第一、イエスと富める青年
──罪 の 確 認──
或司、問ひて言ふ『善き師よ、われ何をなして永遠の生命を嗣ぐべきか』。イエス言ひ給ふ『なにゆゑ我を善しと言ふか、神ひとりの他に善き者なし。誡命は汝が知るところなり、「姦淫するなかれ」「殺すなかれ」「盜むなかれ」「僞證を立つる勿れ」「なんぢの父と母とを敬へ」』。彼言ふ『われ幼き時より皆これを守れり』。イエス之をききて言ひたまふ『なんぢなほ足らぬこと一つあり、汝の有てる物をことごとく賣りて貧しき者に分ち與へよ、然らば財寶を天に得ん。かつ來りて我に従へ』、彼は之をききて甚く悲しめり、大に富める者なればなり。イエス之を見て言ひたまふ『富める者の神の國に入るは如何に難いかな』 (ルカ伝十八・十八〜二十四)。
研究すべき五つの要点
一、この富める宰たる青年の出て来る前のルカ伝十八章一節より
十七節にある三つの物語との対照
【一】寡 婦
また彼らに落膽せずして常に祈るべきことを、譬にて語り言ひ給ふ、『或町に神を畏れず、人を顧みぬ裁判人あり。その町に寡婦ありて、屢次その許にゆき「我がために仇を審きたまへ」と言ふ。かれ久しく聽き入れざりしが、其ののち心の中に言ふ「われ神を畏れず、人を顧みねど、此の寡婦われを煩はせば、我かれが爲に審かん、然らずば絕えず來りて我を悩まさん」と』。主いひ給ふ、『不義なる裁判人の言ふことを聽け、まして神は夜晝よばはる選民のために、縦ひ遲くとも遂に審き給はざらんや。我なんぢらに告ぐ、速かに審き給はん。然れど人の子の來るとき地上に信仰を見んや (同十八・一〜八)
金なく頼りなき寡婦は、切なる願いによってその願いは聞き入れられた。主イエスはこの話によって、神の救いを受くべき者の第一の資格を示したもうた。
【二】罪深き不義なる取税人
また己を義と信じ、他人を輕しむる者どもに此の譬を言ひたまふ、『二人のもの祈らんとて宮にのぼる、一人はパリサイ人、ひとりは取税人なり。パリサイ人、たちて心の中に斯く祈る「神よ、我はほかの人の、强奪・不義・姦淫するが如き者ならず、又この取税人の如くならぬを感謝す。我は一週のうちに二度斷食し、凡て得るものの十分の一を獻ぐ」。然るに取税人は遙かに立ちて目を天に向くる事だにせず、胸を打ちて言ふ「神よ、罪人なる我を憫みたまへ」。われ汝らに告ぐ、この人は、かの人よりも義とせられて、己が家に下り往けり。おほよそ己を高うする者は卑うせられ、己を卑うする者は高うせらるるなり』 (同十八・九〜十四)
罪深き不義なる取税人は砕けたる心にて来り、自らの罪人なるを告白し、憐れみを求めたる故に救われた。主イエスはこれによって、神の救いを受くべき者の第二の資格を示したもうた。
【三】幼 児
イエスの觸り給わんことを望みて、人々嬰兒らを連れ来りしに、弟子たち之を見て禁めたればイエス幼兒らを呼びよせて言ひたまふ『幼児らの我に来るを許して止むな、神の國は斯のごとき者の國なり。われ誠に汝らに告ぐ、おおよそ幼兒のごとくに、神の國をうくる者ならずば、之に入ること能はず』 (同十八・十五〜十七)。
無能無力にして自ら立つ能わざる幼児、母に依り縋り、単純なる信仰と信頼をもって安んじている幼児によって、主イエスは天国の市民たる資格、限りなき生命を受くべき第三の資格を示したもうた。
今この三つの物語を富める宰たる青年と比較対照すると、
一、青年は『富める者』であった(二十三節)
寡婦は『貧しき者』であった(三節)
二、青年は『義しき者』であった(二十一節)
取税人は『罪人』であった(十三節)
三、青年は『宰たる者』であった(十八節)
幼児は『嬰児』であった(十五節)
思うにこの青年は主イエスの三つの説話を拝聴していたであろう。しかしてその三つの説話が一つも自分に適合しないため、なおイエスの教えを聞かんとして来たのであろう。
二、『なお足らぬこと一つあり』
