ヨシュア記の研究(続)
イスラエル人は信仰によって勝利を得ました。今、神の教会も神を信じますならば、必ずこんな大いなる勝利を経験することができます。また個人としても同じく神を信ずることによって、全き勝利を得ることができます。
またイスラエル人はいつまでもカナンの地に住まうことができると同じく、私共も永く天の所に住まうことができます。エペソ書二章六、七節はカナンの地に住まうことの霊の意味であると思います。
けれども七章から失敗の話を見ます。これは誠に残念なことであります。イスラエル人は天の所なるカナンの地に入りましても、やはり失敗がありました。(英訳の方には七章の始めにButの字があります。)その失敗の原因は詛われましたことのためです。それは隠れたる所にある小さいことでした(第一節)。けれどもそのためにイスラエル全体が敗北いたしました。私共もそれによって深く探られとうあります。二節を見ますならば、ヨシュアは平生の通りに間者を遣わしました。けれども隠れたる所に失敗の原因のあることに気がつきませんでした。ちょうど士師記十六章二十節のようです。ここでサムソンはヱホバが己を離れたまいましたことを知りません。そのために力を失いましたことを知りません。その通り、ヨシュアもそれを知りませんでしたから、ここで敗北を経験せねばなりません。
この時ヨシュアは跪いて祈りました。けれども敗北の時は格別に祈りの時ではありません。むしろ敗北の原因を探すべき時です。私共も罪を犯しましたならばたびたび涙を流して祈ります。けれどもむしろ深く省みて、その原因を探すべきであると思います。
立よ、なんぢ何とて斯は俯伏すや(十節)
そういう時に神は祈りを願いたまいません。敗北の原因を探すように求めたまいます。
私共は罪を犯しますならば、必ずその原因があります。或る人は弱いからだと思います。けれどもそうではありません。イスラエル人はもとより弱いものでした。けれども神と偕に歩みますならば勝ちを得ます。
神の離れたもうこと、これが敗北の原因です。また神は何故に離れたまいましたか。ヨシュアは真心をもってその原因を探しましたから、神は喜んでそれを指し示したまいました。おお兄弟姉妹よ、罪を犯しましたならば、どうぞその原因をお探しなさい。神様はたぶん心の中の隠れたる所に、詛われたるものを指したまいましょう。ヨシュアはその詛われたるヱホバの前に置きました(二十三節終)。また全くそれを滅ぼしました(二十四、二十五節)。
そこでヱホバはもう一度語りたまいます。
懼るゝ勿れ、戰慄なかれ、軍人をことごとく率ゐ起てアイに攻のぼれ。視よ、我アイ……を都て汝の手に授く(八章一節)
私共は罪を犯しますならば、そのために恐れまして、もう罪に全き勝ちを得ることはできぬと思いまして、不信仰に陷るかも知れませんけれども、それはサタンの詭計です。もはや罪の原因を除きましたならば、このように神は再びあなたと偕なりたまい、もう一度勝利の約束を与えて励ましたまいます。
おお、これは感謝すべきことではありませんか。勇気をもって進みエリコに勝ちを得ましたように、アイにも勝利を得なさることを希望します。エリコは大きい城です。アイは小さい邑であります。もはやきよめを得ました者は、信仰によりてエリコを取ることを得ましたけれども、たびたびアイのような小さいところで、例えば家庭の小さい事のために失敗するようなことがあります。
けれども信仰をもって堅固なるエリコを取りましたように、信仰をもって小さいアイをも取ることができる。あなたはヨシュアが思いましたようにアイを取ることは易いと思いましたかも知れません。けれども自分の力に頼りますならば、いつでも失敗です。やはり信仰によりて神の力を受けねばなりません。
