火 を も て 応 う る 神
……汝等何時まで二の物の間にまよふや、ヱホバ若し神ならば之に從へ、されどバアル若し神ならば之に從へと(列王紀略上十八章二十一節)
これは大いなる問題です。どこでもこの問題について論ぜられますが、どうしてその答えを得ましょうか。どういたしましたならば人々に神は神であることを悟らせることができましょうか。ただ神が天より火を降したまいますならば、それによりて神は活けるお方であると確かめることができます。神がまことに火を降したまいますならば、それによりて私共を潔め、私共を活かしたもう救主であることがわかりまして、必ずこの問題を消すことができます。
私共の心の中にもたびたびこういう問題が起ります。時々懐疑に流れ、不信仰に陥るようなことがあります。その時どうして神の神たることを知ることができましょうか。それはただ火によってです。火によって不信が信仰となります。懐疑がみな確信と代わります。
また私共の心の中に聖霊の火を受けませんならば愛がありません。冷淡な生温い有様です。神はそんな信者を用いて聖栄を顕したもうことができません。火を受けませぬならば神の御用に立つことはできません。
例えば機関車が立派にできあがりまして綺麗に光っておりましても、その汽缶の中に火がありませんならば、人間のために何の役にも立ちません。ちょうどその通り、あなたの心の中に神の燃える愛の火がありませんならば、あなたは神の働きのために役に立ちませぬものです。おお早く悔い改めて火を受けよ。
火をもて應る神を神と爲べし(二十四節)
神は救い主なる神、愛なる神でありますが、また火をもて応うる神です。あなたの神はそんな神でありますか。
私共はこの聖別会でもはや神のさまざまの恵みを経験いたしましたと思います。けれどもサタンはたびたび私共の心に働きまして、神は火を降したまいませんというような不信仰の念を抱かせます。おお皆様はサタンの声に随わずして神はいつでも祈りに応うる神なるを信ぜよ。
ダニエル書第九章、ここでダニエルは民のために熱心に神に祈りました。幾分か不信仰があったかも知れません。けれども神は祈りに応えてようやく天使を遣わしたまいました。
かの人ガブリエル……我に語りて言けるは、ダニエルよ、今我なんぢを敎へて了解を得せしめんとて出きたれり。汝が祈禱を始むるに方りて我言を受たれば之を汝に示さんとて來れり(二十一〜二十三節)
神はその祈りの始めを聴きたまいましたとき既に応えたまいました。また十章を見ますれば、ダニエルはたぶん神はそんな祈りを聴きたまわぬことを気遣いまして、三週日の間断食をして祈り続けました。そのとき神の使はダニエルに告げて申しました。
ダニエルよ、懼るゝ勿れ、汝が心をこめて悟らんとし汝の神の前に身をなやませるその初の日よりして汝の言はすでに聽れたれば、我汝の言によりて來れり(十二節)
神は初めの日からその願いを聴きたまいました。神はその通りに必ずあなたの祈りを聴いていたまいます。必ず祈りに応えたまいます。おお、ただ信ぜよ。祈りましてもまだその応答を得ませんならば、すぐ不信仰が起りやすうございます。けれども不信仰がありますならば、せっかく神が祈りに応えて与えたもうところのものを受け取ることができません。祈りの始めより信ぜよ。おお、ただ信じて俟ち望めよ。
凡そ祈禱の時、その求ふ所のものは必ず得べしと信ぜば必ず得べし(マルコ伝十一章二十四節)
神は祈りに応える神であります。この聖別会の時に、熱心に願いましても、まだ十分恵みを得ませんお方がありますか。どうぞ信じて信じて続いて俟ち望みてお祈りなさい。神は必ず応えたもう神です。
けれどもそればかりでなく、神は火をもて応うる神です。おおこれは幸いなることです。神は御自分の富に随って、あなたの願いに越えたる応えをなしたまいます。
たとえばあなたは祈りの力をお願いなさいます時に、神はあなたに聖霊を与えて祈らしめたまいます。また救いの喜びをお願いなさいますならば、やはり聖霊によりてその喜びを与えたまいます。
父が喜んでその子に善き物を与えますように、神は最も善きものなる聖靈を与えたまいます。おお、いつでも聖霊の火をもて祈りに応えたまいます。
ソロモンが殿を聖別して神に献げました時、神はソロモンの祈りに応えて火を降したまいました。
ソロモン祈ることを終し時、天より火くだりて燔祭と犠牲とを焚きヱホバの榮光その家に充り。ヱホバの榮光ヱホバの家に充しに因て祭司はヱホバの家に入ことを得ざりき。イスラエルの子孫は皆火の降れるを見またヱホバの榮光のその家にのぞめるを見て、敷石の上にて地に俯伏て拜しヱホバを讚て云り、善かなヱホバ、その恩惠は世々限なしと(歷代史略下七章一〜三節)
