第五、イエスとパリサイ人のニコデモ
──霊 魂 の 更 生──
爰にパリサイ人にて名をニコデモといふ人あり、ユダヤ人の宰なり。夜イエスの許に來りて言ふ『ラビ、我らは汝の神より來る師なるを知る。神もし偕に在さずば、汝が行ふこれらの徴は誰もなし能はぬなり』。イエス答へて言ひ給ふ『まことに誠に汝に告ぐ、人あらたに生れずば、神の國を見ること能はず』。ニコデモ言ふ『人はや老いぬれば、爭で生るる事を得んや、再び母の胎に入りて生るることを得んや』。イエス答へ給ふ『まことに誠に汝に告ぐ、人は水と靈とによりて生れずば、神の國に入ること能はず。肉によりて生るる者は肉なり。靈によりて生るる者は靈なり。なんぢら新に生るべしと我が汝に言ひしを怪しむな。風は己が好むところに吹く、汝その聲を聞けども、何處より來り何處へ往くを知らず。すべて靈によりて生るる者も斯のごとし』。ニコデモ答へて言ふ「いかで斯る事どものあり得べき』。イエス答へて言ふ『なんぢはイスラエルの師にして猶かかる事どもを知らぬか。誠にまことに汝に告ぐ、我ら知ることを語り、また見しことを證す。然るに汝らその證を受けず。われ地のことを言ふに汝ら信ぜずば、天のことを言はんには爭で信ぜんや。天より降りし者、卽ち人の子の他には、天に昇りしものなし。モーセ荒野にて蛇を擧げしごとく、人の子もまた必ず擧げらるべし。すべて信ずる者の彼によりて永遠の生命を得ん爲なり。それ神はその獨子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためなり。神その子を世に遣したまへるは、世を審かん爲にあらず、彼によりて世の救はれん爲なり。彼を信ずる者は審かれず、信ぜぬ者は既に審かれたり。神の獨子の名を信ぜざりし故なり。その審判は是なり。光、世にきたりしに、人その行爲の惡しきによりて、光よりも暗黑を愛したり。すべて惡を行ふ者は光をにくみて光に來らず、その行爲の責められざらん爲なり。眞をおこなふ者は光にきたる、その行爲の神によりて行ひたることの顯れん爲なり』(ヨハネ三・一〜二十一)
【注意を要する点】
ニコデモは師として来り、『我らは知る』と言いて教えを求めた。故に主イエスは自ら師として来れるのでなく、救い主としてこの世に遣わされたる者なることを明らかになしたもうた。救いは知識によるのでなく、信仰による実質の変化である。
対照 ニコデモ──『師よ我らは知る』
イエス ──『人もし新たに生まれずば』
研究すべき要点
一、救いとは何ぞや ── 聖霊の働きなり
イエス答へ給ふ『まことに誠に汝に告ぐ、人は水と靈とによりて生れずば、神の國に入ること能はず。肉によりて生るる者は肉なり、靈によりて生るる者は靈なり。なんぢら新に生るべしと我が汝に言ひしを怪しむな。風は己が好むところに吹く。汝その聲を聞けども、何處より來り何處へ往くを知らず。すべて靈より生るる者も斯のごとし』。ニコデモ答へて言ふ『いかで斯る事どものあり得べき』。イエス答へて言ひ給ふ『なんぢはイスラエルの師にして猶かかる事どもを知らぬか。誠にまことに汝に告ぐ、我ら知ることを語り、また見しことを證す。然るに汝らその證を受けず。われ地のことを言ふに汝ら信ぜずば、天のことを言はんには爭で信ぜんや。天より降りし者、卽ち人の子の他には、天に昇りしものなし』(ヨハネ三・五〜十三)
【一】生命なり、生まれ更わることなり
斯る人は血脈によらず、肉の欲によらず、人の欲によらず、ただ神によりて生れしなり(ヨハネ一・十三)
人は何人でも自ら生まれることができない。己の労力、己の意志、己が方法努力をもってしても生まれ更わることができない。これは全く聖霊の働きによるものである。
【二】新生命なり
人もしキリストに在らば新に造られたる者なり、古きは既に過去り、視よ新しくなりたり(コリント後書五・十七)
旧き生命を矯正するのでなく、新たに創造せられるのである。新天新地を創造したもう神は我らの霊魂の衷にも新天新地を創造したもう。
【三】更生、すなわち第二の誕生である
斯る人は血脈によらず、肉の欲によらず、人の欲によらず、ただ神によりて生れしなり(ヨハネ一・十三)
『肉によりて生るる者は肉なり、靈によりて生るる者は靈なり』(ヨハネ三・六)
人間の肉体のごとく自然的誕生によりて始まったものでなく、ある時期において聖霊によって生まれ代わったのである。肉によりて生まるる者は肉なり、霊によりて生まるる者は霊なりで、肉によりて生まれるのでなく、聖霊の働きによりて生まれるのである。
【四】上より生まれる
その造り給へる物の中にて我らを初穗のごとき者たらしめんとて、御旨のままに、眞理の言をもて、我らを生み給へり(ヤコブ一・十八)
主イエスは御自身と人とを区別して『なんぢらは下より出で、我は上より出づ。汝らは此の世より出で、我はこの世より出でず』(ヨハネ八・二十三)と宣うた。そのごとく、天来の生命を受けることで、地に属き、肉に属き、情欲に属ける人間より生まれるのでなく、主イエスの生まれたまいしごとく同じ源より生命を受けるのである。
【五】神によりて生まれること
斯る人は血脈によらず、肉の欲によらず、人の欲によらず、ただ神によりて生れしなり(ヨハネ一・十三)
