全 き 安 息
是故に聖靈の云る如くせよ。爾曹もし今日其聲を聽ば、野に在て主を試みたる日、その怒を惹し時の如く、爾曹心を剛愎にする勿れ。……是に由て觀れば、彼等が入ことを得ざりしは不信に由てなり。
是故に我儕畏るべし。其安息にいる約束は今も尚のこれども恐くは亦爾曹のうち之に及ざるものあらん。……信ずる所の我儕は安息に入ことを得なり。(ヘブル書三章七、八、十九節、四章一、三節)
『安息に入ることを得るなり』、おおこれは幸いなる約束ではありませんか。ここに聖霊は全き救いを安息と名付けたまいました。全き救いは平安を得、喜びを得、また罪に勝つ力を得ることです。聖霊はここにそれを安息と名付けたまいました。
心の安息は何よりも慕うべきことです。安息がありますれば必ず満足があります。喜びもあります。真の安息がありますれば、必ずその前に、心の罪や汚穢が全く取り除かれているはずです。またそのために愛もあります。愛の繋により神につながれまして、生涯を送ることができます。
神はあなたにそういう安息を得させたまいとうございます。安息がありますならば必ず傲慢がありません。嫉みがありません。また必ずや不平や失望がありません。心の中にそういうような神に逆らう念慮が少しもありません。そういうものがありましては、必ず真正の安息を経験することができません。
『其安息にいる約束は今も尚のこれども』(四章一節)。神はそんな約束を与えたまいました。私共のためにそんな安息が備えられております。また三章をご覧なさいますならば、『今日その聲を聽かば』(七、十五節)。神は私共に今日と言いたまいます。今日! 今日! 今日この安息に入ることができる。今日その円満なる安息に入ることができる。
パウロはここで、イスラエル人の歷史を引いて勧めました。
イスラエル人はエジプトから救い出されまして、だんだんカナンの地に導かれました。これは私共にとりまして救いと潔めの喩えです。私共が罪のエジプトから救われました後、長らく曠野にさまようはずではありません。神は速やかに全きカナンの安息に入らしめたまいとうございます。愛する兄弟姉妹よ、あなたは確かに神の子供となりましたか。確かに罪の赦しを得なさいましたか。確かに神の世嗣となったという光がありますか。まだ明らかにそういう救いの恵みを得なさいませんならば、神はただいまそれを与えたまいます。あなたはただいま信仰の手を伸ばしてそれを頂戴することができます。それは誠に幸いな恵みであります。
けれども神はもはや救いの恵みを得ました兄弟姉妹に、全き安息を与えたまいとうございます。
イスラエル人がエジプトにおりましたうちは奴隷でありました。けれどもエジプトを出ましたその時から、自由を得ました。自由に神に従うことができました。必ず心の中に幾分の安息を得ました。毎日恵みを受けまして、或いは天よりのマナによりて養われ、また雲の柱に導かれつつ荒野を旅することができました。そうですからカナンの地に参りませぬうちにも幾分か幸いでありました。
救いは実に感謝すべき恵みであります。そのために自由を得ます。養いを得ます。また導きをも得ます。これは実に幸いです。けれども神はなおなおまさりたる恵みを与えたまいとうございます。全き潔め、全き安息を得させたまいとうございます。どんなに恵みを受けましても曠野の旅路にはやはり不自由なことが多うございます。ですからイスラエル人はカナンの地に入りました時、たぶん自分の家に帰ったような感じがありましたと思います。みなさんは疲れたる有様で曠野にさまよいましたことはありませんか。祈りをしました、けれども神に近づく事ができません。聖書を読みました、けれども少しも光を得ません。集会に出ましても神の栄えを見ることができません。それはちょうど曠野にさまよえる人の状態であります。しかし神は速やかにあなたを御自分の家に帰らせ、真正の安息を与えたまいとうございます。
またイスラエル人はカナンの地に入るまでは産業を得ることができませんでした。兄弟姉妹よ、あなたは恵みの産業をもっておいでなさいますか。あなたは確かに、潔い心、聖霊、神の喜びを得たと言うことができますか。まだ曠野においでなさいますならばそれを得ることができません。それを得たという確かな証をすることができません。
カナンの地に入る時に初めてそれを有つことができます。
またイスラエル人は曠野では敵に勝を得たことはあります。けれどもカナンの地に入りました時から、勝を得るばかりでなく全く滅ぼすことができます。神は速やかにその敵を滅ぼして速やかにその地を与えたまいとうございます。
おお兄弟姉妹よ、神はあなたの罪、あなたの心の汚穢、あなたの肉慾、あなたの世に属ける思念、そういう敵をことごとく滅ぼすように約束したまいました。