この火は神の御臨在の表面のしるしです。その時からその殿を御自分の殿として、続いて住まいたまいました。その通り、神があなたの心の中に火を降したまいますならば、その時より、あなたの心を殿として神は永くそこに在したまいます。
火はまた愛の火です。純粋なる愛の火があなたの衷に燃えますならば、苦い思いは悉く追い出されてしまいます。また熱心の火です。あなたは魂について冷淡でありますならば、とてもそのために十字架を負うことができません。神は燃え立つ熱心の火を与え、喜んで主に従う者にならせたまいます。またそれのみでなく、炎の舌をも与えたまいます。それによりて、罪人に主イエスを証することができます。あなたが炎の舌を受けましたならば、それは日本のリバイバルの始まりです。どうぞまず私共各々から神のリバイバルを起していただきとうございます。
私共はどうして、またいつこの恵みを得ましょうか。
列王紀略上十八章二十九節以下、ここでエリヤはエルサレムから百マイルほど隔たれるカルメル山の上に、崩れていたヱホバの壇を築きました。エリヤは自分の目で神の殿を見ることができません。けれども壇の上にもはや犠牲が献げられましたから、神は必ず火を注ぎたもうと信じました。神は何のために火を下したまいますかならば、羔羊がもはや屠られました、そのためです。神の前にカルバリの犠牲がありますから、その全き贖いのために、おおその十字架の勝のために、私共にも火を下したまいます。どうぞ信仰によりて今でも天の処に十字架の贖いが全うされていることを信じて、火を待ち望めよ。
神は独り子をさえ与えたまいましたならば必ず万物をも与えたまいます。神は必ず祈りに応えて聖霊の火を与えたまいます。これは神の父たる愛のためです。
バアルの神はそんな神でありません。バアルの祭司等は神の愛をわかりません。ですからこの憐れむべき祭司等は自分の身に傷つけねばなりません。私共は神の愛をわかりまして、そんなに身を苦しめる必要はありません。おお、心一筋に信じて待ち望みとうあります。けれども或る兄弟がなぜ聖霊の火を得ませんかならば、二つのものの間に迷うているからです。
汝等何時まで二の物の間にまよふや、ヱホバ若し神ならば之に從へ、されどバアル若し神ならば之に從へ(列王紀略上十八章二十一節)
然ど疑ふことなく信じて之を求むべし。疑ふ者は風に撼されて翻へる海浪の如し。斯の如き人は主より何物をも受ると想ふ勿れ(ヤコブ書一章六、七節)
必ずそういう人は恵みを得ません。あなたの心の中に幾分か疑いがありまして、神はこういう恵みを与えたまいますか、或いは与えたまいませぬかも知れぬと、二つの間に迷いますならば、必ず恵みを受けることができません。聖別会の時に神が火を与えたもうことを信じましても、家に帰りまして、だんだん静かになります時に、神はもはや火を与えたまわぬと思います。そういう風に二つの間に迷うておりますならば、神は与えたまいませぬ。またこの集会で身も魂も献げましても、家に帰っては、そんな献身をせぬでもよいと思います。そういう二心がありますならば、神は与えたまいません。あなたが真に身も魂も献げましたならば、いつまでも壇の上にお置きなさい。あなたが絶えず壇上の生涯をお送りなさいますならば、神は必ず絶えずたえず火を下し、あなたを用いて御自身の活ける栄えを顕したまいます。
また、ただ神よりの火を待ち望みましたエリヤは、下からの火を恐れました。どうぞそんな火の起らぬよう、三度燔祭と薪の上に水を注ぎ、周囲の溝にも水を満たしました。ですからもうそこから火の出る望みはありません。けれども神は火をもて応うる神ですから、必ず上からの火を注ぎたまいます。おお、その通り私共も、心の中に少しでも自分の力、自分の熱心、自分の火をもっておりますならば、それは不信仰です。どうか自分の心の中から少しも聖き火の出ませぬことを確信して、ただ上よりの火を俟ち望め。
エリヤの祈りは、まことに簡単でした。
ヱホバよ我に應へたまへ、我に應へたまへ、此民をして汝ヱホバは神なること、および汝は彼等の心を翻へしたまふといふことを知しめたまへと(列王紀略上十八章三十七節)
ただそれほどの祈りでした。神は必ず火をもて応うる神なりと信じて、静かな簡単な祈りを献げました。バアルの祭司等は熱心に朝から晩までバアルの名を呼んで叫び求めましたけれども、何の声も何の応えもありませんでした。けれどもエリヤはもはや、信仰と献身の準備を整えましたから、ただ簡単に祈りました。その祈りの時、神はさっそく火をもって応えたまいました。
あなたは身も魂も壇に献げ、ただ上よりの聖霊の火をのみ待ち望みますならば、今という今、神は火を下したまいます。これは必ず間違いがありません。いま祈りの中に火を待ち望めよ。
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