ビ・エフ・バックストン 述
小 島 伊 助 通訳
心 霊 的 講 演 集 第一輯
ヨシュア記の研究
約束の聖霊を受けますならば、その時からいろいろ困難な問題が起ってまいります。私共はただ信仰によりて立つはずですけれども、聖霊を受けますならば、その困難な問題を解くために格別に聖書を読まねばなりません。
主イエスも聖霊のバプテスマをお受けなさいました後、すぐに悪魔に試みられんがため、荒野に遣わされたまいましたが、その時たぶん申命記を持って行かれましたと思います。主は申命記の言葉によってその試誘に打ち勝ちたまいました。ですから聖霊を受けましたものが申命記を読みますならば、大いなる益を受けます。またこのヨシュア記によりましても教えられることがたくさんあります。
ここでイスラエル人ははじめて約束の地に入ることができます。まただんだんその地を占領することができます。約束の地は何ですかならば聖霊の型です。イスラエル人がエジプトを出て、紅海を過ぎ、荒野を辿り、ヨルダンを渉って約束の地に入りましたことは、やはり私共の受けました恵みの経験の順序であります。
また私共は出エジプト記によりて罪の赦しを学びます。レビ記によりて潔めを学びます。即ち神に近づくために潔めを得るの道を学びます。それからヨシュア記によって聖霊の力を学びます。これはちょうど恵みの順序に適うております。
さていよいよ約束の地に入りましてから戦いがあります。またいろいろの困難もあります。ヨシュアがどうしてそれらに勝利を得ましたか、その秘密をこの書によって学びたいと思います。
イスラエル人が約束の地をとりましたのは何によってですか、それは自分の決心や元気のためでありません。また自分の信仰、自分の努力のためでもありません。第一、神様が偕に行きたまいましたからです。どうか一章五、九、十七節、三章十節などを御覧なさい。これから神ヱホバは絶えず偕にいたまいまして、ヨシュアに語りまた民を顧みたもうことを見ます。
あなたが聖霊を受けなさいましたならば神ヱホバがあなたと共に行きたもうことをお信じなさい。また自分の決心や自分の信仰のためでなく、神偕に行きたもうことによりて新しき恵みを受け得ることを信じて感謝なさい。これによりて私共の信仰も望みも励まされます。
けれどもそればかりではありません。一章六節を見ますれば神様はよほど前からこの約束を与えたまいました。今その約束に随って恵みを受けることができるのであります。神様はいつでもその約束、その活ける聖言に随って恵みを与えたまいますから、どうか約束の言葉を堅く握って俟ち望みとうあります。
次に私共に必要なものは信仰です。一章三節を見ますれば神はイスラエル人に全地を与えたまいとうあります。ただその地を踏んで自分のものとしますならばそれを神様は与えたまいます。或いは兄弟の証により、或いは聖書の言葉によって恵みを見ることができます。ちょうどモーセがピスガの頂からカナンの地を望みましたように、遠方から見ることができます。けれども自分の足で踏みませんならば、自分のものとはなりません。
次に勇気が必要です。この短い一章の中に「心を强くしかつ勇め」という言葉が四度しるされております(一章六、七、九、十八節)。或いは人間の面を恐れ、或いは名誉を失うことを恐れますようでは、必ず聖霊のバプテスマを受けることができません。この恵みは神の兵隊らしい信者のみ受けることのできる恵みです。
それから聖書を読むことが必要です。どうか一章八節をご覧なさい。これはなおなお祝福を受け勝利を得るの道です。また聖言が心に充ち足りますならば、コロサイ書三章十六節のように心の中に讃美と感謝の歌があります。また十七節のようにすべての事を主の名のためになすことができます。
またヨシュアが間者を遣わして敵地の模様を偵察させましたように、他の兄弟の証を聞きまして道案内を知ることも大切です。その証は必ず二章二十四節のようであると思います。
さていよいよヨルダン川を渡りとうありますならば、三章五節のように「身を潔め」ねばなりません。また「妙なる事」とは民を悉くその地に導くことです。信仰によりて聖霊を受けることは容易なことです。けれども神様が「妙なる事」を行いたまいませんならば受けることができません。神はもはやあなたのために戦いて勝ちを得たまいました。もはや「妙なる事」を行いたまいましたから、神の導きに随い、ただ信仰をもって進みその地を取れよ。
このヨルダン川を渡ることは死と甦りとの型です。私共は死と甦りとによって聖霊の地に達することができます。けれどもここで注意すべきことは、契約の櫃が先に行きましたことです。主は我等の前に在して嚮導となりたまいますから、私共は主と共に死に、また主と共に甦ることができます。四章に紀念碑の話を見ます。神様はいつまでも民にヨルダン川を渉ったことを憶えしめとうございます。三節と九節とを見ますならば、岸と川の中とに「石十二」の紀念碑が立てられました。これは死と甦りとの紀念であります。そののちヨルダン川は前のように流れましたから、川の中の石碑はたぶん見えぬようになったでしょう。けれどもそれによって川を渡ったことを憶え、また岸に立てられました石碑を見て地の与えられしことを憶えました。私共も聖言の石によっていつまでも死と甦りとの経験を憶えとうあります。
そうして約束の地に入りました結果は五章に録されています。
一、割礼(二節)。コロサイ書二章十節を参照なさい。キリストの割礼は罪の身に死ぬることです。
二、過越の祝い(十節)。潔めの地に入りましても、やはり救いを憶えて感謝します。
三、地の穀物を食う(十一節)。これまで天より降りしマナを食いましたが、これから地の穀物を食うことができます。ヘブル書五章十三節、十四節と同じ意味です。
そういうことばかりですならば何も難しいことはありませんが、また
四、敵と戦わねばなりません。十三節以下にそれを見ます。
前に申しましたように、キリストも聖霊のバプテスマをお受けなさいましてから、直ちにサタンに遇いたまいました。私共も潔められますならば必ず戦うべき敵があります。故に「心を强くしかつ勇め」よ。
けれどもその戦いの時に主が顕れたまいます。格別に近づきたまいて勝利の栄光を顕したまいます。これは誠に感謝すべきことではありませんか。
十三節、ヨシュアはたぶんエリコを望んで祈っておりましたでしょう。必ず心の中に心配がありましたと思います。けれどもその時、主が顕れたまいました。
われはヱホバの軍旅の將として今來れるなり(十四節)。
エリコを取る責任は我に在り、汝はただ我に従えと宣いまして、御自身の聖を示したまいました(十五節)。敵と戦いますならば、そのためにますます主の栄えと力とを見ることができます。ですからどんな試みの中にもむしろ喜ぶべきであります。
我主なにを僕に告んとしたまふや(十四節)
かくヨシュアは自己を全く主の手に付しましたから、主はエリコをヨシュアに付したまいました(六章二節)。
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