以 賽 亞 書 第 六 章
爰にかのセラピムのひとり鉗をもて壇の上よりとりたる熱炭を手にたづさへて我にとびきたり……(六節)
神は私共にも壇の上よりとりたる熱炭を与えたまいとうございます。これは神の備えたもうところの恵みでありますが、またちょうど私共の今求めるところのものではありませんか。どうぞこの集会でそれを頂戴しとうございます。私共はこれを頂戴いたしますならばどういう結果がありますか。
視よ、この火なんぢの唇にふれたれば、既になんぢの惡はのぞかれ、なんぢの罪はきよめられたりと(七節)
第一の結果は潔めです。聖霊によりて心が潔められます。神はこれによりて私共の品性をも思念をも悉くきよめて御自分の聖なる殿とならしめたまいます。
イザヤはこれよりさき、もはや罪の赦しを経験しました。またそればかりでなく、エルサレムの罪人に対してそれを宣べ伝えておりました。
……なんぢらの罪は緋のごとくなるも雪のごとく白くなり、紅のごとく赤くとも羊の毛のごとくにならん(一章十八節)
また一章から五章までを見ますれば、イザヤがいかに熱心にその罪人に悔改をすすめているかをわかります。けれどもイザヤはまだ心の中に汚穢がありましたが、漸くこの六章になりまして初めて心の潔きを経験することができました。おお愛する兄弟姉妹よ、あなたはよほど前から罪の赦しを得ましたでしょう。けれども心の潔めはどうですか。まだそれを得なさいませぬならば、神は今あなたにそれを与えたまいとうあります。
火の潔めは全き潔めを示します。金銀鉱がどうして純金純銀になりましょうか。火の力を藉るのほかはありません。その通り、神は聖霊の火によってあなたの衷に在るものを全くきよめたまいます。聖靈がカルバリの力、カルバリの勝利をもってその心に入りたまいますから、あなたを全くきよめたもうことができます。これは実に感謝すべきことです。
我またヱホバの聲をきく、曰く、われ誰をつかはさん、誰かわれらのために往べきかと。そのとき我いひけるは、われ此にあり、我をつかはしたまへ(六章八節)
聖霊を頂戴しますれば心の耳が開けてヱホバの声を聞くことができます。今までイザヤは神の言葉に従いました。けれども直接に神の聖声をきくことができませんでした。しかし今潔められましたから、直接にそれを聞くことができました。
神はいつでもあなたに語りたまいとうあります。神は聖書により、或いは被造物により、或いは直接に語りたまいとうあります。ともかくも毎日毎日あなたの耳を開きたもうて毎日毎日あなたに聖声を聞かしめたまいとうあります。かくして神はあなたに新しい喜び、新しい力を与えたまいます。
けれども、そればかりでなく、この節の終わりのように、喜んで罪人のために、神の聖栄のために生涯を献げます。『われ此にあり、我をつかはしたまへ』、これは火を得ました者のことです。火を得ました者は、たといどんな苦しみを受け、どんな十字架を負わねばなりませんでも、人間を救いとうあります。あなたの心の中にそんな精神がありますか。真のきよめを受けますならば是非他の人を導きたい心があるはずです。これは第三の結果です。聖別会に出ましても、続いて伝道なさいませんならば、あなたはまだ恵みをお受けなさいませんかも知れません。
米国の或る有名な伝道者が熱心に働きました。けれどもあまり成功がありませんでした。或る日、自分の部屋で翌朝の説教の準備をしながら重荷を覚えて考えていました。その時、台の上から小冊子を取りましたが、それは火のバプテスマについて書いたものでした。おぼえず知らず終わりまで面白く読んでしまいましたが、神はその冊子の言葉をもってその心を刺したまいました。伝道者は跪きまして今までの生温い生涯を懺悔して神に祈りました。
かくして神はドクター・トーレーに火のバプテスマを与えたまいましたが、その翌日の説教は実に力のある活きた説教でありました。
また神はその時から兄弟の手をもって大勢の人を救いたまいました。神はトーレーに与えたまいました同じ恵みを今あなたに与えたまいとうあります。
