第四章 罪に対する死


 
 主イエスが与えたもうところの救いは、ただ過去の多くの罪をゆるされ、それとともにあなたがこれからキリスト信者の生涯を送る上に助けとなる恵みを与えられるばかりでなく、心の罪、また性質の汚れから脱することができます。真正ほんとうに神に従う人は『罪については誠に死にし者』、すなわち『罪より赦され』或いは『すべての汚れからきよめられた者』となることができます。これらは同じことを言う聖書のいろいろの言い表し方であります。
 過越すぎこしの祝いの晩の救拯すくいと、紅海を渡ったこととは、一つの大いなる救いの二つの部分でありました。第一に彼らは小羊の血によりて神のただしき御怒おんいかりから救い出され、第二に彼らは神の力によって、その敵の力から救い出されたのであります。この神の御怒りから救い出される恵みは、カルバリのあがないによりて私共に与えられ、罪の根と多くの罪咎つみとがの力よりの救いは、カルバリの勝利によりて私共のものとなります。この二つの救いの側は、ローマ書五章と六章の中に記してあります。五章においては神と和らぐみちを見、六章においては罪に死ぬる途を見ます。但しこの両方ともキリストの十字架によりて私共に与えられるものであります。
 イスラエルの子孫は『高らかなる手によりて』出たのであります(出エジプト記十四・八)。これは『すべてのエジプト人の目の前にて』施されたはなはだ大いなる救いでありまして(民数記三十三・三)、『徴証しるし奇蹟ことなるわざとをもて』行われました(申命記二十六・八)。それにもかかわらずエジプト人ははなはだ大胆にも、パロのすべての馬と兵車、およびその軍勢をもって彼らを追いかけて参りました。
 その時に敵には力がありました。パロの軍勢はよく訓練せられた軍勢で、イスラエル人民を全く撲滅して征服するだろうと思われました。イスラエル人は力がありませんが、主に贖われた民で、神はただいま彼らのためにその腕を張り広げ、力ある御手を伸ばしたもうたところであります。罪より逃れんとしている神の子は、ちょうどこれと同じ有様であります。その人に対抗している恐ろしい罪の力はあまりに強くて、とてもその人の力には及びません。しかしそれでもイスラエルのように恐れません。信仰があれば『汝らのうちにおる者は世の衷におる者よりも大いなる』ことを見るはずで(ヨハネ一書四・四)、きっと救いと勝利を得られます。
 ところが実際において、イスラエル人は恐れ、また失望したのであります。前には海を控え、一方にはピハヒロテの高地があり、また後ろからはパロの軍勢がやって参りましたから、ちょうど『曠野あれのに迷い入った』ようなものでありまして、信仰によりてエジプトから出て来た人々は、多分早晩みな同じ失望に陥りました。何故かと申しますと、彼らを圧制していた昔の力(エジプト王の)が、彼らの後ろから押し寄せて参りまして、今にもう一度彼らを奴隷にするかのように見えたからであります(出エジプト記十五・九英訳欄外注参照)。けれどもそこから救われることができます。その救いはこの後あなたを敵の上に置いて、勝利を得せしめる救いであります。どうしてそれが経験せられますか、それについては出エジプト記十四章に明瞭に教えてあります。
 第一、静かに信仰によりてち望むことであります。『懼るるなかれ、静かに立ちて主の救いを見よ』(十三節英訳)。その時に静かに立つことは容易のことではありませなんだ。理性は彼らがほとんど圧し潰されんとしているように思わせたでしょうが、信仰は神はかかる事情をも処理して、その民を救いたもうことができると知って、堅く立って動きません。信仰があれば、霊魂たましいの敵が暴れ回っている時にさえも、何も恐れるところなく堅く立ちます。
 もしもイスラエル人民がその敵を眺めましたならば、恐れたでしょう。もし彼らがその四囲の有様を見回したならば、恐れねばならなかったでしょう。けれども神は、誰でも己が罪より救われんことを求めている人に向かって、こう宣います、『恐るるなかれ、我なんじとともにあり。驚くなかれ、我なんじの神なり。……よ、汝に向かいて怒る者はみな恥を得て慌てふためかん。汝と争う者は無きもののごとくなりて滅び失せん』(イザヤ四十一・十、十一)。
