默 示 錄 第 五 章
主イエスは世の初めから、天において天に在る者の礼拝を受けたまいし神の子です。けれどもカルバリの贖いのために今は天においても羔羊となりたまいました。そのために天に在る者はなおなお主イエスの愛がわかりまして、各々燃ゆる愛をもってその前に俯伏し、すべての尊敬と栄光と讃美を帰し奉って礼拝しております。私共も今朝幾分か天の礼拝の霊を受けまして同じ羔羊の前に俯伏し奉りとうございます。
神は私共の心を探りたまいました。今まで己や他の穢れが残っていたかもわかりません。けれどももはや主が血をもって全く潔めて下さいましたから、私共はその愛に溶かされ、身も魂も投げ出して、殺されたまいし羔羊の前に礼拝することができます。主の愛、主の栄え、主の勝利を見まして、主の足下に伏して主を讃美することができます。おおこれは誠に感謝すべきことです。
礼拝は、贖われました者が燃ゆる愛をもって主を崇めることです。これは祈ることよりも歌うことよりも深いことです。私共の一番さいわいな時は、天に在る者と同じように羔羊を礼拝する時です。そこに真の天国が顕れます。天国の喜び、天国の平安、天国の栄えがもはや顕れてまいります。
今ここを見ますと、この天使は右の手に巻物を持っております(一節)。この巻物は産業の地券状です。持ち主はそれによってこの産業は自分のものであることを確かめることができます。
世界中の産業は悉く主イエスの属であるはずです。けれども敵なるサタンがこれを奪いましたために、地券状は封印されこの世は罪と汚穢に満たされました。
今までの心の経験をお考えなさいますならばよくお分かりになると思います。あなたの心の中に喜びと平安と愛があるはずです。けれどもサタンがそれを奪いましたから、さまざまの罪や汚穢が入りましてあなたはそのために苦しみ悲しんでおりました。
おお誰かその封印を解く者はありませんか。私共の心から、また世界からサタンの力を全く取り除く救い主はありませんか。それは二節の問いです。けれども三節を見ますならば、天にも地にも地の下にもそんな者がありません。私共も自分の力でやってみまして、幾度か失敗いたしました。また他の人は或いは教育をもって、或いは道徳をもってまた文明の力をもって国を救わんといたしましたが、そういう人間の工夫はみな失敗でありました。
人間は到底これを開くことができません。けれども力ある天使の一人にはそれができませんでしょうか。サタンの力を打ち砕きてこの世界を救う天使は一人もありませんか。天使は聖いものですから私共をきよめる力はありませんでしょうか。いいえ、『天にも地にも地の下にも此卷を開き又これを見に堪る者なし』。ヨハネはそのために甚だしく哭きました(四節)。私共もそれを見て甚だしく哭くはずであります。けれどもここに喜びの音信があります。
彼の長老の一人われに曰けるは、哭なかれ、ユダの支派より出たる獅子、ダビデの根すでに勝を得たれば此卷を開き、又この七の封印を解ことを得なり(五節)
これを聞きましてヨハネの悲しみはたちまち喜びにかわりました。おおサタンとその力とを全く滅ぼしたまいし救い主があります。それは獅子のような力強き救い主であります。おおどうぞ今、私共の獅子たる救い主をご覧なさい。私共はこれまでたびたび十字架にかかりし主を見上げて恵みを得ました。どうぞ今朝、獅子のような救い主を仰ぎて喜びとうあります。獅子たる救い主が世界中の産業を全く敵の手より救い出したまいました。おおその勝利のために、天に在る者は心を合わせ力を尽して主を讃美しております。
ヨハネはこの音信を聞いて獅子たる救い主を俟ち望みました。けれどもここに柔和しい羔羊たる救い主を見ました。
われ寳座および四の活物のあひだ、長老等の間に羔立をるを見たり(六節)
これは実に驚くべきことです。獅子は羔羊となりたまいました。獅子は全く自分の栄え、自分の権威を捨てて勝を得たまいました。十字架に死ぬることによりサタンに全く勝を得たまいました。
この羔すゝみて寳座に坐する者の右の手より卷を取り(七節)
おお感謝します。主は十字架の勝利のためにもう一度この産業を自分のものとする権威を取りたまいました。
イエス進て彼等に語いひけるは、天のうち地の上の凡の權を我に賜れり(馬太傳二十八章十八節)
これはちょうど同じ意味です。主イエスは元始より天地の主にておわしたまいます。けれども十字架の功績によりまして新しくこの権威を得たまいました。
是故に彼は既に神の右に擧られ約束の聖靈を父より受て今なんぢらが見ところ聞ところの者を注り(使徒行伝二章三十三節)
主は今までたびたび聖霊を受けたまいました。けれどもここで新しい聖靈の権威と救いの権威を受けて、信ずる者の上に注ぎたまいました。そうですから今、主イエスの手にすべての権威があります。救いの権威、潔めの権威、聖霊のバプテスマを施す権威がいま主イエスの手にあります。そうですから八節のように、私共は天の活物、長老たちと共にひれ伏して羔羊を讃美するはずです。
九節の歌のように、羔羊がかつて殺されたまいましたために、血をもって私共を贖い、サタンの手より、罪の力より、全き自由を得しめたまいました。これは第一の恵みです。
けれどもそればかりでなく、
且我儕の神の爲に我儕を王となし祭司と作給へば也(十節)
主が全勝の王となりたまいましたから、また私共に膏を注いで王とならしめることができる。私共に王の位、王の栄え、王の権威を与えたもうことができる。私共は王のようなものとなりまして、勝を得て余りあるほどの恵みを経験するはずです。
また祭司とならせたまいます。すなわち神に近づきまして他の罪人のために仲保の祈りを献げる尊い職に与らせたまいます。
その通り、過去においては罪より贖い、現在においては王となし祭司となしたまいますが、未来においてはなおなお大いなる栄えに与らせたまいます。すなわちキリストと共に千年の間、地に王となることができます。おおこれは感謝すべきことではありませんか。どうぞあなたの冠を人に取られぬよう注意せよ。
天に在る千々万々の天使は主を讚美して申しました。
曩に殺れたりし羔は權威、富、智慧、能力、尊敬、榮光、讚美を受べき者なり(十二節)
私共もちょうどこの通りであるはずです。主はひとたび私共のために御自分の富を投げ棄てて貧しき者となりたまいました。主はひとたびあなたの魂を買うためにその富を捨てたまいました。そのことがわかりますならばおのずから真正の献身ができます。
私共はこの十四節の通りにアーメンと言うことができますか。主イエスの勝利と栄光と権威をわかりましてアーメンと言うことができますか。喜んですべてのものを主に献げましてアーメンと言うことができますか。
どうか今、主イエスの前に、新しい献身の歌、讃美の歌を歌いまして、この天に在る活物と共に声を合わせてアーメンと申し上げましょう。これが真正の礼拝であります。
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