カナンの地を征服するのに長くかかることは、神の御目的ではありませんでした。もしもイスラエル人民が神に対して信実で、初めやり出した時のように信仰によりて進んで参りましたならば、僅か九州ほどもないこの土地を征服するのに、一、二年もあれば充分であったことは疑いなきことであります。ですから神は
私共に対する神のご計画も、また同じことであります。豊かなる生涯に俄に入り、次にいち早くすべてのものを献げて潔められ、しかる後恵みに満たされて神と交わり、また
ヨシュア記のうちには、私共がどうして聖潔の生涯に入り、またすべてをキリストに服せしむべきかを教える話が記されております。しかしソロモンの栄華の話に至るまでは、その結果たる生涯の絵を見ません。すなわちヨシュアの時に、なすべき働きが全く終わったのではありませんのに、彼の時代の後、民がその得たところに落ち着いてしまって、その領地を広めるために進撃的に働く信仰を持たなかったように見えます。ですからダビデの時に至るまで、神はその思し召しのうちにあったすべてを彼らに与えたもうことができなかったのであります。
神はダビデを撰びて、ご自分の民をペリシテ人の手およびその他の諸々の敵の手より救い出す者となしたまいました(サムエル後書三・十八)。彼は直ちにすべての敵を
さて諸々の敵は実際に逐い出され、今やカナンは全く穏やかに、また盛んになり始めた時、その平和と繁栄のうちに、ソロモンの御代が始まったのであります。これは神がカナンにおいて、その民のためにどういう御目的を持っていたもうたかを示し、また全く聖霊の御支配の下にある生涯とはどんな生涯であるか、それを雛型のうちに示しております。
さればヨシュア記の中には、聖霊に満たされた生涯の型は何も示されず、これは列王紀略上の初めの十章の中に示されております。当時、ソロモン、すなわち「平和」という意味の名の王が、栄華と威光のうちに世を治めていました。彼はすべての人に優る知恵と、またすべての人を弁えて同情するところの広い心を持っておりまして、四方に太平あり、敵もなく
これが真のカナンにおける生涯の絵であります。どうぞこれが私共のうちに成就せられるまで、ほんとうに後ろに在るものを忘れ、前にあるものを望んで進みとうございます。
真のカナンにおける生涯とは、キリストが平和の君として、
かくて天国は地上に始まるのであります。何故かと申しますと、これはすべて黙示録二十一、二十二章にある、天上の記事とはなはだよく符合するからであります。私共は天における私共の産業を、いま聖霊によりて前もって味わうのであります。そして主が私共を占領すれば占領したもうほど、私共の経験はなおなお天に
以上申し上げましたのが、『神に満てる』生涯で、聖霊は私共をその生涯に導きたもうのであります。どうぞ私共『主を畏れて
富める所 終
不許複製
大正三年十一月二十五日印刷
同 年十一月二十八日発行
神戸市四之宮
著作者 ビー、エフ、バックストン
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東京市赤坂区氷川町五番地
発行者 ジョージ、ブレスウェート
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東京市京橋区弓町二十五番地
印刷社 高 橋 郁
(三協印刷株式会社印刷)
発行所
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