 神は彼らの眼を開いて、ご自分とその御力を見せたまいとうございます。私共がこれを見ますれば、『静かに立ちて神の救いを見る』ことができ、またそれを『今日』待ち望み、敵を『かさねてまたこれを見ること絶えてなく』なります(十三節)。
 信仰ある者は、救いを施したもう神と、その約束の聖言みことばに頼ってその態度を取ります。信仰があれば、悪の権威や力がいかに逆らって参りましても、神の聖言の上に静かに立つことができます。そして『すべてのことを成就して立ち』ます。これがすなわち第一の点で、主が全く救いたもうことを静かに俟ち望むことであります。
 第二は、信仰をもって全き救いに進み往くことであります(十五節)。勝利は、うわべの事情がすべて反対であるときにも、ただ神を信ずる信仰によりて得られるものであります。その時、理性にとりては、神がイスラエル人を救わんとしていたもうのではないかのように見えたに相違ありません。彼らの前には海があって、前に進んで行けば死んでしまうように思われます。けれども神は海を分かちて『海の中の乾ける所』にみちを設けると約束し(十六節)、また『パロとそのすべての軍勢によって誉れを得ん』と仰せたまいます(十七節)。そこで彼らは死んでしまうように見えましたが、そのご命令に従って進みましたから、その御約束は立派に成就いたしました。
 神のご命令の下に、死の地の中に『進み行く』ということは、神の聖言の上に信仰をもって『静かに立つ』ことよりも更に困難なことであります。けれどももし信仰をもって大胆に踏み出しますれば、神はその人のためにその死の地を変えて『生命いのちの新しき』処となしたまいます。ですからその人はそこを罪の身が滅ぼされんがために、汚れたるふるき人の死する所と致します。そうですから神は、敵が圧倒せんばかりの力をもってあなたを押さえつけている時、その敵の面前においてもなお『罪については自ら死にし者と思うべし(勘定すべしの意)』と言いたまいます。どうぞ信仰によりて死の地に踏み入りなさい。されば神はあなたの『思う』ところ、すなわち勘定する所を現実にしたまいまして、敵は滅ぼされ、同時にあなたの罪の根や多くの罪咎つみとがも滅ぼされるのであります。
 イスラエル人は神を信じて進み行きました。されば神は彼らのために『海の中の乾ける所』に途を開き(二十二節)、また『彼らのためにエジプト人と戦い』たまいました(二十五節)。
 そうですから神は、彼らが信仰に由りて期待したことを成し遂げたまいましたが、今もその通り、信仰をもって彼に頼る者の『勘定する』ところを実際になしたまいます。
 されば第三のことは、信仰が現実になるということです。『彼らはその敵が海辺に死におるを見たり』(三十節)。そのように私共は信仰したことを経験いたします。信仰ある者は神の誠なること、また神は我らの求めるところ、思うところよりもまされることをなしたもうことを知ります。されば神は、汝は罪よりゆるされたりとのあかしを与え(ローマ六・十八、二十二、ヨハネ八・三十六)、また実際それを実験せしめたまいます。
 それから十五章の讃美の歌が始まります。彼らは全くすべてを神とその御恵みおよび力に帰しています。『彼は見事に勝ちたまえり』(一節英訳)。敵は実に全く滅ぼされました。『彼らは石の如くに淵の底に下る』(五節)、『彼らは激しき水に鉛の如くに沈めり』(十節)。かように罪の力は滅ぼされるのです。そしてかかる勝利は神の約束の全地を嗣ぐために信仰を起こします。『カナンに住める者みな消え失せん』(十五節)。『汝の民は汝の産業の山を通り過ぎん』(十七節)。
 以上申し上げたことは、罪から救われるとはどういうことであるかを示すために、神が私共に与えたもうた絵であります。私共はかかる恵みを受けるまでは満足してはなりません。イスラエル人民がカナンに参りました時に、その地に住んでいたすべての民を滅ぼすべきであったのに、彼らはそれをする信仰と勇気を持ちませなんだから、カナン人等は生き残り、『彼らの目にとげとなり、彼らの脇に茨となり』ました。どうぞ私共もこれに由って警戒せられ、私共に与えられた救いの教えに従って罪を厳しく始末したいものです。私共が受けることができる満ち足れる救いを、受け損なうことのないように警戒したいものであります。


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