どうしてそれを頂戴することができましょうか。
……高くあがれる御座にヱホバの坐し給ふを見しに、その衣裾は殿にみちたり(一節)
イザヤは目をあげて神を見ました。個人的に神に面会いたしました。私共も火のバプテスマを受けとうありますならば、神の御膝下に近づいて神を見ねばなりません。あなたは他の人の祈りのためにこれをお受けなさることはできません。お一人で祈りをもって神の御足下まで下り、神のお手からこの熱炭をお受けなさるはずです。またイザヤは『高くあがれる御座に』神を見ました。或る信者の神は小さい神です。或る信者の救い主はあまり力のない救い主です。けれどもイザヤは高くあがれる御座に大いなる神を見ることができました。すべての力とすべての権威とを有っておいでなさる神たる救い主を見ることができました。そんな救い主が必ずあなたの心の中にあるサタンのすべての力を毀つことができる。あなたの心を全くきよめたもうことができる。そんな救い主はあなたにも必ず熱炭を与えたもうことができる。
イザヤはたぶん多くの人と一緒に神の殿に集まって神を礼拝していたと思います。けれどもこの時イザヤ一人のみが火を受けることができました。ただいま私共のうちで、どなたとどなたが、きよめと火をお受けなさることができましょうか。たぶんここで一人、かしこで二人のお方がヱホバの前に跪いて火を頂戴することができる。その一人はあなたでありましょうか。『高くあがれる御座に』坐したもう神は畏ろしい神です。けれどもそれはあなたのために生命をすてて、あなたを救いたまいし主イエスです。あなたのために死に、あなたのために甦り、あなたのために天に昇り、父の栄光の右に座したまいし全き救い主たるイエスです。あなたの神と言いたもう救い主です。その血をもてあなたを贖いたまいしナザレのイエスです。どうか大胆に進み出でて熱炭をお受けなさい。少しも憚りなく進み出でてこれを受けることができる。おお、ハレルヤ。ヱホバはいと高き所に栄光を顕したまいました。けれども平生にそれを示したまいません。平生イスラエル人はただ幕を見るのみです。けれどもカルバリの勝利のためにその幕が取り除かれましたから、近づいて直接にその聖栄を見ることができる。その御手から潔めと恵みと熱炭とを頂戴することができる。今一人ひとりで神の宝座に近づけよ。
その衣裾は殿にみちたり(一節)
そうですからイザヤはどこででもその衣裾に捫ることができる。主イエスがこの世に在したまいし時に、病人がその衣裾に捫りまして、忽ち癒されました。今私共も、イザヤと同じように、その衣裾に捫ることができる。あなたはただ信仰の手を伸ばしますならば、捫ることができる。あなたはそれによりて全き癒しを受けることができる。熱炭を受けることができる。『その衣裾は殿にみちたり』。おお感謝します。
けれどもイザヤはヱホバの栄えのみならず、その周囲にある聖き僕をも見ました。私共も天にある僕等の状態をわかりますならば、この世にある私共もどうして神に事え奉るべきはずであるかがわかります。
セラピムその上にたつ(二節)
セラピムの意味は「燃ゆるもの」です。あなたは主イエスの僕と言いましても心が生温いならば必ずヱホバに事えることはできません。主イエスは御自分の栄えを捨てて、あなたのためにこの世に下りたまいましたのに、あなたは冷淡な心でこれに事えることができましょうか。
あなたが主の僕ですならば、燃えるものであるはずです。熱炭を頂戴して、愛のために燃えるものであるはずです。ちょうどイザヤの見ましたセラピムのように愛に燃えて、ただ主の聖声のみを聞きまして喜んで奉仕するはずです。
おのおの六の翼あり(二節)
