第三、イエスと悪をなせる婦人
──砕 け た る 心──
爰に或るパリサイ人ともに食せんことをイエスに請ひたれば、パリサイ人の家に入りて席につき給ふ。視よ、この町に罪ある一人の女あり。イエスのパリサイ人の家にて食事の席にゐ給ふを知り、香油の入りたる石膏の壺を持ちきたり、泣きつつ御足近く後にたち、淚にて御足をうるほし、頭の髪にて之を拭ひ、また御足に接吻して香油を抹れり。イエスを招きたるパリサイ人これを見て、心のうちに言ふ『この人もし預言者ならば觸る者の誰、如何なる女なるかを知らん、彼は罪人なるに』。イエス答へて言ひ給ふ『シモン、我なんじに言ふことあり』。シモンいふ『師よ言ひたまへ』『或る債主に二人の負債者ありて、一人はデナリ五百、一人は五十の負債せしに、償ひかたなければ、債主この二人を共に免せり。されば二人のうち債主を愛すること孰か多き』。シモン答へて言ふ『われ思ふに、多く免されたる者ならん』。イエス言ひ給ふ『なんじの判斷は當れり』。斯て女の方に振向きてシモンに言ひ給ふ『この女を見るか。我なんぢの家に入りしに、なんぢは我に足の水を與へず、此の女は淚にて我が足を濡し、頭髪にて拭えり。なんぢは我に接吻せず、此の女は我が入りし時より、わが足に接吻して止まず。なんぢは我が頭に油を抹らず、此の女は我が足に香油を抹れり。この故に我なんぢに告ぐ、この女の多くの罪は赦されたり。その愛すること大なればなり。赦さるる事の少き者は、その愛する事もまた少し』。遂に女に言ひ給ふ『なんぢの罪は赦されたり』。同席の者ども心の内に『罪をも赦す此の人は誰なるか』と言ひ出づ。爰にイエス女に言ひ給ふ『なんぢの信仰、なんじを救へり。安らかに往け』(ルカ七・三十六〜五十)。
研究すべき五つの要点
一、この婦人とその前にあるルカ伝七章三十一節より
三十五節の記事との関係
『然れば、われ今の代の人を何に比へん。彼らは何に似たるか。彼らは童、市場に坐し、たがひに呼びて「われら汝らの爲に笛吹きたれど、汝ら躍らず。歎きたれど、汝ら泣かざりき」と云ふに似たり。それはバプテスマのヨハネ來りて、パンをも食はず、葡萄酒をも飮まねば「悪鬼に憑かれたる者なり」と汝ら言ひ、人の子來りて飮食すれば「視よ、食を貪り、酒を好む人、また取稅人・罪人の友なり」と汝ら言ふなり。然れど智慧は己が凡ての子によりて正しとせらる』(ルカ七・三十一〜三十五)。
この聖句の中に二種の人がある。
一、悲歌哀哭断食する人──バプテスマのヨハネの徒。
二、踊り歌い飲食する人 ──キリスト・イエスの徒。
であって、一は世の罪悪を見て悲しみ哀哭する人々で、他は世の救い主を見て喜び歌う人々である。主イエスは彼らの何れにもその理由のあるを認めて賞讃したもうたが、世は彼らの挙動に対して何らの反響も感動もなく、しかも彼らの真相を解せず、ただ鬼に憑かれて酒食を嗜む者なりとして嘲るを見て、譴責したもうたのである。しかしてこれに応じて二人の人物が現出して来た。それは
【一】パリサイ人シモン
ヨハネの徒の悲歌哀哭を聞きながら、その心動かず、己の罪を認めず、歎かず、しかもイエスの徒の福音に対して何らの感動もなくしておりながら、自分がイエスを嘲り笑う徒にあらざるを証せんとして、イエスを招待して偕に飲食せんことを求めた。彼らは、主イエスに対する皮相的同情者である。
【二】『悪きをなせる婦』
イエスの徒の声を聞きて心刺され、また砕かれて己が罪を悔い、歎き苦しみ、イエスの福音によりて光を得、慰藉を得てイエスは罪人の友なりと信じて慕い来れる者。すなわち主イエスに対する信実なる同情者である。