神はそのために栄光を得たまいます。他の国々の前に栄えを受けたまいます。神はあなたを用いて他の罪人を導き、救いを慕わしめたもうことができます。おおどうぞ神の栄えのために神の全き安息をお求めなさい。
ですけれどもイスラエル人は、この時カナンの地に入ることができませんでした。それはただ不信仰のためです。
是故に我等畏るべし、其安息にいる約束は今も尚のこれども、恐くは亦爾曹のうち之に及ざるものあらん(四章一節)
あなたも不信仰のためにこの全き救いを得ませんならば、それは誠に畏るべきことです。どれほど神様の御心をいたましめ奉ることでしょう。あなたはこれまで或いは熱心に求めましたかも知れません。けれどもまだそれを得ませんならば、それは不信仰のためです。
民数紀略第十三章をご覧なさい。イスラエル人はエジプトを出ました時から、熱心にカナンの地を望んで旅しました。けれどもまだそれを得ませんでした。今モーセはようやくその地を捜すために間者を送りましたが、その間者はその地の果物を携え帰りまして、『誠に其處は乳と蜜とのながる』る美き地であることを報告しました(二十七節)。
しかしその次を見ると、
然ながらその地に住む民は猛くその邑々は堅固にして甚だ大なり。我等またアナクの子孫の其處にをるを見たり。またアマレキ人……ヘテ人エブス人……アモリ人……カナン人……(二十八、九節)
地は美しうあります。実に慕わしい地です。けれども強い敵がおるから、とても入ることはできぬと申しました。
私共の中にもたびたびそういう不信仰な、また卑怯な話はありませんか。この人々は敵にのみ目を付けまして、活ける神を見ませんでした。
時にカルブ、モーセの前に民を靜めて言けるは、我等直に上りゆきて之を攻取ん。我等は必ずこれに勝ことを得ん(三十節)
これは信仰の話です。この人は敵にはあまり目を付けませず、ただ神を仰ぎ見ました。また神の約束によって必勝を信じました。イスラエル人はこの二つの話を聞きまして、どちらかに随わねばなりませんでした。あなたは不信仰の組にお立ちなさいますか。または小さい信仰の組にお立ちなさいますか。イスラエル人は残念ながら不信仰の組に立ちました。
十人の間者はみな牧伯でしたから(二節)イスラエル人はそれに従うのは当然のことのようです。けれどもそのために、恐ろしい不信仰の罪に陥りました。或いは名高い牧師や信者たちの話を聞きまして、私共のような者はとても潔められぬと思いますならば、それは同じ不信仰の罪です。
ヱホバすなはちモーセに言たまはく、此民は何時まで我を藐視るや、我諸の休徵をかれらの中間に行ひたるに彼等何時まで我を賴むことを爲ざるや(十四章十一節)
おお神はあなたのためにそんなに歎き悲しみたまいます。不信仰はそんなに神の聖心をいためしめ奉ることです。イスラエル人は牧伯の言葉に聴きまして神の聖心にそむきましたから、ついにその地に入ることができませんでした。もう一度曠野に帰りまして、四十年の間、失望と悲しみのうちにさまよわねばなりません。
おお、愛する兄弟姉妹よ、神は今もう一度あなたをこの恵みに近づかしめたまいます。あなたが今、不信仰のためにおことわりなさいますならば、或いは四十年の間もさまよわねばならぬかも知れません。
神は今ねんごろに、聖霊を受けよ、全き安息を受けよと仰せたまいますのに、それを頂戴しませぬならば、たぶん今までの喜びも力も失いましょう。けれども信仰の話にお随いなさいまして、カルブと共に『我等直に上りゆかん』とおっしゃいますならば、神はただいまその恵みに入らしめたまいます。
ヨシュア記第三章をご覧なさい。ここで神はもう一度イスラエル人をカナンの地に近づかせたまいます。
而してヨシュア語りけらく、活神なんぢらの中に在してカナン人、ヘテ人……を汝らの前より必ず逐はらひたまふべきを左の事によりてなんぢら知るべし(十節)
活ける神が私共と偕に居たまいます。私共と偕に入りたまいます。
汝ら祭司等レビ人がなんぢらの神ヱホバの契約の櫃を舁出すを見ば其處を發出てその後に從がへ(三節)
その時ヨルダン川に水が溢れるほど流れておりましたけれども、契約の櫃の先立ち行くところイスラエル人の前に明らかなる道が開けまして、たやすく渉ってその地に入ることができました。
契約の櫃は主イエスの型です。主イエスが私共の前に進み行きたまいます。主イエスが既に死に、また甦りたまいましたから、それによりて私共のために全き安息の地に入るの道が備えられました。おお愛する兄弟姉妹よ、いま荒野の悲しみや欠乏を全く捨ててカナンの全き安息に入れよ。そこにて聖霊の美わしき経験を受けよ。神は約束の安息を今与えたまいます。
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