第七、イエスと十字架上の盗人
──臨 終 の 平 安──
また他に二人の惡人をも、死罪に行はんとてイエスと共に曳きゆく。
髑髏という處に到りて、イエスを十字架につけ、また惡人の一人をその右、一人をその左に十字架につく。斯てイエス言ひたまふ『父よ、彼らを赦し給へ。その爲す所を知らざればなり』。彼らイエスの衣を分ちて鬮取にせり、民は立ちて見ゐたり。司たちも嘲りて言ふ『かれは他人を救へり、若し神の選び給ひしキリストならば己をも救へかし』。兵卒どもも嘲弄しつつ近よりて酸き葡萄酒を差し出して言ふ、『なんぢ若しユダヤ人の王ならば、己を救へ』。又イエスの上には『此はユダヤ人の王なり』との罪標あり。
十字架に懸けられたる惡人の一人、イエスを譏りて言ふ『なんぢはキリストならずや、己と我らとを救へ』。他の者これに答へ禁めて言ふ『なんぢ同じく罪に定められながら、神を畏れぬか。我らは爲ししことの報を受くるなれば當然なり。然れど此の人は何の不善をも爲さざりき』。また言ふ『イエスよ、御國に入り給ふとき、我を憶えたまへ』。イエス言ひ給ふ『われ誠に汝に告ぐ、今日汝は我と偕にパラダイスに在るべし』(ルカ伝二十三・三十二〜四十三)。
カルバリ山上に主イエスを中心として三本の十字架が立てられた。元来、主イエスの釘けられた十字架はバラバのために準備されたものであるが、バラバは釈され、その代わりとしてイエスがこれに釘けられたもうたのである。主イエスの両側の罪人のうち、一人は悔い改め、一人は終わりまで主イエスを詛ったが、悔い改めし罪人との十字架上の会談がこの研究の題目である。
研究すべき三つの要点
一、盗人はその罪を確認させられた
【一】罪の確認は突然であった
ともに十字架につけられたる强盜どもも、同じ事をもてイエスを罵れり(マタイ二十七・四十四)
マタイ伝にある『强盜ども』と複数に記されてあるところを見ると、この盗人もまた最初は他の盗人のごとく主イエスを嘲弄していたようである。また伝説によれば、彼らは二人ともバラバの党族であった。バラバは普通の盗賊でなく、いわゆる愛国者にして、ユダヤをローマの権威より救い出さんとして慨嘆しつつあった者で、彼らは山に棲み、谷に隠れ、出没隠現しては時々騒動を起こし、掠奪をこととしていた。また一面彼らはメシアの出現を俟ち望み、イエスの顕れたもうた時、彼は真のメシアなるや否やを問題とし、その説教を聞きてあまりに心霊的なるために失望し、これはメシアにあらずと非議していたる者のようである。この盗人はかかるバラバの党類であったため、最初イエスを嘲弄したことは当然のことであった。しかし彼は如何にして罪を認むるに至ったかと言えば、
【二】婦よわがために泣くなかれ
民の大なる群と歎き悲しめる女たちの群と之に從ふ。イエス振反りて女たちに言ひ給ふ『エルサレムの娘よ、わが爲に泣くな、ただ己がため、己が子のために泣け。視よ、「石婦・兒產まぬ腹・飮ませぬ乳は幸福なり」と言ふ日きたらん。その時ひとびと「山に向ひて我らの上に倒れよ、岡に向ひて我らを掩へ」と言ひ出でん。もし青樹に斯く爲さば、枯樹は如何にせられん』
また他に二人の惡人をも、死罪に行はんとてイエスと共に曳きゆく(ルカ二十三・二十七〜三十二)
裁判官ピラトの前よりこの盗人はイエスと共に刑場に曳き出されて行った。イエスは裸足にて十字架を負いて行きたもう時、歎きつつ従って来たエルサレムの女たちに向かって、エルサレムの娘よ、わがために泣くな……と言って、かえって彼らを教えたもう主イエスの言葉を盗人たちはつぶさに聞いていた。
【三】わが国はこの世の国にあらず
イエス答へ給ふ『わが國はこの世のものならず、若し我が國がこの世のものならば、我が僕ら我をユダヤ人に付さじと戰ひしならん。然れど我が國は此の世のものならず』(ヨハネ十八・三十六)
ピラトの庭においてかく言いたもうイエスの言葉を盗人は聞いたであろう。イエスの言いたもう王国はこの世の国でなく、メシアの国を指したもうたものだと分かった。