主はこの青年に『なんじなお足らぬこと一つあり』と宣うた。これによって彼がなさざりし手抜きの罪を指摘したもうた。いま試みに、これと同意味の主イエスの警戒の言葉を探ると、
『斯てまた左にをる者どもに言はん「詛はれたる者よ、我を離れて悪魔とその使らとのために備へられたる永久の火に入れ。なんじら我が飢ゑしときに食はせず、渴きしときに飮ませず、旅人なりしときに宿らせず、裸なりしときに衣せず、病みまた獄に在りしときに訪はざればなり」。爰に彼らも答へて言はん「主よ、いつ汝の飢え、或は渇き、或は旅人、あるひは裸、あるひは病み、或は獄に在りしを見て事へざりし」。ここに王こたへて言はん「誠になんぢらに告ぐ、此等のいと小き者の一人に爲さざりしは、卽ち我になさざりしなり」と。斯て、これらの者は去りて永遠の刑罰にいり、正しき者は永遠の生命に入らん』。
ここに罰せられたる罪人の地獄に送られし理由は、為すべき事を為さなかったためである。
斯て女の方に振向きてシモンに言ひ給ふ『この女を見るか。我なんぢの家に入りしに、なんぢは我に足の水を與へず、此の女は淚にて我が足を濡し、頭髪にて拭へり。なんぢは我に接吻せず、此の女はわが入りし時より、我が足に接吻して止まず。なんぢは我が頭に油を抹らず、此の女は我が足に香油を抹れり』。
ここに主イエスはシモンに『なんぢは我に足の水を與へず──接吻せず──油を抹らず』と言ってその罪を指摘したもうた。彼の罪はなすべき事をなさなかったためである。
『或る富める人あり、紫色の衣と細布とを著て、日々奢り樂しめり。又ラザロといふ貧しき者あり、腫物にて腫れただれ、富める人の門に置かれ、その食卓より落つる物にて飽かんと思ふ。而して犬ども來りてその腫物を舐れり。遂にこの貧しきもの死に、御使たちに携へられてアブラハムの懷裏に入れり。富める人もまた死に葬られしが、黃泉にて苦惱の中より目を擧げて遙にアブラハムと其の懷裏にをるラザロとを見る。乃ち呼びて言ふ「父アブラハムよ、我を憫みて、ラザロを遣し、その指のさきを水に浸して我が舌を冷させ給へ、我はこの焔のなかに悶ゆるなり」。アブラハム言ふ「子よ、憶へ、なんぢは生ける間、なんぢの善き物を受け、ラザロは悪しき物を受けたり。今ここにて彼は慰められ、汝は悶ゆるなり。然のみならず此處より汝らに渡り往かんとすとも得ず、其處より我らに來り得ぬために、我らと汝らとの間に大なる淵定めおかれたり」。富める人また言ふ「さらば父よ、願くば我が父の家にラザロを遣したまへ。我に五人の兄弟あり、この苦痛のところに來らぬよう、彼らに證せしめ給へ」。アブラハム言ふ「彼らにはモーセと預言者とあり、之に聽くべし」。富める人いふ「いな父アブラハムよ、もし死人の中より彼らに往く者あらば、悔改めん」。アブラハム言ふ「もしモーセと預言者とに聽かずば、たとひ死人の中より甦へる者ありとも、其の勸を納れざるべし」』。
ここにある富める者の地獄に墜ち入りし理由は、彼が心を閉じてなすべきことをなさなかったためである。
三、青年の誤解
この青年は四つの根本的の誤解をしていた。すなわち彼は、
【一】『善き師よ』
『善き師よ、われ何をなして永遠の生命を嗣ぐべきか』(十八節)
彼は主イエスを『神たる救い主よ』と言って信ずべきであるにかかわらず『善き師よ』と言い、救われることを願わず今少し教えらるればよしと思い、自分の智に依り頼んだ。
【二】『何をなすべきか』
『善き師よ、われ何をなして永遠の生命を嗣ぐべきか』(十八節)
永生は神よりの賜物である。ゆえにこれは信仰によって受くべきものであって、人間の行為によって得られるものでない。しかるに彼は『われ何をなして』と言い、彼自らの行為によって得られると思った。彼は自己に依り頼んだ。
【三】自己の義
彼いふ、『われ幼き時より皆これを守れり』(二十一節)
