第六、イエスとサマリアの婦

──聖 霊 の 賜 物──



 主、おのれの弟子を造り、これにバプテスマを施すこと、ヨハネよりも多しとパリサイびときこえたるを知り給ひし時、(その實イエス自らバプテスマを施ししにあらず、その弟子たちなり)ユダヤを去りてまたガリラヤにき給ふ。サマリヤを經ざるを得ず。サマリヤのスカルという町にいたり給へるが、この町はヤコブその子ヨセフにあたへし土地に近くして、此處こゝにヤコブの泉あり。イエス旅路に疲れて泉のかたはらにし給ふ、時は第六時頃なりき。サマリヤのある女、水を汲まんとてきたりたれば、イエスこれに『われに飮ませよ』と言ひたまふ。弟子たちは食物を買はんとて町にゆきしなり。サマリアの女いふ『なんぢはユダヤびとなるに、如何いかなればサマリヤの女なる我に、飮むことを求むるか』。これはユダヤびととサマリヤびととはまじはりせぬゆゑなり。イエス答へて言ひ給ふ『なんぢし神の賜物を知り、また「我に飮ませよ」といふ者のたれなるかを知りたらんには、これに求めしならん。らばなんぢける水を與へしものを』。女いふ『主よ、なんぢは汲む物を持たず、ゐどは深し、そのける水は何處いづこより得しぞ。なんぢはこのゐどを我らに與へし我らの父やコブよりもおほいなるか、彼も、その子らも、その家畜も、これより飮みたり』。イエス答へて言ひ給ふ『すべての水をのむ者は、またかわかん。れどがあたふる水を飮む者は、永遠とこしへに渴くことなし。わが與ふる水は彼のうちにて泉となり、永遠とこしへ生命いのちの水湧きいづべし』。女いふ『主よ、わが渴くことなく、又ここに汲みに來ぬために、その水を我にあたへよ』。イエス言ひ給ふ『ゆきてをっとをここに呼びきたれ』。女こたへて言ふ『われに夫なし』。イエス言ひ給ふ『夫なしといふはうべなり。夫は五人までありしが、今ある者は、なんぢの夫にあらず。しと云へるはまことなり』。女いふ『主よ、我なんぢを預言者とみとむ。我らの先祖たちはの山にて拜したるに、汝らは拜すべきところをエルサレムなりと言ふ』。イエス言ひ給ふ『をんなよ、が言ふことを信ぜよ、の山にもエルサレムにもあらで、なんぢらの父を拜する時きたるなり。汝らは知らぬ者を拜し、我らは知る者を拜す、すくひはユダヤびとよりづればなり。されどまことの禮拜者の、靈と眞とをもて父を拜する時きたらん、今すでにきたれり。父はかくのごとく拜する者を求めたまふ。神は靈なれば、拜する者も靈と眞とをもて拜すべきなり』。女いふ『我はキリストととなふるメシヤのきたることを知る、彼きたらば、諸般もろもろのことを我らに告げん』。イエス言ひ給ふ『なんぢと語る我はそれなり』
 時に弟子たち歸りきたりて、女と語り給ふを怪しみたれど、何を求め給ふか、何故なにゆゑかれと語り給ふかと問ふものたれもなし。こゝに女その水瓶みづがめのこしおき、町にゆきて人々にいふ、『來りて見よ、わがししことをことごとく我に告げし人を。この人、あるひはキリストならんか』。人々町をでてイエスの許にゆく。この間に弟子たちひて言ふ『ラビ、食し給へ』。イエス言ひたまふ『我には汝らの知らぬが食する食物あり』。弟子たちたがひにいふ『たれか食する物を持ち來りしか』。イエス言ひ給ふ『われをつかはし給へる者の御意みこゝろを行ひ、その御業みわざをなし遂ぐるは、これわが食物なり。なんぢら收穫時かりいれどききたるには、なほ四月よつきありと言はずや。我なんぢらに告ぐ、目をあげて畑を見よ、はやきばみて收穫時かりいれどきになれり。刈る者は、あたひを受けて永遠とこしへ生命いのちの實を集む。く者と刈る者とともに喜ばんためなり。俚諺ことわざに彼は播き、これは刈るといへるは、こゝにおいて眞なり。我なんぢらをつかはして勞せざりしものを刈らしむ。ほかの人々さきに勞し、汝らはその勞ををさむるなり』
 の町の多くのサマリヤびと、女の『わがしし事をことごとく告げし』とあかししたることばによりてイエスを信じたり。かくてサマリヤ人、御許みもとにきたりての町にとゞまらんことを請ひたれば、此處こゝに二日とどまり給ふ。御言みことばによりてなほもおほくの人、信じたり。かくて女に言ふ、『今われらの信ずるは汝のかたることばによるにあらず、親しく聽きて、これはまことに世の救主すくひぬしなりと知りたるゆゑなり』(ヨハネ四・一〜四十二)。