二、マタイ伝十一章二十節〜三十節にある記事と
この婦人の記事との関係
爰にイエス多くの能力ある業を行ひ給へる町々の悔改めぬによりて、之を責めはじめ給ふ、『禍害なる哉、コラジンよ、禍害なる哉、ベツサイダよ、汝らの中にて行ひたる能力ある業をツロとシドンとにて行ひしならば、彼らは早く荒布を著、灰の中にて悔改めしならん。されば汝らに告ぐ、審判の日にはツロとシドンとのかた汝等よりも耐へ易からん。カペナウムよ、なんぢは天にまで擧げらるべきか、黃泉にまで下らん。汝のうちにて行ひたる能力ある業をソドムにて行ひしならば、今日までもかの町は遺りしならん。然れば汝らに告ぐ、審判の日にはソドムの地のかた汝よりも耐へ易からん』。
その時イエス答へて言ひたまふ『天地の主なる父よ、われ感謝す。此等のことを智き者、慧き者にかくして嬰兒に顯し給へり。父よ、然り、斯の如きは御意に適へるなり。凡ての物は我わが父より委ねられたり。子を知る者は父の外になく、父をしる者は子また子の欲するままに顯すところの者の外になし。凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません。我は柔和にして心卑ければ、我が軛を負ひて我に學べ、さらば靈魂に休息を得ん。わが軛は易く、わが荷は輕ければなり』(マタイ十一・二十〜三十)。
マタイ伝十一・十六〜十九は、ルカ伝七・三十一〜三十五の記事と同じである。故にマタイ伝十一・二十〜三十の記事はルカ伝七・三十五と三十六との間に来るべきものである。しかしてこの話によりて主イエスがこの世に対して語りたもう三つの態度を見ることができる。
【一】頑固無頓着なる世の人々に対して『ああ禍害なるかな』と宣うてその罪を責めて警告したもうた。(マタイ十一・二十〜二十四)
【二】姦悪なる世の中に在りて、謙りて主イエスを受け入れ、赤子のごとく単純に主を信ずる者のあるを見て喜び、『天地の主なる父よ、われ感謝す』と宣いて感謝したもうた。(マタイ十一・二十五〜二十七)
【三】『凡て勞する者・重荷を負ふ者は我に來れ』と宣いて、疲れたる者、重荷を負う者、悩める者、悲しめる者を招きたもうた。(マタイ十一・二十八〜三十)
ヨハネの徒の悲歌哀哭に心を打たれていた悪しきをなせる婦は、主イエスのこのお招きの声を聞いて心砕かれ、慕い求めてイエスに近づき来ったのであろう。
三、パリサイ人シモンの不信仰
パリサイ人シモンは──主イエスに対して少しの信仰もなく、ただ一箇の尊敬すべき人物として招待し、極めて皮相的に主の歓心を買わんとした。故に彼は主に対して『足の水を與へず、接吻せず、油を抹らず』普通一般の礼儀さえも行わず、無礼を極めた態度であった。
【一】彼は飲み食い笛吹などの安逸の途を取ろうと考えた。
【二】彼は主イエスを饗宴に招待することによって、キリストを取税人、遊女、罪人の友であるといった者でないことを証明しようと試みた。ああ! しかし、その心の中にあるところのものが出てこないわけにはゆかなかった(七・三十九)。
【三】彼は自らを義とせんと務めている間に主イエスと婦とを非難した。彼はイエスが罪人また癩病人と接触したもうことによって汚されたまわざる御方であることを知らなかった。
四、婦の信仰
悪をなせる婦は──主イエスの言葉を聞き、その心は砕かれ、イエスを飢え渇き恋い慕った。しかして主イエスに対して正当なる信仰と深き信頼とをもっていた。
この主イエスに対する信頼は根、この信仰より来る愛は幹、この愛より溢れ出でて働く行為は果である。
【一】悔い改め
