊の働きを説いても、悪魔は平気です。何故かならば、聖霊はキリストの御血を土台として働かれるからです。キリストの血のないところにはいかなるところにも働きたまいません。
ある時のこと、一人の伝道者がムーディのところに来て、「あなたはなぜキリストの血のことばかりを説くのですか」と尋ねた時、彼は「キリストの福音の力の源泉はこの宝血にあるからです」と言いましたが、若い伝道者は「私はその血を好かないのです」と。そこで彼はさらに答えて「そうでしょう。ですからあなたの働きに祝福がなく、また力がないのです。この宝血のほかには救いの道はありません」。実に、この宝血を除いて救いはどこにもありません。
しかし
『しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう』(出エジプト記十一・七)
この時より、かかる驚くべき誓いがイスラエルびとに対してなされました。そして十二章において血を示して、かかる驚くべき誓いの秘密が洩されてあります。民らは洩されたこの秘密、すなわち小羊の血を、信仰によって塗ったゆえに、その夜、
私はこの宝血の力を話す前に、まず新約における血のことについて学びたいのであります。
『律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである』(ロマ書三・二十)
ここには宝血の必要が明らかに示されています。ロマ書三章には罪によって破壊された人類の姿が絵のように現わされています。
『
悟りのある人はいない、
神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、
ことごとく無益なものになっている。
善を行う者はいない、
ひとりもいない。
……
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである』(ロマ書三・十〜十二、十九)
ここには全人類がことごとく罪ありと決定せられています。しかし二十一節を見ますと、そこには福音の言葉が現されています。
『しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない』(ロマ書三・二十一、二十二)
福音とは、すなわち律法をもって
『あなたはいけにえを好まれません。
たといわたしが
あなたは喜ばれないでしょう。
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません』(詩五十一・十六、十七)
これは新約の経験です。彼はひざまずいて祈った時、旧約より新約の時代に飛んでいます。
律法も預言者も新約について
『しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。……彼らは、
これはキリストの
『神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた』(ロマ書三・二十五)
この血のゆえです。キリストの宝血です。このゆえにロマ書三章は出エジプト記十二章に私達を導くのです。
『キリストの血によって今は義とされているのだから』(ロマ書五・九)
『わたしたちは、
この血によって罪の赦しを得、義とされるのです。いったい称義とは何のことですか。
『だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている』(使徒行伝十三・三十八)
これは単なるキリストの歴史的事実を述べただけです。
『そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである』(使徒行伝十三・三十八、三十九)
これは実に驚くべきことで、罪を赦されることよりも大いなることです。事実『義』とせられるのであります。その国の主宰者は
私は、かつて自分の妻を殺した人を知っています。私の父は、牢屋にいる彼を導いて言うのに、「あなたは地獄を知っていますか」。彼は答えて、「私は現在、地獄におります」と涙を流して言いました。彼の記憶の中から犯した大罪が忘れられず、夜も昼も彼の良心は地獄の呵責を受けているのです。彼を牢屋から出すことはできても、罪に悩む良心の呵責から解放することができません。これはイエス・キリストの宝血によるほか、何ものをもってもできません。キリストの血を信ぜぬ信仰にはできません。ただキリストの宝血を信ずる時、それこそみごとに赦され、良心からも記憶からもかき消されてしまうのであります。
ペテロを見てごらんなさい。彼は三度まで主を知らずと言ってキリストを裏切っていますが(マタイ二十六・六十九、七十、七十二、七十四)、使徒行伝三章を見ますとその説教によって多くの聴衆にむかって何と言っていますか。
『あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまった』(使徒三・十四、十五)
『あなたがたは』と言っています。『われらは』と言っていません。彼はすべての者にまさってキリストを否定したにかかわらず、『あなたがたは』と言っているではありませんか。私も同じようにキリストを拒んだと言わねばなりませんが、彼がかく言うを得たのは、すなわち『義とされ』ていたからです。キリストの血が彼の罪を赦したまいましたからです。私共はこの宝血の能力を信ぜず、しばしば過去の罪を思い出しては赦しを求めます。
ある時、悪魔がルターのところへ大きな本をもってやって来ました。その本の表紙には「ルターの罪悪の記録」と記されてあります。悪魔はその書を開いて「どうだ、ルター、おまえの罪はこんなにたくさんある」と一々読み上げます。ルターは「なるほど、だいぶあるな。みな私の犯した罪だ」。悪魔はさらに今一つの本を開いて、「ここにもある。おまえの罪の第二巻だ」。彼曰く、「そうだ、それも私の犯した罪だ」。さらに悪魔は、「ルター、まだまだある。これはおまえの罪の第三巻だぞ」。彼曰く、「悪魔よ、いったいそれがどうしたと言うのだ」。「おまえはこの罪によって亡びるのだ」と悪魔が言った時、彼は立ち上がって赤インクを取って、『神の子イエス・キリストの血、マルティン・ルターのすべての罪をきよむ』と大書した時、悪魔はすごすごと逃げ去ったということですが、これは称義の説明です。罪をほんとうに捨てること、キリストの血を信ずることのゆえに、彼の血はすべての罪よりきよめて私共を義とします。これはキリストの血のほか、何をもってしてもできません。神様は、旧約においては犠牲をもってわが前に来れと言いましたが、私共はただ神様が命ぜられたことをそのままなせばよいのです。新約の私共に命じたもうことは、「あなたがたの罪のために流されたキリストの血を信じよ」ということです。
さらに新約聖書には宝血の力について何と言われていますか。
『あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである』(エペソ二・十三)
『神は、
あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである』(コロサイ一・十九〜二十二)
神様より遠く離れている
さらにキリストの宝血は私共の死んだ行為よりきよめます。
『もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、
キリスト者の生涯には多くの死んだ働きがあります。すなわち「このことをせねばならぬ、あれもせねばならぬ。これをせぬと祝福が得られぬ。わたしは信者だから、教役者だからこれをせねばならぬ」といういろいろな行為があります。神様は「……だから……をせねばならぬ」という恐怖を抱いて仕えることを好みたまいません。また義務的な、律法的な、生命のない奉仕を望みたまいません。たとえば
『兄弟たちよ、こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ』(ヘブル十・十九)
はばからずして。これは大胆に、臆せずしてという意味ですが、信者の中でも感情によって大胆をもつ人がありますが、真の大胆はキリストの血です。
ある時、一人の兵士が戦場から陣地へ逃げて帰りました。これを見つけた隊長は厳しく彼を誡め叱った時、彼は答えて「隊長殿、私は何も知らなかったのです。この足が思わず知らずに走ったのです。私は決して臆病人ではありません。心は逃げるつもりではなかったのですが、この足が勝手に逃げたのです」と。これは肉的信者がいつも言うことです。ペテロをご覧なさい。彼は肉的大胆で、真の大胆を持ちませんでした。ですからキリストを拒絶しました。しかしキリストの血を用いる時、真の大胆、
さらにこの宝血は虚しき行為よりあがなう力です。
『あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの
これは宝血の力です。『空疎な生活から』、これは日本にたくさんあります。まず第一に神様の
××に若い姉妹がいました。彼女は二か年前に悔改め、洗礼を受けて喜んでいましたが、或る日のこと私のところへ来て一日中泣き通しています。「いったいどうしたわけですか」と尋ねますと、「私は結婚をせねばなりません。しかも夫となる人は酒屋の主人です」と言って泣いているのです。「なぜ断りませんか」と言えば、「それができないのです」。「なぜです?」「親の命令ですからしかたがありません」と。彼女は親の命令であれば、善くても悪くてもどんなことにでも必ず従わなければならぬと思っています。それから二年の後、彼女は再び私のところへ来て、泣いて泣いて泣き通しています。「いったいどうしたのですか」、「先生、私はあのような結婚はしなければよかった!」と。どこに彼女の失敗がありましたか。すなわち彼女はキリスト者が守ることのできない習慣に捕えられていたからです。かようなむなしい行状から救い出せるのはキリストの宝血です。宝血はみごとにそこより救い出して、むなしき習慣を変えて栄光ある法に従わしめます。
さらにまた宝血は、全き救いを与えます。
『しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、
『すべての罪からきよめる』、これは全き救いです。これはまた聖潔の問題です。或る人は
『その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群集が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、
「
小羊からきたる」。
「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、
ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、
われらの神にあるように、アァメン」。
長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」』(黙示録七・九〜十四)
ここに集められた大いなる群集はことごとく白き衣を着、新しき歌をうたっていますが、彼らはどこから来たのですか。『大きな患難』の中から出て来たのです。『
『さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその
「今や、われらの神の
神のキリストの権威とは、現れた。
われらの兄弟を訴える者、
夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、
投げ落された。
兄弟たちは、
小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、
彼にうち勝ち、
死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった」』(黙示録十二・七〜十一)
サタンは二つのことをします。一、欺く。二、訴える。この二つのものはサタンの武器です。『全世界を惑わす年を経たへび』。彼は今もなお全世界の人々を惑わせ、欺いています。さらに訴えるのです。多くの信者はサタンは偽る者と十分知っていますが、訴える者であることを知りません。彼は人類を神の前に訴え、また「おまえのようなつまらない無知無力な者が」とあなた自身に訴え責めるのです。しかし、かかる恐ろしいサタンの武器に勝ち得るのは『小羊の血によって』です。恐ろしい勢いをもってサタンが攻めてきた時、私共には何ものもありませんが、ただ一つ、キリストの宝血の下に隠れることです。これこそ唯一の勝利の道であり、戦いの方法であり、また武器です。
今まで話しましたことは宝血の用い方でしたが、それのみではまだ十分ではありません。さらに羊を食べることです。この宝血には驚くべき能力があり、ただ宝血を通してのみ
『その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない』(出エジプト記十二・七)
第二は、これを食べることです。
『そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、
これは、キリストは私共の
『その肉を焼いて食べ、……
火に焼いて食べるのです。生のままでも水に煮てもいけません。ただ火に焼いて食べるのです。これには深い意味があります。或る人々はキリストを生のままで食べています。すなわちキリストは
その次になすべきことは、
『
『種入れぬ』とは聖別されることを教えます。すなわち種は腐敗を起させるもので、この種をことごとく取り除くのです。キリストを食べようとする者はこの世より聖別されねばなりません。
『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの
コリントの信者にはこの
次は『
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