【前回のヨハネ伝三章とこのヨハネ伝四章との比較対照】

 ルカ伝十八章と十九章にあった対照のごとく、富める青年は救われず、不義なるザアカイが救われたと同じく、ヨハネ伝三章における最も尊き宗教家にしてただしきニコデモは救われるに至らずして退き、ヨハネ伝四章のサマリアにおける最もいやしき不義なる婦人が救われ、聖霊に満たされて往った。今この両会談を比較対照すると、
【第三章】
 一、人は主イエスを求む。
 二、人は知識を求めて来た。
 三、問題は、如何いかに(四節)如何で(九節)生まれるべきか、学者ですら到底解することができない。
 四、主のことば生命いのちの賜物。
 五、比喩たとえは、暗黒やみ、光、風。
 六、ニコデモはき心をもちて信じてきたり、しかして空しく去った。
【第四章】
 一、主イエスは人を求む。
 二、主は生命いのちを与えんために来られた。
 三、問題は、如何で(九節)何処いずこにて水を得べきか(十一節)、女は到底解することができなかった。
 四、主の言は生命を与える霊の賜物。
 五、比喩は、渇き、水。
 六、サマリアの女は偏見をもって来り、満たされて帰る。

研究すべき四つの要点

一、サマリアの女(人の魂の真相)

一、表面の観察

【一】欠  乏

 サマリヤのある女、水を汲まんとてきたりたれば、イエスこれに『われに飮ませよ』と言ひたまふ(ヨハネ四・七

 彼女は日中水を汲みに来た。これは貧しき者の常である。人の心は常に貧しくして乏しく憐れなる状態に陥っている。

【二】偏  見

 サマリアの女いふ『なんぢはユダヤびとなるに、如何いかなればサマリヤの女なる我に、飮むことを求むるか』。これはユダヤ人とサマリアびととはまじはりせぬゆゑなり(ヨハネ四・九

 サマリアの女とユダヤ人との間のごとく、人の心は常に、与えんとする真の救い主に対して偏見をもっている。

【三】愚  昧

 女いふ『主よ、わが渴くことなく、又ここに汲みに來ぬために、その水を我にあたへよ』(ヨハネ四・十五

 この女は主イエスにける水を示されていながら、なお井戸の水のことを思っていたごとく、人の心が新生せず、霊によらねば、神のことはわきまえ得ない。

【四】つみ  びと

 女こたへて言ふ『われにをっとなし』。イエス言ひ給ふ『夫なしといふはうべなり。夫は五人までありしが、今ある者は、なんぢの夫にあらず。無しと云へるはまことなり』(ヨハネ四・十七、十八

 この女は五人の夫に仕えていたごとく、人の心は常に罪の下にあって愛嬌を売りつつある。

二、裏面の観察

【一】女のうちに神を知らんとする高尚なる希望が存在していた

 女いふ『主よ、我なんぢを預言者とみとむ。我らの先祖たちはの山にて拜したるに、汝らは拜すべきところをエルサレムなりと言ふ』(ヨハネ四・十九、二十

 この願望は女の心中深く潜伏していたが、罪悪のために覆われていた。しかし主イエスによってその罪悪を指摘され、主を真の預言者として知るや否や、この願望は俄然勃興し、神を礼拝する道を求めた。女はこの時いたく自己の罪を指摘され、恥辱と恐怖に満ちていたが、自己の中にこの願望が浮かび上がると、一切の恥辱も恐怖も忘れて、大胆に主イエスに近づきかつ尋ねた。人の魂は種々様々なる娯楽と歓楽たのしみ慰藉なぐさめをこの世に求めているが、その心の根底には神に向かって飢え渇きつつあるのである。

【二】救い主を待ち望んでいた

 『汝らは知らぬ者を拜し、我らは知る者を拜す。すくひはユダヤびとよりづればなり』(ヨハネ四・二十二

 女はかすかながらもいにしえより約束せられていた預言者の言葉を記憶し、メシアを待ち望んでいた。人は自ら解しあたわざることを知れば、必ず天来の黙示を望み、また自ら救い得ざることを知れば、必ず天来の救う力ある主を求めるようになるのである。

【三】熱心かつ大胆である

 女の中より偏見が除かれ、賜物が示され、主イエスご自身が現されると、その一言一言、いよいよ熱心かついよいよ大胆に、心中に潜伏していた愛情ある信任は勃興しきたり、ついに主の御顔みかおの前にあっていささかの恐怖もなくなった。ハレルヤ。
 人の霊魂たましい表面うわべより観察すれば全く救わるべき望みはない。しかしその裏面より観察すれば、確実なる救いの見込みがあるのである。