けれどもこの八章をお読みなさいますならば、エリコを取りましたと同じ方法でアイを取りません。神はほかの道を導きたまいました。私共も古い経験を当てにしませず、静かに神の聖声を聞いて新しい勝利を求めとうあります。
また『軍人をことごとく率ゐ起てアイに攻のぼれ』(一節)。あなたは小さい罪を軽蔑して、そのために全心全力を尽くしませんならば、たぶん敗北します。けれども軍人をことごとく率いてこれに当たりますならば、信仰により勝を得ることができる。
……汝の手にある矛をアイの方に指伸よ。我これを汝の手に授くべしと、ヨシュアすなはち己の手にある矛をアイの方に指伸るに(十八節)
これは信仰のしるしです。
ヨシュア、アイの民をことごとく滅ぼし絕まではその矛を指伸たる手を垂ざりき(二十六節)
ですからヨシュアは全き勝利を得ました時まで、その信仰の手を指し伸べていました。
この聖別会でもたびたび信仰のしるしを願います。或いは手を挙げること、或いは前に出ることをお願いいたします。神はヨシュアにもそのしるしを求めたまいました。表面でそういうしるしがありませんでも、信仰の手を伸ばして自分のものとして俟ち望めよ。信仰によりて戦いに出ますならば必ず勝ちを得ます。
勝利を得ました後でヨシュアは直ちに主ヱホバに壇を築きました(三十節)。また神の言葉を悉く読んで民に悟らせました(三十四節)。これは幸いなことです。勝ちを得ましたならばなおなお深く聖言を読んで心の中に受け入れねばなりません。
なぜアイに失敗しましたかならば「詛われた事」がわかりませんでしたからです。ここで格別にその点について神の書を研究します。『祝福と呪詛とにかゝはる律法』(三十四節)、すなわち聖いことと詛わるべきこととをよく調べました。そのためにたぶんもう一度その罪に陥ることを免れます。
けれども九章に参りますならば、もう一度失敗があります。それは七章の失敗とは違います。ここでは敵が詭計をめぐらして参ります(四節)。前の失敗は敵の力のためでしたが、今度のは敵の計略のためです。
私共は時によりて吼ゆる獅子のような敵に遇います。また時によりて天の使のような敵に遇います。これはたぶん一番むつかしい敵です。私は天使のような敵に遇うよりもむしろ吼ゆる獅子のような敵に遇いとうございます。けれども私共はきよめられましたならば、この敵に遇わねばなりません。詭計をめぐらすサタンに遇わねばなりません。
ここでイスラエル人はなぜ失敗しましたか。祈りの不足のためです。十四節をご覧なさい。『……ヱホバの口を問ことをせざりき』。祈りがありません。そのために失敗します。おお私共は詭計をめぐらすところのサタンに勝を得とうございますならば、断えず祈らねばなりません。
七章の失敗は神の言葉を信じませんためでした。九章の失敗は祈りの不足のためでした。失敗はいつでも神の言葉を忘れるため、或いは祈りの足らぬためです。この二つのことによって勝利の生涯を過ごすことができます。
敵は詭計をめぐらして『我らは遠き國より來れり』と申しました(九章六、九節の中ほど)。やさしい言葉をもって、諂諛をもって誘いました。その通りこの世はやさしい声をもって私共を誘います。そうしてたびたび潔められた信者に勝を得ます。
この世あるひは此世にある物を愛する勿れ(ヨシュア記の言葉を借れば、契約とするなかれ)、人もし此世を愛せば父を愛するの愛その衷に在なし。凡そ世に在もの、即ち肉體の慾、眼目の慾、また勢より起る驕傲、これらは皆父より出るに非ず世より出るもの也(ヨハネ第一書二章十五、十六節)
ちょうど九章のような敵です。
この世と其慾とは逝るものにて神の旨を行ふ者は永遠存るなり(同十七節)
おおどうぞ信仰によりこの世とこの世にあるものを悉く離れて神の旨を行い、罪に勝を得ましたように、この世にも全き勝利を得とうあります。
進んで十章になりまして、なおなお敵があります。
