『
私共は去る三日間、私共の心の中に御約束のうちのあるものを成就していただくためにここに集まって来たのであります。さて私共はこの
それは何と力強い期待を私共の心の中に起すではありませんか。皆様や私のために天より来った約束なのであります。
ここに学校へ通っている子供がいて、非常に自転車を欲しがっていたとします。ついにその父親は彼の誕生日の贈り物として買ってやると言いました。おお、この少年の心の中に起された
さて、神の約束は皆様に来ている。それは皆様の心の中に熱心を起したでしょうか。それは歓喜と、喜悦に満ちた期待とを起したでしょうか。それは皆様の心の中にかかる効果をもたらすはずであります。私共の神は私共が願ったり思ったりするにまさって御忠実であり、その約束を成就なさる方であります。
神の約束は天みずからによって署名された、天からの銀行紙幣のようなものであります。私共の日常使用している銀行紙幣はちょうど約束のようなものです。その上に「支払の約束」が記されてあります。それはイングランド銀行によって与えられた約束のごときものであり、皆様はイングランド銀行を信用なさるゆえに、その紙片をあたかも金貨のごとく受け取りなさいます。それは使用され、要求されるまでは、それ自身に何等価値のないものです。金貨はそれ自身に一定の価値を持っております。しかし銀行紙幣はそれを使用しない限りは価値を生じないものであります。しかしもし皆様が用いなさるならば、それはあたかも金貨と同様に全額の価値を生ずるのであります。
神の約束もちょうどこのようなものであります。もし私共がそれを要求し、使用しさえすれば、私共にとって全額の価値を持つようになるのであります。
さて神のこれらの約束は、私共の霊的生命に非常に密接に、致命的に関係しているのであります。ゆえに私共が生命のパンなる約束を食らうならば、私共は強いキリスト者の生命を持つようになるのであります。
ヨハネ伝十四章を開いてみましょう。この章において主は御自身の御言ということを非常に強調していらっしゃるのを見ます。二十一節と二十三節において私共は驚くべき約束を与えられています。これはたぶん聖書の中で最も驚くべき約束でありましょう。『わが
二十三節。──『人もし我を愛せば、わが
十五章七節を見てごらんなさい。『汝等もし我に居り、わが言なんぢらに居らば、何にても
ペテロはこれらの貴き大いなる約束を語らんとするに際し、彼の心の中に一つの目的を持っておりました。彼はこの書翰を受け取るキリスト者のことを考えていました。彼は彼らが「増し加わる恩恵」を持たんことを願ったのです。『恩惠と平安と汝らに增さんことを』(二)。これがペテロの中にありました。これが彼をしてこの書翰を記さしめたのであります。彼は恩恵と平安とが彼らに増加されんことを願っておりました。彼はあたかも「汝らは既に恩恵と平安とを受けている。しかし私は汝らが今既に持っているところの二倍も、否、五倍をも受けんことを願っている」と言うがごとくであります。ただ増すのではなくて、倍加されんことこそ願わしいのです。
ペテロは既に私共の神の驚くべき
それはあたかも富める父親が、その子の必要の一切を銀行に預金したかのごとくであります。一切はそこにあります。ゆえにその子はそれを信じ、それを引き出せばよいのであります。神はあたかも天の銀行に生命と敬虔とに係わる一切を皆様のために預金したもうたかのごとくであります。
私共のために蓄えておいて下さるとは、神の
ペテロはたぶん大部分は、彼によって救われた愛するこれらの信者たちがこのことを理解し、かくして神に相応しく歩む者となるために必要なものとして、彼らのために蓄えられてあるこの
ペテロは彼らが鈍れて行くのではないか、これらのことを彼らの心から忘れていってしまうのではないかと心配しました。そこで彼は『汝らを勵ます』或いは『汝らを覺ます』と言ったのです。これは、弟子たちが舟にて眠りたもう主を覚ましたというところに用いられていると同じギリシャ語であります。「あなたがたは眠ってしまったのではなかろうか。ゆえに私はあなたがたを神の約束に対して、またあなたがたの周囲の状態について覚ましたいと願う」と言えるがごとくであります。