二、神の賜物(上)

【一】自己を満足せしむ

 『れどがあたふる水を飮む者は、永遠とこしへに渴くことなし』(ヨハネ四・十四

 自己の心中に全き満足を与えられる。

【二】人を満足せしむ

 『わが與ふる水は彼のうちにて泉となり、永遠とこしへ生命いのちの水湧きいづべし』(ヨハネ四・十四

 この賜物を受けし者は、自ら満足するのみならず、さらに泉の源となりて、そこより生命の水湧き出で、四囲の人々のためにその水を注ぎ出すに至る。

【三】神を満足せしむ

 『まことの禮拜者の、靈と眞とをもて父を拜する時きたらん、今すでにきたれり。父はかくのごとく拜する者を求めたまふ。神は靈なれば、拜する者も靈と眞とをもて拜すべきなり』(ヨハネ四・二十三、二十四

 この賜物すなわち聖霊は、神の父たるを示し、拝する者をして神を父として拝するを得せしむ。これは人の心の奥底に秘められたる満足にして、またこれは神御自身の深きご満足である。

三、神の賜物(下)

【一】永続的である

 『わが與ふる水は彼のうちにありて泉となり、永遠とこしへ生命いのちの水湧きいづべし』、永遠に絶えず湧き続けて永生に至る。

【二】きよめる力

 『水、泉』洗い潔める働きをなす。主はこれによって聖霊の潔める力を示したもう。

【三】霊魂を満足せしめる

 『永遠とこしへに渴くことなし』常に満たし、かくて永遠にまでいたる。

【四】他を恵むところの恵み

 『となりて永遠とこしへ生命いのちの水湧きいづべし』。

【五】内心的

 『彼のうちにて』。

【六】神の賜物

 『わが與ふる水は』。

【七】誰にも及ぶ

 『わが與ふる水を飮む者は』飲む者、すなわち誰にても信じて飲みさえすれば。

四、主イエスの霊魂たましいを導きたもう方法

 主イエスは人間の霊魂を救うために必要なる三つのものを示された。すなわち『なんぢし神の賜物を知り、また「我に飮ませよといふ者のたれなるかを知りたらんには、これに求めしならん。らばなんぢける水を與へしものを』(ヨハネ四・十)。この一節の中に表されたものは(一)賜物なる活ける水(聖霊)、(二)賜物の主なる父、(三)仲保者なる主ご自身である。

【一】賜物なる聖霊

 主イエスは第一に賜物なる聖霊を提出したもうた。ゆえに女はこれによりて渇きを起して慕い求めるに至った。無頓着なる霊魂を導くときに特に肝要なるはこの点であって、まず何よりも彼の求むべきものを示さねばならない。ヨハネ伝三章においても同様に、主はまず新生の賜物を示したもうた。使徒行伝二章においても使徒ペテロはこの聖霊の賜物を示した(使徒行伝二・十四〜二十一)。

【二】賜物の主なる父

 更に主は神を父として示し(ヨハネ四・二十一〜二十四)、聖霊は神を父として拝するところより受け得べきものなることを示したもうた。また主はこれを父の賜物として語りたもうた(ルカ十一・十三)。またこれを父の約束せしところのものとして示したもうた(使徒行伝一・四)。

【三】仲保者たるイエス・キリスト

 すなわち最後に御自身を顕したもうた(ヨハネ四・二十六)。主は聖霊を賜物として示し、神を与える父として示し、その二者の間の仲保者、救い主として主イエス御自身を顕したもうた。しかして如何にして女に御自身を顕したもうたかと言えば、

 イ、女の罪を一言いちごんもとに指摘してその心を刺したもう。
 『ゆきて夫をここに呼びきたれ』(ヨハネ四・十六)、この一言ひとことによりて女の心を刺し貫き、その真相を曝露したもうた。

 ロ、自己の権能を示したもう。
 ゆえに女は主イエスが全知者でおわすことを知って驚いた。ヨハネ伝一・四十七〜四十九にあるナタナエルに対しても同様であって、これはまた現在においても同様である。聖書が神のことばであることを信じ得る第一の理由は、我らがこれを読む時に、自己を知り、罪を知り、いたく刺される点にある。

参照 ── 霊魂たましいを導く順序

【一】ヨハネ伝三章において
 (一)聖霊、(二)キリスト、(三)父なる神、(四)罪。
【二】ヨハネ伝四章において
 (一)聖霊、(二)罪、(三)父なる神、(四)キリスト。
【三】使徒行伝二章において
 (一)聖霊、(二)キリスト、(三)父なる神、(四)罪人のなすべきこと。



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