血肉、門閥、教育によりて生まれるのでなく、神によりて生まれるのである。
【六】霊魂の中に新しき生命を得ること
『肉によりて生るる者は肉なり、靈によりて生るる者は靈なり』(ヨハネ三・六)
罪によりて失われたる人間の生の息が、神の生の息によりて再び興され、活ける霊となるのである。
【七】奥義である
『風は己が好むところに吹く、汝その聲を聞けども、何處より來り何處へ往くを知らず。すべて靈によりて生るる者も斯のごとし』(ヨハネ三・八)
これは人の知恵にては悟り得ざる隠れたる秘密にして、聖霊によりてのみ悟り得るところの奥義である。
【八】神の言によりて生まれること
『人は水と靈とによりて生れずば、神の國に入ること能はず』(ヨハネ三・五)
然れば凡ての穢と溢るる惡とを捨て、柔和をもて其の植ゑられたる所の、靈魂を救ひ得る言を受けよ(ヤコブ一・二十一)
ヨハネ伝三章五節にある『水』は『言』を表すもので(エペソ五・二十六)、言を聞くにより、またこれを信ずるによりて、神の霊が生命をもて霊魂の内に働き、人の心を新生せしめるものである。
以上によりて、救われることは人間の実質の変化を意味するものにして、我らはかく救われて初めて、神の国の奥義を見(悟り)、また神の国に入る(味わう)ことを得るのである。
二、救いは如何にしてなされるか ── 聖子の働きなり
『モーセ荒野にて蛇を擧げしごとく、人の子もまた必ず擧げらるべし。すべて信ずる者の彼によりて永遠の生命を得ん爲なり』(ヨハネ三・十四、十五)。
罪を犯したる者が新たに生命を受けるために、まず罪の赦しが必要である。また聖霊が人の心に働きたもう前に、まず聖子イエスは贖罪のために十字架上で贖いの血を流さねばならぬ。それゆえに主イエスは『竿上の蛇』を示して、贖罪の死を要することを示したもうた。
『モーセ野に蛇を擧げし如く、人の子も擧げられざるべからず』(ヨハネ三・十四=英訳)
主イエスの十字架上の死は必ず成し遂げねばならぬことを示さんとして、特にかく強き助動詞を用いたもうた。かくのごとく救いは聖霊の働きにして、救いの基礎は聖子の贖罪によるのである。さらに『竿上の蛇』なる十字架上のキリストを知るために必要なる条件を研究すれば、
【一】自分が罪のために苦しみ、詛われ、痛められ、禍され、
滅びつつある者なることを悟らねばならぬ。
罪を犯せる者が自らの罪のために詛われ、禍され、滅び行きつつある者なることを悟らねば、キリストの十字架の奥義を知ることはできない。
【二】その罪を言い表し、謙り、神に向かいて泣き叫ぶことを要す。
自分自ら十字架の奥義を知らんとして悶え苦しむのでなく、自ら真実に砕き抜かれて救いを求めることである。
【三】十字架上のキリストを見上げ、己が罪のために贖いとなりたまえる
救い主を信ずることである。
かくすれば十字架に釘けられたまいし主は、鉄の磁石に吸い付けられるごとく、罪の毒を滅ぼして、新しき生命に甦らせたもうのである。
三、なにゆえ救いはなされしや ── 聖父の愛なり
それ神はその獨子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためなり。神その子を世に遣したまへるは、世を審かん爲にあらず、彼によりて世の救はれん爲なり(ヨハネ三・十六、十七)。
何故かくのごとく大いなる救いがなし得られるかと言えば、その源は聖父の愛によるのである。神は我らを愛するあまり、我らを罪より救わんために最も愛しみたもう聖子、栄えある唯一の栄光の主を惜しみなく与えたもうた(エペソ二・四、テトス三・四、ヨハネ一書四・九、十)。
四、誰が救いを受くべきや ── 罪人への恵みなり
彼を信ずる者は審かれず、信ぜぬ者は既に審かれたり。神の獨子の名を信ぜざりしが故なり。その審判は是なり。光、世にきたりしに、人その行爲の惡しきによりて、光よりも暗黑を愛したり。すべて惡を行ふ者は光をにくみて光に來らず、その行爲の責められざらん爲なり。眞をおこなふ者は光にきたる、その行爲の神によりて行ひたることの顯れん爲なり(ヨハネ三・十八〜二十一)
誰にても、すべて如何なる人物にても、信ずる者はことごとく救われるのである。しかし救いの条件を具体的に言えば、
【一】光に来ること(罪を悟ること)
いかなる人物にても光に来らずして自らの罪の罪たることを知ることが出来ない。神は罪人を救わんとして救いの道を開きたもうた。しかし罪人が暗きを愛して光に来らず、自ら罪人たることを認めねば、神の救いを受けることはできない。神が救いたまわないのでなく、また救い得ないのでなく、人が神の救いを拒むのである。
【二】十字架上のキリストを信ずること
自分の罪を悟り、光に来って自ら罪人たることを認める者も、キリストの十字架に来らねば神の救いに与ることはできない。己の罪を悟り、キリストの十字架に来らずして、自らその罪を矯正せんと努め、或いは他のものに依り縋らんとする者は、ただ煩悶を重ねるのみである。人の罪より救わるべき道はキリストの十字架を信ずるより他にない。
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