ですからその翼をもって昇ることができました。この世にある神の僕も翼があるはずです。或る信者は、霊の翼を広げて天に昇ることができません。けれども或る信者は、祈禱の時に、また聖書を読む時に、天に昇りまして神の栄えを見ることができます。世につける信者はただ爬うばかりです。けれども霊につける信者は、感謝をもって、新しい歌をもって、新しい喜びをもって神の前に昇ることができる。おお、兄弟姉妹よ、あなたはそんな翼を張って天に昇ることができますか。熱炭を頂戴しますならば、そんなものとなることができます。
その二をもて面をおほひ、その二をもて足をおほひ、其二をもて飛翔り(二節)
そうですから主の僕に真の謙遜があります。ともかくも己を隠して主に栄光を帰し奉りとうあります。聖霊のバプテスマを得ますならば聖霊があなたを隠したまいます。聖霊のバプテスマの結果はあなたを隠すことです。あなたに真の謙遜を与えることです。あなたはそれによりてたかぶりから真正に救われることができます。
たがひに呼いひけるは、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、萬軍のヱホバ、その榮光は全地にみつ(三節)
そんな僕の感話の題は何ですかならば、主イエスの聖、主イエスの栄えです。セラピムのように神の熱炭を得ましたならば、そういうことに心が満たされますから、他の話がありません。一人のセラピムが語りました、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな』と。他のセラピムが答えました、『萬軍のヱホバ、その榮光は全地にみつ』と。おお幸いなる感話ではありませんか。
神はそんなに、天に在る僕たちに熱炭を与えたまいますが、私共にも同じ熱炭を与えたまいとうございます。聖旨の天に行われるごとく、地にも行われしめたまいとうございます。
イザヤは神の姿を見、また神の僕の有様を見まして、『禍ひなるかな、我ほろびなん ……』(五節)と叫びました。私共も主の愛、主の力を見ましたならば、必ず心のうちにそういう叫びがあると思います。『我はけがれたる唇の民のなかにすみて穢たるくちびるの者なるに、わが眼ばんぐんのヱホバにまします王を見まつればなり』(五節)、唇の弱いため、溢るるばかりに感謝することができません。この青年がかく会衆の中に叫びました。他の人々を見ませずして、ただ神を見、またそのために自分の冷淡、自分の不足がわかりましたから、叫ばねばなりませんでした。これは真正の懺悔であります。神の栄えを見、また自分の生温い有様を見て叫びました。神はその時に、さっそく潔めを与えたまいました。
セラピムのひとり鉗をもて壇の上よりとりたる熱炭を手にたづさへて我にとびきたり、わが口に觸ていひけるは、視よ、この火なんぢの唇にふれたれば既になんぢの惡はのぞかれなんぢの罪はきよめられたりと(六、七節)
おお神は同じようにあなたの叫びを聞きたまいまして、今という今のうちに、あなたにその熱炭を与えたまいます。あなたの叫びに応えて、この集会の終えぬうちに、熱炭のバプテスマを施したまいます。
その時イザヤは、セラピムとなりました。たぶん天のセラピムと声を合わせて神を讃美しましたことと思います。新しい歌を歌って神を讃美したと思います。
またその時に、神の微細い声が聞こえました、『われ誰をつかはさん、誰かわれらのために往べきか』。今までこの声を聞くことができませんでしたが、今これを聞くや否、イザヤは大胆に進み出て身も魂も神に献げました。火を受けました者ばかりが真の献身をすることができます。或いはその殿の中にはセラピムがおりましたから、イザヤは己を差し出す必要がないではありませんか。いいえ、イザヤはもはや聖められましたから、『われ此にあり、我をつかはしたまへ』と答えずにはおられませんでした。もちろん伝道の職の聖いこと、尊いことがわかりました。また自分が適当な者でないとわかりました。けれども神の聖声を聞きまして、己を忘れて進み出で、その前に全く己を投げ棄てました。神はそういう献身を喜びたまいます。
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