【四】罪標に『ユダヤ人の王イエス』
又イエスの上には『此はユダヤ人の王なり』との罪標あり(ルカ二十三・三十八)
十字架上に掲げられた罪標は、当時の天下の三大語にて公表された。すなわち文学と教育の国なるギリシャ語、政治法律の国なるローマ語、宗教国なるヘブル語の三カ国語にて『ユダヤ人の王』と記されてあるのを盗人は見、この前代未聞の罪標のためにひそかに驚いたであろう。しかしてイエスがピラトの庭にて答えたもうた言葉を連想し、その心に深き感動をもちつつ、茨の冠の下に血に染みながらも天の栄光に輝きたもう聖顔を拝して、心打たれたであろう。
【五】父よ、彼らを赦したまえ
髑髏という處に到りて、イエスを十字架につけ、また惡人の一人をその右、一人をその左に十字架につく。斯てイエス言ひたまふ『父よ、彼らを赦し給へ。その爲す所を知らざればなり』。彼らイエスの衣を分ちて鬮取にせり(ルカ二十三・三十三、三十四)
この兵卒たちの残虐無礼なる取り扱いに憤怒と呪詛をもって酬ゆべきであるにかかわらず、主イエスの聖顔はかえって慈愛と憐憫の色に満ちて『父よ、彼らを赦し給へ、その爲す所を知らざればなり』と彼らのために父なる神に赦罪を祈られた。盗人は自己の心情に比較して実に奇怪に堪えなかったであろう。しかしてかかる兵卒たちのためになお赦罪を祈りたもうほどであれば、我のごとき者にもまた赦しを与えて下さるであろうと思えば、はじめ嘲笑したことが慚愧に堪えなかったと思われる。
【六】民は立ちて見ゐたり、司たちも嘲りて
民は立ちて見ゐたり。司たちも嘲りて言ふ『かれは他人を救へり、若し神の選び給ひしキリストならば己をも救へかし』(ルカ二十三・三十五)
往来の人も司たちも何の感動もなく、冷笑してイエスを見、嘲笑しては嗤う。一方の盗人さえも『なんぢキリストならずや、己と我とを救へ』(三十九)と嘲笑悪罵を浴びせかける中にあって、主イエスは彼らの言葉に些かも動かされたまわず、天を仰いで父に赦しを祈りたもうその容姿、風貌、実に恩寵と真理にて満ちていたもうこの主イエスの聖顔を盗人は凝視して、その栄光のために心刺されたであろう。
二、罪の悔い改め
【一】神を畏れぬか
他の者これに答へ禁めて言ふ『なんぢ同じく罪に定められながら、神を畏れぬか』(ルカ二十三・四十)
兵卒も祭司も司も群衆もことごとく嘲笑を浴びせかけている時、盗人は栄光ある主イエスを見て、己が罪を確認した結果、神を畏れる心を生じ、その友に向かって警戒した。彼はその周囲を見ず、ただイエスを見て聖なる畏れが起こったのである。これは悔い改めし第一の徴である。
【二】自己の罪を認め、罪の罰を当然とした
盗人は己が罪を認めて告白した。彼は神を畏れ、己の罪を認めて仮借するところなく己を審いた。罪の赦されるには、まず己が罪を言い表すことと、キリストの贖罪の功を信ずることである。罪を言い表すことと、赦罪を求めることとには大差がある。多くの人はこの点においてよく誤る故、罪の言い表しについて三つの肝要なる点を掲げて、その異なるところを明らかにしよう。
イ、神の性質に関し
神の怒りを挽回するにはただ十字架のみで、我らは如何に謙り、如何に熱誠を尽くしても、これによって神の御心を動かし、神に近づき得ることはできない。しかし神に向かって『赦したまえ』と祈るよりも、甘んじて神の審判を受けてこれを承認し、ありのまま自己の罪を告白して神のなしたもうままに自己を委ね奉ること、これは神の義たる性質に関して当然あるべきことである。
ロ、キリストの犠牲に関し
神が罪人に赦罪を与えたもう正当なる基礎は、キリストの十字架である。罪悪は如何なるものでも贖いなくしては赦されない。人が罪を悔い改めたからとて赦されず、また神が憐憫に動きたもうからとて赦さるべきものでない。ただ神が公義をもって罪を赦したもう理由は、キリストの十字架の贖いの故である。
ハ、自己の罪悪を告白する
