主イエスの死が間近に迫っていたとき、弟子たちには二つの希望がありました。それは、主が片時もお忘れにならなかった来るべき偉大な出来事ですが、弟子たちに教える最後にして最高の課題として、強調してこられたことでした。主は終始一貫して、弟子たちが最も切実にこのことに注目するように促してこられました。その一つは「聖霊のバプテスマ」です。それを受けるときが目前に来ているので、待ち望むように命じられていました(ヨハネ十四〜十六章)。いまひとつは「キリストご自身の再臨」であって、常に心備えをしておくように命じられていました(マタイ二十四章、二十五章、マルコ十三章、ルカ二十一章)。
初代の弟子たちは、主のお言葉を信じ、期待をもってこれらのことを待ち望みました。そして、主が天に昇られるのを見届けると、さっそく、聖霊のバプテスマを受けるまで、神を求めることを自分たちの仕事としたのです。聖霊を受けた弟子たちは、力強い奉仕をするために武装され、面目を一新して別人のようになりました。そしてその時から、主の再臨を本気で待つようになり、いつでも主をお迎えする準備が出来ました。弟子たちが世に流されることなく、力強く生き続けられた秘密は、まさに聖霊のバプテスマと再臨待望の姿勢にあったのです。主はご自分の最後が近づくと、かつてなかったほどに、この二つのことを弟子たちに強調されました。
近年、「見よ、花嫁が来る」という声が盛んに聞かれるようになりました。この声は、眠り込んだ主の教会を目覚めさせました。人々は自らをかえりみて、いま主がおいでになったら、お迎えする準備が出来ていないことに気がつきました。そして「どのようにして自分の燈火を燃やし、聖霊の油に充たされて輝き続けることができるであろうか」と問い始めました。「どうすれば喜びと確信をもって主にお会いできるような生き方ができるだろうか」。これらの疑問に対する答えは、聖霊が注がれることによって与えられました。神はご自分の教会にむかって、聖霊に充たされることが、キリストの再臨に備える唯一の道であることを示しておられるのです。人々は喜んで、この啓示を受け入れるようになりました。このようにして、世界中のあちらこちらで、聖霊のバプテスマを祈り求めてそれを与えられ、初代のクリスチャンと同じように力に充たされ、神との交わりを保ち、再臨の主に会う備えをして、「喜びながら待ち望む」者が起こされています。
ですから、主の再臨と聖霊のバプテスマには、密接な関係があります。私たちは、聖霊を受けて初めて、確信をもって主にお会いすることができるのです。聖霊を受けることによってのみ、心と魂に来るべきことを教えられ(ヨハネ十六章十三節)再臨の望みに輝きながら生きることができるのです。
この二つのことは、どなたにとってもきわめて重要です。しかし、どれほどの人が、その必要性を実感しているでしょうか。ほとんどの人が、このことに無関心なのではないでしょうか。よほど注意していただかないと、わたしが申し上げていることも、忘れ去られてしまいそうです。ああ、あなたは、主に贖われたのですから、このことをおろそかにしてはなりません。
この驚くべき特権と輝かしい希望に「目覚めてください」。あなたの全身全霊を傾けて、このことに取り組んでください。聖霊のバプテスマを受けるまで休んではなりません。そして、切迫している主の再臨を実感しながら、キリストの花嫁になる用意を完全に整えて生きる者となってください。
わたしはこのような考えと願いを持つ人たちの助けになるようにと思ってペンを取った次第です。あなたは、聖霊に関するこの驚くべき約束について、何度も何度もお読みになったことと思います。しかし、ただ約束を知っているだけでなく、これを「経験」することを渇望してください。あなたは、言われるかも知れません。「このような約束をいただいているけれども、結局どうなるのでしょうか。わたしはほんとうに聖霊のバプテスマを受けることができるのでしょうか」。
この約束は、今日、どんなクリスチャンにでも、全く完全に成就されます。主の力は今も失われてはおらず、聖霊のバプテスマを与えたいというご意志も変わっておりません。私たちは、主とその恵みの契約とに縁遠いように思われるかも知れませんが、この約束は神の召しにあずかった私たちのためのものなのです(使徒二章三十九節)。この約束は初代の弟子たちの専売特許ではありません。彼らが受けたものを、私たちもまた受けることができるのです。
彼らは、願ったとおり、主が約束されたとおり受けることができました。聖霊は、主が願われたとおりのことを期待した者に与えられました。そして、今も昔と同じように、条件を果たし、心を開いて受けようとする者に、与えられるのです。