第二章 敵の力打ち砕かる


 
 イスラエル人民がエジプトの地から出て来ることができるためには、まず彼らを圧制している者が破られ、その力が打ち砕かれなければなりません。ところがエジプト王のパロは、イスラエル人民を奴隷として引き留めておくならば、彼らは王のために町を建てたり、また様々の働きをしますゆえ、自分にとりて利益でありますから、少しも彼らを去らせたくありませなんだ。ですからモーセがイスラエル人民を救い出すのには、まずパロの許に行き、民を去らせるように彼に命じなければなりません。もし彼が民を去らせることを好まないのならば、彼の力を打ち砕いて、パロの方から民を自分の国の外にい出すようにしなければなりません。そのためにエジプト全地の初子ういごが殺され、また次には紅海において彼の軍勢は滅ぼされたのであります。さてキリストはサタンと戦い、彼に勝利を得たまいましたから、サタンの力はこぼたれました。そこで今は罪人は悪魔の力のもとから出て来ることを願う時に、そのことができます。罪人は彼の『正当なる捕虜とりこ』(イザヤ四十九・二十四=英訳)であったのですから、悪魔が彼らを捕虜にしていることは当然のこと、また正当のことでありました。悪魔は罪人を己が支配の下に置くことのできる『勇士つよきもの』であって、『鎧を着けたる勇士』としてそのやしきを守り、その持ち物は安全であったのであります(ルカ十一・二十一)。
 けれども私共の救拯者すくいてはこの圧制者と戦って、『死の権威をてる者、即ち悪魔を滅ぼし』たまいました(ヘブル二・十四)。『更に勇者つよきもの』来りて彼に勝ち、『そのたのみとせる鎧を奪』ったのであります。そうですから今や罪人は悪魔の暗黒くらきの国より出で来り、彼の力よりき放たれて自由にせられることができるのです。カルバリにおける勝利はすべての人のために有効であります。誰一人罪の力のもとに失望している必要はありません。誰でも罪より釈き放たれることを得ます。『とらはれたるシオンのむすめよ、汝がうなじの縄をときすてよ』(イザヤ五十二・二)との命令は、力と共に各自めいめいに臨み、この命令に従うことができるようになっています。今や各自みな、その願っているように、罪より自由なる者となることができるのです。今まで人々をくびきの下に置いていた悪魔は敗北しましたから、勝利者なる主は彼らを全く救い、彼らを『真に自由』なる者とならしめたもうことができます(ヨハネ八・三十六)。
 私共は未だ罪の軛の下にある人々に対して、彼らのひとやの戸は既に開かれ、彼らもそれを願えばほかの自由の人々のごとく歩んで出て来ることができること(イザヤ六十一・一)、および今は主の『ヨベルの年』で(同二節)、すべての人は自分の全き自由を主張いいはることができるということを、明確にあかししたいものであります。


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