HEAVENLY PLACES

BY
BARCLAY F. BUXTON, M. A.


天 の 處

ビー・エフ・バックストン述
御  牧  守  一  訳


第一章 神との断えざる交際



『憚らずして至聖所に入ること』──ヘブル書十章二十節

 祈禱いのりのための短い時間そこに来るだけでなく、そこに入り来ってそこで生活すべきこと、常に神の聖前みまえにおりて神との交際を楽しむべきこと。これはヨハネ伝十五章の経験、即ちキリストにおる生涯の実行であります。またエペソ書二章六節に語られている『キリストと共に天の處に坐す』生涯であります。これはすべてのキリスト者が味わわなくてはならない、正当なキリスト者生涯であります。しかしてこれを経験していない人々は、心を尽してこれを欲求なさるべきであります。
 『至聖所』とは如何なる意でありましょうか。幕屋には三つの部分がありました。第一は幕屋の庭で、大きなあかがね燔祭はんさいの壇と祭司が己を洗い清める洗盤たらいとがあります。次に入口の幕を通ると聖所に入ります。そこには供前そなえのパンのつくえと燭台と純金の香壇があります。次に幕を経て至聖所に至るのでありますが、そこへは大祭司のみが入ることを許されています。

いよいよ深まりゆくキリスト者の経験

 幕屋のこの三つの部分はキリスト者に三種類の区別あることを教えています。即ち
(一)幕屋の庭のキリスト者。──彼らは祭壇の許に来ました。そして罪のために屠られたまいし羔羊こひつじを見ました。彼らは羔羊が彼らのために犠牲となり、彼らの罪の故に死にたもうたことを知っています。故に彼らの罪は赦され、神と和解したことを知っています。そして彼らは洗盤の許に来ました。即ち真の悔改に由って肉と霊との汚穢けがれより全く己をきよめたのです(コリント後書七章一節、イザヤ書一章十六節)。彼らは恩恵めぐみに由って与えられた救を喜ぶ真のキリスト者であります。しかし、より満ち足れる恩恵に進む必要があります。
(二)聖所のキリスト者。──これらの者は信仰により主イエスの死と復活よみがえりとに与ることによって、幕を通って入って来たのであります(ロマ書六章四節)。彼らは浄められ(テモテ後書二章二十一節)、新しき生命いのちうちを歩んでおります。
 これを聖所の器の教訓おしえによれば、
 〔イ〕供前のパンの案。──これらのキリスト者は生命のパンをくらい、それにより成長しております。彼らは『その心にたくはへ』たる聖書の御言よりこれを受けております。それは彼らの霊的生命を養い、彼らに能力ちからを与え満足を与えます。そして常にその愛と歓喜よろこびと平和とを新鮮にするのであります。
 〔ロ〕七つの光を持てる純金の燭台。──これらのキリスト者は御霊によって分ち与えられたる真理の明らかなる光を持っております。この光によって彼らは十字架と復活を見、その罪はすべて除かれ、新しき生命の中を歩みうることを理解するのであります。
 〔ハ〕純金の香壇。──彼らは祈禱と讃美の霊を持っていて、神とその恩恵の御座に近づくのであります。
 かくのごとく聖所に霊的に入って来たキリスト者は、三つの大いなる祝福を発見したのであります。即ち霊的の糧と霊的の光と祈禱の霊とであります。
(三)至聖所のキリスト者。──しかし我々はより深い経験をすることができます。それは『至聖所に入る』という型で表現されています。聖所と至聖所の間には隔ての幕がございます。しかしてこの御言は我々に至聖所の中に入ることを薦めています。かかる者が至聖所に住むキリスト者であります。
 そこで彼らは神とそのシェキナ(shekinah)の栄光とを見、ヱホバの美わしきを仰ぐのであります(詩篇二十七篇四節、イザヤ書三十三章十七節)。そこにて神の御声を聴き、その教訓と権威ある導きとを受けます。そこで彼らは御前なるひそかなる所にかくれ(詩篇三十一篇二十節)、全き安全の中におることができます(申命記三十三章十二節)。至高者いとたかきものの翼の蔭に住むのであります。
 私はかつてシベリヤの不毛の地に行ったことがあります。そのとき気温は零下十五度で、吹雪が荒れ狂っておりました。しかし私は完全な安楽と平安のうちに在りました。なぜならば私は快いまでに暖かい、シベリヤ急行列車の中にいたからであります。同様に至聖所に住まうキリスト者は、たとい迫害や憎悪の嵐が周囲に起るような時でも、平安やすき喜悦よろこびを保つことができます。彼は信仰に由り神の能力ちからに守られているからであります。