この町に罪ある一人の女……泣きつつ御足近く(ルカ七・三十七、三十八)
婦は主イエスの御言を聞き、涙をもって罪を悔い改めて御前に来た。
【二】イエスに対して恐れなし
視よ、この町に罪ある一人の女あり。イエスのパリサイ人の家にて食事の席にゐ給ふを知り、香油の入りたる石膏の壺を持ち來り、泣きつつ御足近く後に立ち、淚にて御足をうるほし、頭の髪にて之を拭ひ、また御足に接吻して香油を抹れり(ルカ七・三十七、三十八)
全き愛は恐れを除く。婦は主イエスを信じたためにイエスを慕い求め、主に対して何らの恐れも憚るところもなく、大胆に近づくことができた。
【三】人に対して恐れなし
イエスを招きたるパリサイ人これを見て、心のうちに言ふ『この人もし預言者ならば觸る者の誰、如何なる女なるかを知らん。彼は罪人なるに』(ルカ七・三十九)
シモンはパリサイ人であった。故にもしもこの家に主イエスが在さなければ、婦は如何なる事情があっても近づくことができなかった。しかし彼女は主イエスを信じ、彼を愛する故に、批評、軽蔑、猜疑と残忍に満てるシモンをも恐れず彼らの家に入り、主に近づいた。
【四】婦の深き謙遜
泣きつつ御足近く後に立ち、淚にて御足をうるほし、頭の髪にて之を拭ひ、また御足に接吻して香油を抹れり(ルカ七・三十八)
『後に立ち』『泣きつつ御足近く』『足をうるほし』『御足に接吻して』云々──彼女の態度は謙遜に充ち満ちている。彼女は主イエスを信じ仰ぎたる結果、イエスの足下に俯伏して奴隷の如き態度をもってイエスを礼拝した。真の謙遜は真の信仰より出ずる。美名を貪る作為的謙遜は傲慢であり、偽善である。
【五】満ち足れる喜び
香油の入りたる石膏の壺を持ち來り……香油を抹れり(ルカ七・三十七、三十八)
彼女の衷に満ち溢れたる喜びは感謝となり、高価なる香油を惜しみなく注ぎだしてその御足に抹った。
【六】深き柔和
パリサイ人シモンが呟き訴えるうちにありても婦は一言をも発せず、主を信じ主を仰ぎ、ただ黙して奥ゆかしく御前に控えていた。
【七】感恩の涙
淚にて御足をうるほし、頭の髪にて之を拭ひ、また御足に接吻して(ルカ七・三十八)
彼女の感恩の情は涙となり、接吻となって溢れ出でた。
五、主イエスの御言葉
【一】パリサイ人に対する主の御言葉
イ、彼らの手抜かりを責めたもうた。
彼らのなしたことの善悪でなく、なさなかったことの手抜かりを責めたもうた。(マタイ二十五・四十二〜四十四参照)
ロ、この婦の愛を賞讃したもうた。
【二】婦に対する主の御言葉
遂に女に言ひ給ふ『なんぢの罪は赦されたり』。爰にイエス女に言ひ給ふ『なんぢの信仰、なんぢを救へり。安らかに往け』(ルカ七・四十八、五十)
イ、『なんぢの罪赦されたり』
主イエスはまず彼女に赦罪の宣告をなしたもうた。彼女はこの主の御言によりて長年の心の重荷は全く下ろされた。
ロ、『なんぢの信仰、なんぢを救へり』
このところにて主は、汝の愛、汝を救えりとは言いたまわなかったことは、特に注意すべきである。主イエスはシモンに対してこの婦の愛を賞したもうた。しかし婦に対してはその愛を賞めず、その信仰を賞めたもうた。これは女が主イエスを愛せし故に救われたのでなく、イエスを信じたる故に救われ、救われたる故に彼女の愛が溢れ出たからである。
ハ、『安らかに往け』
この婦は今後主に従う故に非難、批評、悪罵を受けねばならぬ。その中にありて心の動かされざるよう、『安らかに往け』と確信を与えたもうたのである。
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