すなわちエルサレムの王──義の王が今イスラエルに攻めて参ります(一節)。私共は潔められましたならば教会にあるパリサイ人から攻められるかも知れません。そのために戦わねばなりません。悪魔はそういうような人を使って私共が得た恵みを奪いとうあります。
十章はその通りエルサレムの王すなわち義を行う者からの迫害ですが、十一章を見ますれば異邦人の王が戦いに参ります(一節)。すなわち世につける者から迫害を受けます。
十章を見ますれば神はもう一度イスラエル人のために戦いたまいます。『ヱホバかれらをイスラエルの前に敗りたまひければ……ヱホバ天より大石を降し』(十、十一節)。そうですから神は格別に働きたまいました。イスラエル人はとても自分の力で勝を得ることはできませんでしたけれども、神様がそのために戦い勝を得しめたまいました。
ここにもう一度勝を得たるしるしを見ます。『此王等の頸に足をかけよ』(二十四節)。これは全き勝利を得たことの表面のしるしです。また信仰を強めるための表面のしるしです。
私共は信仰をもって罪の首に足をかけることができます。十字架より受ける力によっていま敵の首に足をかけることができる。おお信仰をもってその首に足をかけよ。
平安の神なんぢらの足の下に於てサタンを速かに碎くべし(ロマ書十六章二十節)
これはこの十章の通りです。神はもはやサタンを私共の足の下に砕きたまいましたから『懼るゝなかれ』と仰せたまいます(八章一節、十章八節、十一章六節)。おお、信仰は敵を恐れません。必ず勝を得ると信じて進みます。恐れがあるならばそれだけ不信仰があるのですかもわかりません。おお、罪と悪魔とを恐れずして生涯を送れよ。必ずサタンに勝利を得ると思って生涯を暮らせよ。
十一章の終わりの方にたびたび「ことごとくこれを滅ぼす」という意味の言葉があります(十一、十二、二十、二十一、二十三節)。これは感謝すべきことです。ヨシュアは信仰をもって戦いに行きましたからことごとく滅ぼすことができました。
一章から十一章までは敵を滅ぼすことの話です。『遂に此地に戰爭やみぬ』(十一章末)。これがその話の終わりであります。
戦いはわずか一年間ばかりでしたが、それからの安息は永遠限りのない安息です。十二章を見ますならば、ヨシュアは三十一王に勝を得ました。全くそれを滅ぼしました。私共もその通りに、心の三十一の罪を滅ぼすはずです。またこういう罪を滅ぼしたと証するはずです。
そうですから十三章から二十一章までその地を占領する話を見ます。
尚取るべき地の殘れる者甚だおほし(十三章一節)
イスラエル人はもはやその敵を滅ぼしました。けれどもまだその地を取りませんでした。足を踏みつけませんでしたから、地はまだ自分の産業となりませんでした。
罪に死ぬることは第一の階段です。恵みを受けることは第二の階段です。もはや罪に死にましたならば、信仰の手を伸ばして恵みを受けるようお求めなさい。
神は恵みより恵みに進ましめたまいます。なおなお深い恵みを与えたまいます。なおなお地の残れるものを与えたまいとうございます。いついつまでも進みまして新しい恵みを自分のものとせよ。
十四章から十七章までを見ますならば、イスラエルは各々その支派に随って地を得ました。それはみな乳と蜜との流れる美わしい地であります。けれども同じ産業ではありません。みな違っておりました。その通り、霊を得た者は必ずしも皆同じ賜物ではありません。或る人は格別に愛に満ちております。或る人は格別に喜びに溢れております。或る人は伝道の賜物、また他の人は祈りの賜物を受けております。それは各々霊の旨に随ってそんな賜物を頂戴するのであります。ですから他の兄弟の賜物を見ますならば、貪りませずしてその与え主を崇むべきであります。神は御旨に随って一番よい賜物を与えたもうのであります。
