第二章 キリストが教えたきよめの道



 ですから、キリストは、弟子たちが聖霊のバプテスマを期待するようにお導きになりました。そのことについては、キリストはどのように教えられたのでしょうか。それを知るために、主ご自身のみ言葉を取り上げ、その意味するところを考えてみましょう。これは、この問題について権威をもって語ることのできる方の言葉です。ほかの者は、議論したり、自分の見解を述べたり、自分の経験について語るかも知れません。しかし、主ご自身がお語りになるならば、私たちはただこれだけに堅く立ち、黙って聞き従い、お受けするだけです。聞く耳のある人は聞くべきです。
 これらの言葉は、ペンテコステの前に真実であったように、今も真実です。かのペンテコステの日における聖霊の降臨が、その真理を弱めたり、変更したりするはずがありません。これはいつの時代にも生きた真理です。主が一緒にいたクリスチャンたちに示されたきよめの道は、私たちにとっても全く同じです。もし主が、私たちの間に立って、現代のクリスチャンの霊的状態をご覧になったら、昔の弟子たちに語られたのと同じ真理をお語りになるでしょう。主は、助け主であられる聖霊を個人的に受けるように勧め、聖霊について語るにも、最初の弟子たちに教えたのと同じ言葉をもって語られるでしょう。ですから私たちは、主が彼らに与えられた教えを、よく味わってみる必要があります。
 これらの言葉は、特にクリスチャンであってまだ聖霊の満たしを受けていない人々によくあてはまり、助けになります。なぜかというと、これらの言葉はもともと弟子たちがそうした霊的状態であったときに語られたものだからです。彼らはすでに、御霊によって新生していました。彼らは主を愛し、主に従っていました。しかし、まだ罪から解放されてはいませんでした。彼らはまだ自分に死んでいなかったので、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と言うことができませんでした。彼らはまだ、魂を獲得する力がありませんでした。
 主は弟子たちを導いて、キリスト者生涯において実現可能なこの祝福を得させたいと切に願っておられました。主はどのようにそれをなさったのでしょうか。主がお語りになったことは、明確な言葉で表現するならば、聖霊の福音とでも言えるでしょう。主は弟子たちに、どのように聖霊のバプテスマを受けるのか、助け主はどのようにして来て留まられるのか、どのようにして力を授けられ、そして聖霊に満たされるのかなどについてお話になりました。主は彼らのあらゆる罪深さ、弱さ、無知、不信仰をどのようにして一掃し、きよめられた新しい生活と、力と、霊的理解力と、神との交わりをどのようにしてはじめることができるのかについてお話になりました。このため、助け主である聖霊が自分たちをバプタイズされるように待ち望むことをお命じになりました。これこそキリストが弟子たちに説かれたきよめの道なのです。
 このきよめの道を、注意して心にとめてください。なぜならば、今でも、これが唯一の道だからです。主は、弟子たちが弱く罪深い者であり、世にあって大いに用いられる前に、彼ら自身が変えられなければならないことをよくご存じでした。しかし主は「恵みに成長せよ、少しずつ良くなれ、そうすればいつかは聖霊に満たされるでしょう」とは言われませんでした。主はきよめのために全く別の道をお与えになりました。主は「聖霊を受ける」ことによって、全く瞬間的にきよめられ、力に満たされることを期待して祈るようにと、彼らをお励ましになられました。このようにして、聖霊の人格的内住によってきよめられてこそ、彼らは恵みときよめに成長することができたのです。
 これこそ、今日のクリスチャンが本気で心にとめなければならぬ教えです。徐々にきよめに成長するとか、漸進的に御霊の満たしにあずかるのだなどと考えることは、無益な望みです。それは神のご計画ではないし、決して成功することもありません。「助け主が来られたならば」あなたは「聖霊のバプテスマを受け」てきよめられ、またきよめを保ち続けるのです。成長ではなく、バプテスマが必要なのです。これは「状態の変化」であって、病弱から健康体に、薄曇りから晴天の輝きに変化するほど大きなことなのです。このことが、あなた自身にとってほんとうに必要だとわかるまでへりくだっていなさい。そのように、御霊があなたの罪を認めさせてくださるように。主があなたの内に「新しいこと」(イザヤ四十三章十八〜二十一節)をしてくださるように。それによって「いにしえの事」をすべて忘れさせてくださるように。そのようにして、あなたの心に生ける水の流れる「川」が与えられ、ほかの人々に「飲ませ」、「神の栄光」を示すことができるようになるのです。



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