罪を言い表すことは、自己の罪に対して神の審判は当然なりと承認することである。しかして神の義しき審判をもって満足し、キリストの贖罪をもって満足するのである。上の盗人は『我らは……當然なり』と告白して神を崇め、キリストを崇め、己が罪の審判に満足を表したのである。
【三】キリストの無罪を信じた
『我らは爲しし事の報を受くるなれば當然なり。然れど此の人は何の不善をも爲さざりき』(ルカ二十三・四十一)
主イエスは何の罪もなき御方で、その御苦難はわが罪のためであると言い表したのであって、彼は、己が罪の身代わりとなって死の苦しみを舐め、世の罪を負う神の小羊としてキリストを見た。
【四】来るべきキリストの王国を信じた
また言ふ『イエスよ、御國に入り給ふとき、我を憶えたまへ』(ルカ二十三・四十二)
彼は主イエスを真のメシアと信ずるとともに、必ず来るべきメシアの国の王なることを認め、再び来りて王国を造りたもう栄光の時を待ち望んだ。
【五】キリストの救いたもうことを信じた
また言う『イエスよ、御國に入り給ふとき、我を憶えたまへ』(ルカ二十三・四十二)
主イエスが救い主であると信ずるとともに、彼を救わんとの聖旨のあることを信じた。故に彼は己の罪を言い表したり、また赦したまえと祈ることもせず、『我を憶えたまへ』と祈った。彼は主の内に既に赦罪のあるを信じたのである。
【六】大いなる信仰
マカロフ氏の言葉に『この盗人は天国において、使徒パウロよりも栄えあり、パウロよりも高き位と冠あるべし』と言ったが、事実、主の弟子たちは主の奇蹟を見て信じ(ヨハネ二章)、サマリアの女は主の証を聞いて信じ(ヨハネ四章)、サマリア人は主の言葉を聞いて信じた(ヨハネ四・四十二)。しかるにこの盗人は、主が全く捨てられ、全く栄光を捨てたまいし時にキリストを信じた。彼の信仰は実に大いであった。
三、主イエスのお取り扱い
イエス言い給ふ『われ誠に汝に告ぐ、今日なんぢは我と偕にパラダイスに在るべし』(ルカ二十三・四十三)
【一】『われ誠に汝に告ぐ』
普通の約束の上に更に誓いを加えしものであって、彼をしてかかる境遇にあるとき信ぜしめるために特に付け加えられし御言である。
【二】『今 日』
彼は主が栄光の中に再び来りたもう彼の日を望みて恵みを願ったが、主は、彼の日と言わず、『今日』と言った。数時間も経過せざるうちに我と偕にパラダイスに在るべしと言った。
【三】『な ん ぢ』
特に彼を指し、単数とし、二人称を用いて、彼自身の外に紛らうことなき確実なる表示をなしたもうた。もしもこの時『なんぢら』と言われしならば、漠然として確かに信ずることができなかったであろう。
【四】『パラダイスに在るべし』
盗人は今まで、かつてアダム、エバがエデンにあって神と偕に歩みしことを聞いていたであろう。主はパラダイスなる言葉にてこれを想起せしめたもうた。
【五】『我と偕に』
イエスと偕に往き得ると。今まで恐るべき奸悪と呪詛に充てる者の中にあり、かつまた彼自らも呪詛と奸悪にて満てる者なりしに、次の瞬間に主と共に天のエデンの園にあるとは何たる恩寵か。ハレルヤ。
主イエスの個人的会談 終
昭和十年十二月五日印刷
昭和十年十二月十日發行
定價金參拾錢
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不 許 複 製
著作權者 日本傳道隊聖書學舎出版部
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発行人 澤 村 五 郎
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印刷者 落 田 健 二
兵庫縣明石郡垂水町盬屋八十七
印刷所 日本傳道隊聖書學舎出版部
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発行所 兵庫縣明石郡垂水町盬屋八十七
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