第四、イエスと捕らえられ訴えられたる淫婦

──罪 の 赦 し──



 イエス、オリブ山にゆき給ふ。夜明よあけごろ、また宮にりしに、たみみな御許みもときたりたれば、して敎へ給ふ。こゝに學者・パリサイびとら、姦淫のときとらへられたる女を連れきたり、眞中まなかに立ててイエスに言ふ、『師よ、この女は姦淫のをり、そのまま捕へられたるなり。モーセは律法おきてかゝる者を石にてつべき事を我らに命じたるが、なんぢ如何いかに言ふか』。く言へるはイエスを試みて訴ふるたねを得んとてなり。イエス身をかゞめ、指にて地に物書き給ふ。かれら問ひてまざれば、イエス身をおこして『なんぢらのうち、罪なき者まづ石をなげうて』と言ひ、また身をかゞめて地に物書きたまふ。彼等これを聞きて良心に責められ、老人としよりをはじめ若き者まで一人一人いでゆき、たゞイエスとなかに立てる女とのみのこれり。イエス身を起して、女のほかにたれらぬを見て言ひ給ふ『をんなよ、汝を訴へたる者どもは何處いづこにをるぞ、汝を罪する者なきか』。女いふ『主よ、たれもなし』。イエス言ひ給ふ『われも汝をつみせじ、け、こののちふたたび罪を犯すな』。かくてイエスまた人々に語りて言ひ給ふ『われは世の光なり、我に從ふ者は暗きうちを步まず、生命いのちの光をべし』(ヨハネ八・一〜十二)。

 鑰語やくご『われは世の光なり。我に從ふ者は暗き中を步まず、生命の光を得べし』(ヨハネ八・十二

【世の光なるキリスト】

 パリサイびとに対して──罪を示す光
 婦人おんなに対して──生命いのちを与える光

 パリサイ人はこの時において、既に主イエスを殺さんとする計画であったことは明白である(ヨハネ七・一〜十九三十〜四十五八・六参照)。しかして彼らは主イエスを殺さんとして彼の前に来たが、光によりて曝露ばくろせられしごとく、その罪を示され、捕らえられきたりし女は砕かれ溶かされて罪の赦しを得、生命いのちの光を与えられた。

研究すべき三種の人物

一、パリサイ人

【一】残酷無情

 こゝに學者・パリサイ人ら、姦淫のとき捕へられたる女を連れきたり、眞中に立ててイエスに言ふ(ヨハネ八・三

 彼らがこの女を捕らえて連れ来り、群衆の中にて辱めることは、真に義を愛し審判さばきを求める人のなすべきことでなく、かえって残酷無情なる行動である。

【二】臆  病

 姦淫のとき捕へられたる女を連れきたり(ヨハネ八・三

 モーセの律法によれば、姦淫をなしたる男女は二人とも捕らえて連れきたらねばならぬのである(申命記二十二・二十二〜二十四)。しかるに彼らは何故なにゆえか、女のみ捕らえて連れ来り、男を連れ来らなかった。これは臆病であり、また卑怯である。

【三】無学、無智

 『モーセは律法おきてかゝる者を石にて擊つべきことを我らに命じたるが、なんぢ如何いかに言ふか』(ヨハネ八・五

 律法は神の命令によるものである。しかるに彼らはこれをモーセのめいなりと公言した。彼らは儀文を解するのみにして(ヨハネ六・三十二)律法の真意について全く無智であった。

【四】悪  虐

 かく言へるはイエスを試みて訴ふる種を得んとてなり(ヨハネ八・六

 彼らの行為は悪意にて満ち、女を殺し、またイエスを殺さんと企てた。実に彼らの行動は悪虐のほか何の目的もなかった。これを、律法の主眼とする『心をつくし、精神を盡し、力を盡し、おもひを盡して、主たるなんぢの神を愛すべし。またおのれの如く汝のとなりを愛すべし』(ルカ十・二十七)との神の誡命いましめとを対照すれば、彼らの行動は全く正反対にして、善き畑に毒麦をく悪魔のごとくである。
 以上の四つのパリサイ人の態度は、彼らが悪魔の標本たることを示すものである。

二、婦  人

【一】希望を生ず

 恐怖と慚愧に心乱れ、暗黒に包まれていた女の心中に、主イエスの優しき一言を聞き、天来の光明を認めて希望のぞみを生じて来た。

【二】真の悔い改め

 たゞイエスと中に立てる女とのみのこれり(ヨハネ八・九

 パリサイ人がのがれ去った時に女も遁れ去ることはできた。しかし女はいつまでもその中に立ちて、己が真相を光の前に曝露せられしまま、黙然もくねんとしてイエスの宣告を待っていた。

【三】信仰あり

 女言う『主よ、たれもなし』(ヨハネ八・十一

 人の前をおそれぬのみならず、主イエスの前に立ちて動かず、主を憐れみある救い主と信じて、その指図を待った。しかしパリサイ人はイエスを師と呼んだが、女はイエスを主と呼んだ。主とは、神に対するユダヤ人の語である。女は主が一言をもってパリサイ人の罪を示して退かしめたまいしを見て驚き、信仰を起こしたのであろう。