けれどもまた十八章をご覧なさい。
汝らは汝らの先祖の神ヱホバの汝らに與へたまひし地を取に往くことを何時まで怠りをるや(三節)
神は新しい恵みを私共のために備えたまいましたのに、私共はたびたびそれを取りに行くことを怠ります。どうかペテロ後書一章をご覧なさい。
是故に爾曹勤て信仰に德を加へ、德に智識を加へ、智識に撙節を加へ、撙節に忍耐を加へ、忍耐に敬虔を加へ、敬虔に兄弟の睦を加へ、兄弟の睦に愛を加ふべし。此等のもの若なんぢらの衷に在て彌增ときは爾曹われらの主イエスキリストを識ことに怠ることなく又實を結ざること無に至らん(五〜八節)
この「勤めて」は怠りの反対です。潔められた信者は勤めるはずです。どうぞ怠りませずして、たえず熱心につとめてそれをお求めなさい。後ろにあるものを忘れて、たえず新しい恵みを慕い求めなさい。
二十一章の終わりの方を見ますならば、神は忠実にその恵みを与えたまいました。
かくヱホバ、イスラエルに與へんとその先祖等に誓ひたまひし地をことごとく與へたまひければ、彼ら之を獲て其處に住り。……ヱホバがイスラエルの家に語りたまひし善事は一だに缼ずして悉くみな來りぬ(四十三、四十五節)
ヱホバはその通り約束をことごとく成就したまいます。円満なる完き恵みがことごとく参りました。
二十二章から二十四章まではヨシュアの終わりの説教、終わりの勧めです。これは実に大切であります。
ルベン人、ガド人、及びマナセの支派の半ば(二十二章一節)。これらの人々は神の産業の地に住むことを断りました。もう一度ヨルダン川を渉って他の所に住まわんといたします。それは何のためですか。なぜ神と共に住まうことを断りましたか。それは家族や家畜のためでした。おお、今でも自分の家族のため、自分の所有のために、身も霊も献げて聖霊に満たされることを願わぬ信者をたくさん見ます。
そういう信者はルベン人、ガド人のようにやはり神の民です。けれども神のいと美き地に住むことを願いません。神はイスラエル人にその家族や所有をもってカナンの地に住むことを願いたまいます。けれどもこの人々は身も霊も献げることを惜しみまして、乳と蜜の流れる地を断り、外の地に住むことを願います。
ヨシュアがこの勧めをいたしました時、そういう人々を神の活ける言葉に委ねました(五節)。ちょうど使徒行伝二十章三十二節のようです。ここでパウロもエペソの信者を神の言葉に委ねました。
次の二十三章は神の地に住める者に対する終わりの勧めです。ここに『汝らの神ヱホバ』の語が十三度用いられています。ヨシュアは格別に終わりに臨んでイスラエルにそれを憶えしめとうございました。
もはやこの地を得ました。けれどもそれで満足せぬよう、たえず神を仰ぎ、神を愛し、神に従うよう勧めました。またそのためにこの人々をも神の恵みの道に委ねました。すなわち聖言を読むことを勧めました(六節)。また七節に、罪を離れよ、全く罪の関係を切れよと勧めました。
二十四章の終わりに聖別会を見ます。ここでイスラエル人は身も霊も献げて神ヱホバに事うべきことを誓いました。
民ヨシュアに言けるは、我らの神ヱホバに我らは事へ、其聲に我らは聽したがふべしと(二十四節)
これは全き献身です。
かくヨシュア記の始めから終わりまでの話を見ますならば、一つの聖別会に行われる種々の経験を学びます。すなわちヨルダン川をわたること、敵を滅ぼすこと、恵みの地を得ること、終わりに神の前に立ち全き献身をするまで、次第に深い経験を学びます。おお、どうぞこの聖別会におきましても、私共は各自の立脚地に随って、これらの経験をことごとく得るように願います。またこの二十四節の言葉を心にも口にも当て嵌めてこの山を下りとうあります。
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