第七章 如何にして占領すべきか


 
 満ち足れる祝福に入ることは、キリスト信者の全生涯を変化させる階段であって、ほとんど生まれ変わりのような大いなる変化であります。けれどもこれは、恵みのうちにますます進歩する、そのただ初歩に過ぎません。ヨルダン川を渡っただけで休むことは、信仰の生命を危うくすることであります。それを渡った後、その地を一つひとつわが物と占領することが大切であります。神の約束は『おおよそ汝らが足の裏にて踏むところは我これをことごとく汝らに与う』とあります(ヨシュア記一・三)。ですから私共が恵みを占領することの多いと少ないとは、私共が『前にあるものを望み』、『すべて神に満てるもの』を求めることに比例するものであります。
 これは、或る人々が実際信仰によりてカナンに入り、また聖霊を受けているのに、その経験が狭くて限られているように見えるのは何故か、その理由を示しております。しかし一方には、いつでも愛と恵みにますます満たされて(テサロニケ前書三・十二、四・一、四・十)、全霊、全生、全身が全く潔められて、神の聖前みまえに咎のないまでに至る者もあります(テサロニケ前書五・二十三)。
 イスラエル人は『エリコに向かって直ちに』ヨルダンを渡りました。このエリコはちょうど、彼らの前に横たわっている山のようなもので、どうして『この山』が彼らのみちから移し出されるかならば、彼らをしてこのカナンまで来らせたその同じ力、すなわち主を信ずる信仰と、そのご命令の言葉に服従することとによって、取り除かれるのであります。これは多くの人々が間違って、ガラテア人が陥った誤りに陥るところであります。彼らは信仰によって聖霊を受けましたが、次には自分の力で律法を守って、自らを全くしようと致しました(ガラテア三・二、三)。しかし私共が約束を一つひとつ神に求め、またそれを誠に経験するように、このこともやはり信仰に由らねばなりません。
 ヨシュアがエリコのほとりにいた時に、主の軍旅の将が彼に顕れたまいました。ヨシュアが大将であるのでなく、主ご自身が統御したもうので、ヨシュアにはそのご命令を果たすことを望みたまいます。かように他の人に譲ることはたやすいことではありません。霊的生涯においてさえも、私共は自ら自分を治め、ただ必要があると思う時だけ、人の助けと導きを求めたく思うものであります。しかしもし私共が勝利を得て、私共が占領すべきところを受けとうございますならば、主をして敵をい出し奉らしめ、私共はただその主に随って進み、また服従して、その結果を受けねばなりません。かくて私共は敵の最も大いなる砦が倒れて、最早恐れさせるものでなく、かえって私共の所有となることを見るのであります。
 かくて私共は勝利より勝利に進み、全地を征服してキリストに従わせることももできましょう。もしもヨシュア記七章のような失敗があったならば、正直にその原因を探し出しとうございます。もしも私共が罪を厳しく処分する考えであれば、神は罪が何処にあるかを示したまいます(七・十八)。もしも失敗があったならば、それを平気でいることなく、かえってその失敗を転じて、再び勝利を得て占領するようにしたいものであります。しかしこのためには、全心を傾けて一生懸命にそれを願い、また信仰によりて力を尽くすことが必要であります。ヨシュアはこの時から『軍人をことごとく率いて』参りました(ヨシュア記八・一、十・七、二十九、三十一、三十四)。もしも敵の或る砦は小さくて、たやすく攻め取ることができると思い、『すべての民を彼処かしこりて労せしむる』必要がないと思うならば(同七・三)、それは私共の誤りであります。すべての勝利はただ、神の力によりてのみ得られるのですが、私共の側としては、そのために全心、全力を尽くさねばなりません。
 かようにして三十一王をみな滅ぼし(同十二章)、その領地を取ってしまうまで、連戦連勝し、約束の地全体が彼らのものとなるのでありますが、『なお取るべき地の残れるものはなはだ多く』あります(同十三・一)。どうぞ至るところ敵は追い払われ、私共は主の約束したもうたところ全体を取るまでは満足しないように致しとうございます。私共はすべて神の満ち足れることを信じたいものであります。イスラエルのやからは、その産業の地に幾分のカナン人が残ることを許したために失敗しました(士師記一章)。どうぞ私共は彼らを全く逐い出し、『かけなくまじりなく責むべき所なき神の子』となり、また乳と蜜の流れる地全体、すなわちその長さ、広さ、深さ、および高さ(エペソ三・十八)をほんとうに我がものとするまで、信仰によりて進んで行きとうございます。


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