確信の基礎

 この十九節の『れば』という言葉は、非常に大切であり意義深いものであります。我々は前の一節から十八節までに述べられている真理の故に、至聖所に入ることができるのであります。その真理とは
(一)父なる神の御意みこころ(七節)。聖潔きよきは我々各自に関わる神の御意であります。罪や失敗や弱さは神の御意に反するものであります。故に我々はすべてかかる事どもより、たちどころに救われんことを要求することができます。かくして我々は必要なる恩恵めぐみの盈満に与るのであります。
 合衆国におけるすべての奴隷は、千八百六十四年リンカーン大統領の命令によって解放されました。しかしその後でも辺鄙な地方には、たくさんの奴隷が使用されておりました。そして彼らは既に解放されたもので、法律上自由な身の上であることを知らなかったのであります。もしかかる奴隷がついに大統領の命令を聞き及んだなら、彼は必ず主人の許へ行って、「私が自由になることは大統領の意志です。もし必要ならば北部政府はその全権力を行使してでも私を解放してくれます」と言うでしょう。このように自由を要求されれば、如何なる主人も文句を言ったり、或いはその奴隷に自由を与えまいとはしないでしょう。
 同様に『神の御旨は、なんぢらのきよからんこと』(テサロニケ前書四章三節)であって、私共はここに確信を置いて、我々の自由を要求することができるのであります。
(二)御子の犠牲いけにえ(十節)。カルバリでなされた贖罪あがないは完全な贖罪であります。それは『一たび獻げられ』たのであって、二度と繰り返す必要もなければ、繰り返すこともできないものであります。それは完全に罪を取り除いたのであります。それ故に私共の過去の罪は、我々が現在恩恵めぐみ聖潔きよめとを受けるための妨害とはなりません。キリストはその犠牲によって私共を神に近づかせたもうたのであります(ペテロ前書三章十八節)。十字架を仰ぎさえすれば、罪の力は我々を捉えたり妨害したりすることはできません。私共には全き贖罪があるのです(ヘブル書十章十四節)。
(三)御霊の啓示。──『聖靈もまたわれらに之をあかしす』(十五節)。
 聖霊は聖書の御言を通して私共にあかししたまいます。聖霊は聖書の約束を我々に照らし示し、我々が衣を白く保ち、そしてこの世を歩み、神を喜ばすことができるということを示したまいます。
 聖霊は旧新約全書を通じてのメッセージが『聖なるべし』であり、『もし潔からずば、主を見ること能はず』(ヘブル書十二章十四節)であることを我々に示していたまいます。
 故に私共は神の御言によって教えられ、我々が「罪より救われ、生涯、聖と義とをもって歩む」ことができるのを知るのです。そして確かにこれは我々の心の最も深い欲求に適するのであります。なぜならばすべての信者の霊魂たましいの中にある新しい性質は、その中に聖潔に対する欲望を起さずにはいないからであります。
 私の知っている一人の日本の青年は、彼が回心するや、潔められて聖霊を受けんことを非常に熱心に求めておりました。彼は毎日のように聖書を持って、山の静かな場所に参りました。そしてそこで祈り、御約束に訴えたのであります。或る日、町に帰って来る途中で、彼は教会の牧師に会いました。その牧師は彼がどこに行って来たのか訊ねました。そしてその返事を聞いて、何か祈らなければならない、特別な重荷があるのですかと尋ねました。その青年は「私は罪を犯すことなく、私を愛したもう神との愛の交際まじわりを、常に保ちつつ生活することを欲しているのです」と答えました。これはすべての真の心の欲望ではないでしょうか。これは詩篇二十七篇四〜六節に記されております。『われ一事ひとつのことをエホバにこへり、我これをもとむ、われエホバのうるはしきを仰ぎ、その宮をみんがために、わが世にあらん限りはエホバの家にすまんとこそ願ふなれ』。即ち全生涯キリストに居りたいという願望であります。しかしてそこで『エホバの美しきを仰ぐ』ということは、キリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さを知ることであります。そしてまた『エホバの家にすむ』とは即ち祈禱いのりにおいて主に近づきまつるということであります。
 みちは既に完成されてあります(ヘブル書十章二十節)。それは新しき路であり、ける路であります。新しく、しかして私共が自分自身で潔くならんと試みたふるき路とは非常に異なった路であります。アフリカの奥地ウガンダにおける伝道の初期には、すべての宣教師はそこに行くために、牛車うしぐるまで苦しい旅行たびをしなければなりませんでした。六、七ヶ月を要したほどでした。しかるに今は『新しき路』ができております。即ち鉄道でありまして、誰でもそこに五日間で安楽に行くことができます。聖潔きよめの新しき路は、キリストの血によって私共のために開かれました。私共はいま信仰によって聖霊を受けることができます(ガラテア書三章十四節)。それは活ける路であります。それ自身のうち能力ちからを持っております。地下鉄から市街に出るために、皆様は階段を苦しんで登る必要がありません。エスカレーターがあります。これは『活ける路』であって、皆様を静かに安全に運んでくれるのです。同様にキリストの復活よみがえりの能力は皆様を引き挙げて、この活ける路によって至聖所まで、神との断えざる交際の生涯にまで導かんとしていたもうのであります。
 しかして路が開かれてあるばかりでなく、そこには大祭司が在し、皆様の手を取り、神の許に連れゆかんと常に待ち構えていらっしゃるのです。活ける友が皆様を連れて行って下さるのです。そうでなかったら皆様はそこに行く路を間違えてしまうでしょう。聖潔きよめとはただ聖書の真理を理解することだけではございません。皆様を愛し、至聖所に導き入れ得る御方を信頼し確信することであります。
 故に私共祈禱いのりにて主に近づき奉りましょう。主をち望まれよ。御約束に信頼せよ。約束したまいし御方の忠実なることを確信されよ。『全き信仰』(二十二節)をもって近づけよ。さらば『至聖所に入ることを得』、弱き失敗の生涯からすべて神の全き盈満の中へ進み入ることを得ます。



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