彼は彼らが神の約束を正当に使用していないことを恐れていた様子が見えます。彼は八節にて『此等のもの汝らの衷にありて彌增すときは……實を結ばぬこと無きに至らん』と言っております。彼は彼らが実を結ばないものとなることを恐れたのです。これが彼の書翰を彼らに書いた
彼は彼らが『世の
彼は彼らがこの約束を豊かに彼らの心に受け入れることを願いました。彼は彼らがこれらの約束によって『世に在る慾の滅亡をのがれ、神の性質に與る者と』なるように告げています(四)。これらの活ける約束はその中に潔める
『のがれ』──ペテロはこの言葉を愛していたかのようであります。二章十八節では『
私の日本における親しき友の一人がまだ少年時代のことでありました。或る日、街の伝道所に何気なく入って説教を聞いた時、『活ける神』という言葉を聞きました。これが彼を救った福音の言葉となりました。彼は主イエスのために輝かしく立ち上がりました。そして彼の学校で
しかるに暫くすると、彼は罪がなお彼を支配していることを発見しました。彼はこのために非常に熱心に主に祈り求めました。彼は彼の心の腐敗から救われんことを求めました。
ある日、彼は私もよく知っている小さな部屋で、神の言を読みつつ祈っておりました。そのとき神は『その名をイエスと名づくべし。己が民をその罪より救ひ給ふ故なり』(マタイ一章二十一節)という御言によって彼に語りたまいました。それとちょうど同様に、腐敗よりも救いたもうと教えられました。そこでその少年は主イエスは彼を
しかし今日の御言の中にはこれ以上のことが含まれています。今までのは消極的な
何ものも、その性質によりその
皆様も私も聖霊によって神の性質を有つことができます。我々は聖霊を受けることができます。主の弟子たちは聖霊を受けた時、聖霊は彼らの衷において
ペテロは『この故に勵み勉めよ』(五)と言い続けます(十節及び三章十四節をも御覧なさい)。
悲しむべきことは怠惰なキリスト者がいるということであります。霊的に怠惰なのです。彼らは自らを奮い起こして神の御言を読み、神を祈り求めません。ペテロはこの傾向のあることを知って、御約束とその充実せる内容との故に『勵み勉めよ』と言っているのであります。
私共は同様な勧告をヘブル書六章十一、十二節に見ます。『我らは汝等がおのおの終まで前と同じ
このようにペテロは私共に勉励なれと告げ、恩恵に恩恵を増し加えて行けと命ずるのであります。『汝らの信仰に德を加へ、德に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を……加へよ』。皆様の中のある御方は周囲の状態により、特に信仰に忍耐を加える必要があるでしょう。そして『忍耐に敬虔を、敬虔に兄弟の愛を、兄弟の愛に博愛を』、即ち皆様が行き会う人々に対する
聖霊は私共にこれらの段階を登らしめ、いよいよ高きへと引き上げたまいます。キリスト者生涯とはかくのごとく恩恵に成長する生涯を指すのであります。それは私共が訓練されつつあり、また自身を訓練しつつあるという意味であります。何故ならば、教育とは大部分、少年少女をして彼等自身を訓練することができるように、訓練することをいうからであります。しかしてここにあるごとく、私共は敬虔において訓練され、また私共自身を訓練することができ、しかして一歩一歩と前進することができるのであります。
これには驚くべき結果があります。『汝ら躓くことなからん』と十節に記されています。汝ら墮落することなからん。汝らの足は堅き
あまりにも多くの人々が後戻りして、
ペテロは十一節においてもう一つのことを語っております。『
我々は宜しくこの堂々たる入国のために祈るべきであります。これは港に入ってくる船の
これがここの比喩であります。私共はこのように神の国に堂々と入国したいものであります。私は、勝利ある臨終ほど未信者に明確な
さて私共はこれらの十二の節によって貴き大いなる約束の
私共この銀行紙幣を使用いたそうではありませんか。私共はこの銀行紙幣を受け取り、愛と
かくしてキリストは崇められたまいます。皆様は謙らされるでしょう。しかしキリストは崇められ、皆様の