三、主イエス

【一】その神性

 イエス身をかゞめ、指にて地に物書き給ふ。かれら問ひてまざれば、イエス身を起して、『なんぢらのうち、罪なき者まづ石をなげうて』と言ひ、また身を屈めて地に物書きたまふ。彼等これを聞きて良心に責められ、老人としよりをはじめ若き者まで一人一人いでゆき、たゞイエスとなかに立てる女とのみのこれり(ヨハネ八・六〜九

 ユダヤ人はモーセの律法おきてをもって左右両難の岐路に立たしめた。もし『赦せ』と言わばモーセの律法に叛く反逆者として訴えられ、『殺せ』と言わば彼は残虐にして罪人つみびとの友にあらずと言いてそしろうとした。しかるに主は驚くべき一言をもって彼らの詰問を破壊し、彼らをして如何いかんともなすことあたわざらしめたもうた。これは主が人間の奸計を透視する超自然的の智慧と権威とをもって御自身の神性を顕したもうたのである。

【二】その同情

 イエス身をかゞめ、指にて地に物書き給ふ(ヨハネ八・六

 イエスは訴えられたる女を見るに忍びず、身を屈めて地に物を書きたもうた。この時イエスが地に書きたもうたことは、隠れたるパリサイ人の罪であると或る人は言った。

【三】その智慧

 『なんぢらのうち、罪なき者まづ石をなげうて』(ヨハネ八・七

 モーセの律法おきてによると証人がまず石にて打つべきである(申命記十七・五〜七)。主イエスはこの律法の言葉を引用して、これに『罪なき者』という驚くべき一句を加えて彼らに迫り、彼らの心を刺し、彼らに一寸の間隙も、誹謗を加える余地もなからしめたもうた。これは驚くべき主の智慧である(マタイ七・五)。

【四】その能力

 彼等これを聞きて良心に責められ(ヨハネ八・九

 主イエスは彼らに向かって一言も審判さばきを与えず、彼ら自らをして審かしめたもうた。主の一言は彼らの良心を働かしめ、彼ら自ら己を審きて、おるに堪えざらしめたもうた(ヨハネ十二・四十七、四十八)。

【五】その義

 イエス身を起して、女のほかにたれらぬを見て言ひ給ふ『をんなよ、なんぢを訴へたる者どもは何處いづこにをるぞ、汝を罪する者なきか……われも汝を罪せじ』(ヨハネ八・十、十一

 罪人つみびとの死刑執行のために必要なる条件は、現場の証人の証言あかしと裁判官の宣告である。しかるに主が顔を上げて見たもうた時には証人は既に逃げ去り、訴える者は一人もなかった故に、裁判官である主もまた宣告をなし得たまわない。しかして『われも汝を罪せじ』と赦罪の宣告をなしたもうたのは当然のことにして、一点の非難を加うべき余地がなかった。これは主の義である。

【六】その愛

 『われもなんぢを罪せじ』(ヨハネ八・十一

 主は審判主さばきぬしでなく救い主である(ヨハネ十二・四十七三・十九)。また罪人つみびとを審くのは主のお役目でもない(ヨハネ三・十七)。また仲裁人でもない(ルカ十二・十三、十四)。またこの世の王でもない(ヨハネ十八・三十六)。主は救い主である。罪人の罪を赦さんためにこの世にきたり、十字架にけられて贖罪をなし、罪を赦すべき権威を造りたもうた(ヨハネ三・十七)。自らのろわれて、詛われし者を救いたもう、これは愛である。
 しかして今は恵みの時で、主は禱告主として禱告をなしたもう(ローマ八・三十四ヘブル四・十六)。この恵みの座は終わりの日に大いなる審判さばきの座となり、彼は審判主としてこの世に来りたもうのである(ヨハネ五・二十七十二・四十八使徒行伝十・四十二)。

【七】その聖潔──無罪

 『われもなんぢを罪せじ、け、こののちふたたび罪を犯すな』(ヨハネ八・十一

 主イエスが身をかがめて地に物書きたもう時、この女も遁れ去ったとすれば如何であろう? 主は女の罪を見過ごしたもうたというとがを受くべきであろうか。決してしからず、主は沈黙の間にその女の罪を彼の臨在の光の中に照らして、女をして全く砕けて悔い改めさせたもうた。もしも女が悔い改めずに逃げ去っても、世の終わりの日、すなわち審判さばきの日に、女がこのところにて受けし光に従いてその罪の審判を受けなければならなかった。幸いにして女はそこを去らず、光の中にありて自らを審いた。ゆえに主は女に赦罪を与え、しかして『ふたたび罪を犯すな』と慰めと警戒の言葉を与えたもうた。
 主は二度、地に物を書きたもうた(ヨハネ八・七、八)。或る人は、一はパリサイ人の罪状を書き、他は女に対する赦罪状を書きたもうたという。これは最も信ずべき想像である。

四、結  論

 かくてイエスまた人々に語りて言ひ給ふ『われは世の光なり、我に從ふ者は暗きうちを步まず、生命いのちの光をべし』(ヨハネ八・十二

 主は光にして救い主でいましたもう。救いの道は、光に照らされておのが罪悪を認め、しかして救い主を信じ頼りて救われることを得るのである。主は光である。彼を受け、彼に頼りし時に、この光は生命いのちの光となり、生命を得さしめるのである。しかるに世の人は、この光を受けず、また愛せず、かえって暗きを愛するゆえに、救われることを得ぬのである(ヨハネ一・九〜十二三・十九〜二十)。



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