彼は確かに律法を守ったであろう。しかし彼はこれを守りしことが、彼が永生を受くべき理由となるものにあらざることを知らず、却って自らこれを誇り、これに恃んだのが誤りである。彼は自己の義は神の聖前には襤褸のごとく、何物にもあらざるを知り、人間の義であるイエス・キリストを信じて受け納れることによって永生を賜ることを知らなかった。
【四】金を愛した
彼は之をききて甚く悲しめり、大に富める者なればなり(二十三節)
彼が憂えたのは富みたるがためでなく、自己の富に執着し、富を愛したるがために、これを棄つべく命ぜられし時苦しんだ。彼は真の富は彼の財でなく、主イエス・キリストであることを知らなかった。
四、富の危険
イエス之を見て言ひたまふ『富める者の神の國に入るは如何に難いかな』(二十四節)
富の危険について聖書の言葉より引照すると、
一、『おのれの富を恃むものは仆れん』(箴言十一・二十八)
二、財貨は人を惑わす(マタイ伝十三・二十二)
三、『富者の資財はその堅き城なり、これを高き石垣の如くに思う』(箴言十八・十一)
富は偽りの平安を与えるものであって、高き石垣なりと夢想させるが、その実、牢獄の墻塀である。
四、『我をして貧からしめずまた富しめず、惟なくてならぬ糧をあたへ給へ。そは我あきて神を知ずといひヱホバは誰なりやといはんことを恐るればなり』(箴言三十・八、九)
五、『然れど富まんと欲する者は、誘惑と羂また人を滅亡と沈淪とに溺す愚にして害ある各樣の慾に陷るなり。それ金を愛するは諸般の惡しきことの根なり、或る人々これを慕いて信仰より迷ひ、さまざまの痛をもて自ら己を刺しとほせり』(テモテ前書六・九、十)。
五、富の活用
一、『與へよ』
貧しき者に分け與へ得るために手づから働きて善き業をなせ(エペソ四・二十八)。
正当なる勤労を励まし貧しき者を救うことは、これは富の用法の一つである。
二、『己が友を得よ』
『不義の富をもて、己がために友をつくれ。然らば富の失する時、その友なんぢらを永遠の住居に迎へん』(ルカ十六・九)
『不義の富』とはこの世の金銭のことで、『己が友を得よ』とは霊魂を救うことである。『富の失する時』とは富をあとに残してこの世を去る時、『その友なんぢらを永遠の住居に迎へん』とは、汝によりて救われたる霊魂が先立ちゆきて天国において汝を待ち、汝の来るを歓迎するの意である。
三、『神悦び給う』
仁慈と施濟とを忘るな、神は斯のごとき供物を喜びたまふ(ヘブル十三・十六)
おのおの吝むことなく、强ひてすることなく、その心に定めし如くせよ。神は喜びて與ふる人を愛し給へばなり(コリント後書九・七)。
四、神償い給う
汝の糧食を水の上に投げよ、多くの日の後に汝ふたゝび之を得ん(伝道の書十一・一)
貧者をあはれむ者はヱホバに貸すなり。その施濟はヱホバ償ひたまはん(箴言十九・十七)
『まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり』(マタイ二十五・四十)
『人に與へよ、然らば汝らも與へられん。人は量をよくし、押し入れ、搖り入れ、溢るるまでにして、汝らの懷中に入れん。汝等おのが量る量にて量らるべし』(ルカ六・三十八)
その他(箴言二十八・二十七、マタイ十・四十二、ヘブル六・十、マルコ十・二十八〜三十)。
結 論
この会談の結果は罪の自覚である。主は青年の目を開いて自己の真相を悟らしめたもうた。すなわちこれによりて
一、富は貧に勝らず。
二、人の義は襤褸にして神の前には自らを装うに足らず。
三、宰たる技倆は、全き単純なる信頼の妨碍をなす奴隷の軛たることを示し、救われんと欲する者は寡婦、税吏、嬰児のごとくならねばならぬことを教えたもうた。
| 総目次 | 目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |