これは、クリスチャン生活の第二の舞台であって、いみじくも「第二の改心」と呼ばれるものであり、第一回目の改心よりも顕著であることもまれではありません。私たちの主は、ヨハネ福音書十四章十七節にこのことを明示して、「この世はその方を見ようともせず、知ろうともしないので、その方を受けることができない。あなたがたはその方を知っている。なぜなら、その方はあなたがたと共におり、またあなたがたの内におられるからである」と言われました。回心していない人は罪の赦しと永遠の命をいただくことができます。彼らはキリストを受け入れることはできます。しかし、キリストがここで言われているような意味において、「助け主を受けること」はできません。御霊を知っている者、すでにクリスチャンになっている者だけが、それを受けることができるのです。ですから、回心の時にこのように御霊を受ける者はいないわけです。これは、回心のあとに受けるのです。
たとえあなたが救われて御霊を持っており、この聖霊の時代に生きているとしても、それが聖霊のバプテスマを受けていることの証明にはなりません。最初の回心は幸いです。しかし聖霊のバプテスマはもっと幸いです。
私たちの経験から言っても、同じ結論に達せざるを得ません。すなわち、聖霊のバプテスマは、すでに救われている者によって求められるものであって、初めの回心と同一のものではありません。なぜならば、主が聖霊のバプテスマにともなって与えると約束してくださったような結果を、回心がもたらすことはないからです。ですから、この二つは全く別の経験です。回心だけでは、潔さも、愛と熱心の成長も、罪に対する勝利も、神についての知識も、主が約束された真理に対する洞察力もありません。あなたは、回心に時にこのような恵みを受けることを期待したかも知れません。しかしそれを受けることができず、失望して、心が暗くなったのではないでしょうか。しかし、ご覧なさい。ここに良い知らせがあります。神は、これらすべての恵みをあなたにくださいます。あなたは新しい経験を持つことができます。あなたは、キリストの救いの力を感じてきました。しかし主は、「あなたを完全に所有する」ことを望んでおられるのです。あなたは、御霊の臨在と感化を感じておられたでしょう。しかし、御霊は来られてあなたの内に住み、永続する安息と、力と栄光とをもたらすことがおできです。あなたは魂を救うために働いてきたでしょう。御霊はあなたを力で装備し、失われたものの救出に力ある者としてくださることができます。願わくは御霊が、あなたにこのことを示してくださるように。あなたが、この恵み、すなわち聖霊のバプテスマを受けないでは、もはやどうにもならぬものであることがわかるまで、よく考えてみてください。この渇望が、あなたの骨の内に閉じこめられて、燃える火のようになるまで祈り続けなさい。
あなたの道を主に委ねよ。
主に信頼せよ。
主はそれをなしとげられる。
(詩篇三十七篇五節)