第二、イエスと税吏の長ザアカイ
──生命に至る悔い改め──
エリコに入りて過ぎゆき給ふとき、視よ、名をザアカイといふ人あり、取稅人の長にて富める者なり。イエスの如何なる人なるかを見んと思へど、丈矮うして群衆のために見ること能はず、前に走りゆき、桑の樹にのぼる。イエスその路を過ぎんとし給ふ故なり。イエス此處に至りしとき、仰ぎ見て言ひたまふ『ザアカイ、急ぎおりよ、今日われ汝の家に宿るべし』。ザアカイ急ぎおり、喜びてイエスを迎ふ。人々みな之を見て呟きて言ふ『かれは罪人の家に入りて客となれり』。ザアカイ立ちて主に言ふ『主、視よ、わが所有の半を貧しき者に施さん。若し、われ誣ひ訴へて人より取りたる所あらば、四倍にして償はん』。イエス言ひ給ふ『けふ救はこの家に來れり、此の人もアブラハムの子なればなり。それ人の子の來れるは、失せたる者を尋ねて救はん爲なり』(ルカ伝十九・一〜十)。
この会談の鑰節はルカ十八・二十四〜二十八であって、富める人の救いは
人間の側より言えば──富める者は救われ難し(十八・二十四)
神の側より言えば ──富める者は救われ得る(十八・二十七)
のである。しかして前者は富める青年にして、後者は富める税吏なるザアカイである。
研究すべき五つの要点
一、富める青年とザアカイとの比較
【一】彼らの身分の比較
富める青年──富者、宰、義人
ザアカイ ──富者、長、罪人
【二】さらにその状況を対照せば
富める青年──彼はイエスに来り、彼はおのが義を献げ、彼は永生を儲けんと欲した
──徹頭徹尾自己の行為に由らんとす。
ザアカイ ──主が彼に来り、主が自らを彼に与え、主が救いを授けたもうた
──ただ神の恩賜による。
二、ザアカイの熱心
ザアカイが救われたのは、全く神の恵みによるのであるが、また一面、彼の内には一種の熱心が燃えていた。その熱心は
【一】主イエスを見んとして熱心であった。
イエスの如何なる人かを見んと思へど、丈矮うして群衆のために見ること能はず、前に走りゆき、桑の樹にのぼる。イエスその路を過ぎんとし給ふ故なり(十九・三、四)。
彼は主イエスを見んがために己を忘れて滑稽なる行為をも敢えてした。すなわち『見んと願い』『走りゆき』。かくのごとく我らも聖書を読むとき、主を見んとの熱心が必要である。
【二】主を歓迎せんとして熱心であった。
ザアカイ急ぎおり、喜びてイエスを迎ふ(十九・六)。
彼は主イエスの声を聞くや否や『急ぎおり』、『喜びてイエスを迎ふ』。
【三】悔い改めて主に従う熱心
ザアカイ立ちて主に言ふ『主、視よ、わが所有の半を貧しき者に施さん、もしわれ誣ひ訴へて人より取りたる所あらば、四倍にして償わん』(十九・八)
『ザアカイ立ちて主に言ふ』とあるごとく、彼はこの時まで随喜の涙に咽んで主の足許に俯伏していたが、人々が嘲り訴えるを聞きて奮然起ちて、悔い改めの実を顕したのである。
三、ザアカイの感動
彼は最初、好奇心に駆られてイエスに来たが、ついに悔い改めて主に従うに至った。その内心の変化は特に注意すべきであって、これによって主が如何にして罪人に救いを施したもうかを学び得る。
【一】主尋ね求めたもう
ザアカイの心が動かされたのは、主イエスのご熱心に感じたからである。罪人の救われるのはこれであって、我らが神を求めるのでなく、神が我らを求めたもうからである。
イ、魂を求めたもう
亡ぼされし魂を神は求めたもう(ルカ十五章、十九章参照)。
ロ、果を求めたもう
救われし魂が好き果を結ぶことを求めたもう(『われ來りて三年間果を求む』ルカ十三・七)。
ハ、礼拝者を求めたもう
救われし者が栄光と讃美を主に帰し奉ることを求めたもう(ヨハネ四・二十三)。
【二】ザアカイは如何に感ぜしや
イ、主イエスの態度
『仰ぎ見て』。彼は桑の樹の葉の間に隠れた己を主に仰ぎ見られてその心が動いた。
主は今も、世の楽しみの間に隠れいて苦しめる魂を仰ぎ見て、求めておられるのである。
ロ、主イエスの知識
『ザアカイよ』。名を呼ぶはその人を知る徴である。一面識もなきキリストが彼の名を呼ばれた故に、彼は驚きと同時に、キリストに対する信仰は電光のごとく閃き出た(黙示録三・十五、ヨハネ四・十七、ヨハネ一・四十八)。今も罪人は聖言の剣によってその正体を照らされ、赤裸々に顕し出された時、その心動きて信仰を起こすのである。
ハ、主イエスの愛
『今日われ汝の家に宿るべし』。主イエスは罪人なる彼の家に宿ると宣うた。ザアカイはその愛に感動せざるを得なかった。『視よ、われ戸の外に立ちて叩く』(黙示録三・二十)。神は人の心の外に追い出されていたもう。しかし神は人の心の外に立ちて、入りて宿らんとしてその心の戸を叩きていたもう。この深き愛! 人はこの深き愛に動かされないでおろうか。
四、ザアカイの信仰
【一】彼は試みられた
主は彼に救いを施して恵みを授けんとされず、まず御自身を提供して『われ汝の家に宿るべし』と宣うた。主はこれによりて彼に、恵みを愛するか、それとも恵みの主を愛するかを試みたもうた(ルカ二十四・二十八、二十九)。
【二】証明せられた
彼は恵みに目をつけず、主のご慈愛に励まされて主を受け納れ、悔い改めと献げ物とをもって自己の信仰の実を証明した(使徒行伝十九・十八、十九)。
【三】酬いられた
『救はこの家に來れり』、ハレルヤ。『今日われ汝の家に宿らん』との聖言を信じて主を受け納れし者に、『今、救は来る』のである。ザアカイは永遠の救いをもて酬いられた。
五、ザアカイを救ったものは何か
『この人もアブラハムの子なればなり』、すなわち彼の信仰である。すべて主イエスをおのが救い主として信ずる者は救われる(ガラテア三・七)。
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