主は、助け主が来られるとき、心と生活に栄えある変化が起きるように期待すべきであると、弟子たちにお教えになりました。この変化を経験したならば、それは永続するものであって、主は、御霊がまず彼らをバプタイズしたのちは、たえず彼らの心に住むと言われました。
そして主が弟子たちに求めるように教えられた恵みは、私たちにも同様に約束してくださった経験です。
これら二つのことを、もう少し詳しく考えてみましょう。
一。主が与えようとしておられたのは、「御霊のバプテスマ」でした。このことは使徒行伝一章五節に「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」と記されています。この約束は、このほか新約聖書に五回記されています(マタイ三章十一節、マルコ一章八節、ルカ三章十六節、ヨハネ一章三十三節、使徒行伝十一章十六節)。これはバプテスマのヨハネが、キリストがおいでになるときに期待するようその聴衆に命じた最高の恵みです。そして、主のお言葉にたびたび繰り返されることによって、神はその真理と必要性を明らかにして、その成就を期待するように励まされました。
このバプテスマは、私たちのひとりびとりが個人的に受けなければなりません。これは、ヨハネのバプテスマがそうであったように、「まったく個人的な事柄」です。ひとりびとりがへりくだりました。ひとりびとりが自分の罪を告白しました。ひとりびとりが水に入りました。聖霊のバプテスマもそれと同じであって、聖霊が世と教会の上にただ一度だけ降ったというのではなく、クリスチャンひとりびとりが経験しなければならぬ個人的な事柄なのです。
では、この経験とは、どのようなものでしょうか。それを理解するために、神のみ言葉をよく調べて、聖霊によるキリストのバプテスマと、水に入れるヨハネのバプテスマとを比較対照してみましょう。水のバプテスマは、すべての罪と過ちと一緒に過去の生涯に死ぬことのしるしです。聖霊のバプテスマは過去に対する「真実な死」です。それは、情欲に迷って滅び行く旧い人(エペソ四章二十二節)とその行い(コロサイ三章九節)を脱ぎ捨てることです。これは、私たちの古き人がキリストとともに十字架に付けられて、罪のからだが滅び、もはや罪の奴隷になることがない(ローマ六章六節)ようになることです。これこそまさに、御霊が前述の言葉を書かせられたときに含まれていた深い意味なのです。これは過去の生涯からの「明白な分離」を意味します。
それはまた、これからどうして生きていくかということを心配するのではなく、これからはキリストによってのみ生きていくということを意味します。罪と、不品行と、いかがわしい生き方を脱ぎ捨てることです。それは、心の割礼であり、罪からの解放を意味します。
あなたは、キリストがお受けになった死に至るバプテスマを受けることができますか。あえてこの杯を飲むことができますか。この恵みを受ける人が少ない大きな理由の一つは、バプテスマの本質的な要素である死を欲しないというところにあるのです。もしあなたが、キリストの満ち足りた救いに飢え渇いておられるなら、そして、罪に対して死ぬことをほんとうに欲しておられるなら、ここにこそ道があります。主は罪を亡ぼすことがおできになります(サムエル上二章六節)。キリストは、聖霊によってバプタイズすることがおできになります。ですからあなたは、ほんとうに「罪から自由」になります(ローマ六章十八節)。
聖霊のバプテスマは、死をもたらすだけではありません。「豊かな命」さえももたらすのです。水のバプテスマにおいては、水はバプタイズされる人の体にしみこむわけではありませんが、聖霊のバプテスマの場合は、その人の魂と霊とに透徹します。聖霊ご自身、すなわち助け主ご自身は、キリストによってその人の心にまで来られるのです。主の弟子たちの場合も同様でした。彼らの場合、聖霊のバプテスマを受けることと、助け主が来られることとはいつも同じことでした。彼らに対する主の約束は、「あなたがたは間もなく聖霊によってバプテスマを授けられるであろう」(使徒一章五節)ということでした。このようにして、彼らがバプテスマを受けたとき、この恵みは「聖霊に満たされ」(使徒二章四節)たのであると言われています。
ここに、豊かな霊的生命があります。ここに聖い活力と熱心があります。霊魂を勝ち取る力があります。ここに神との絶えることのない交わりがあり、すべては私たちにとって満ち足りて余りある生活であることを意味します。そうですから聖霊のバプテスマは同時に二つのことをもたらします。
死 ── 一回きりで、成し遂げられたものです。
生 ── 豊かであり、神的であり、勝利に満ちたものです。
ここでどうしてもはっきりさせなければならないことは、このような意味で主が私たちにバプテスマを授けられたかどうかということです。主の働きは徹底的で完全です。その結果は確実で明白です。主に臨在のうちにこれを読んで、あなた自身の心を検討してください。このことに関する真理を探り出してください。もしあなたが聖霊のバプテスマをまだ受けていないなら、それを受けるのに妨げとなるものを、いっさい取り除いてください。
二。しかし第二に、聖霊は、単に一度だけきよめ、聖別するだけでなく、私たちのうちに「住む」ために来られるのです。ヨハネによる福音書十四章十七節には「あなたがたのうちにおられる」とあり、十六節には「いつまでもあなた方と、共におらせて下さるであろう」と記されてあります。聖い生涯を継続させる力はこれです。聖なるお方の内住は、私たちの心を、聖く、神の臨在に満ちあふれる状態に保ち、罪から救い続けるのです。
キリストが助け主がおいでになるときに期待するように、お命じになった主眼はここにあります。助け主は私たちのところに一晩だけ泊まっていく旅人のようなものではなく、私たちの霊のうちに支配者としていつも住んでいてくださるのです。この約束を聞いた弟子たちは、常に聖霊のご臨在を意識し、常に聖霊との交わりを喜び続けることは当然のことだと思ったに違いありません。
主が言われたのは、まさにこのことです。それは、聖霊を受ける人が、心の中にもたらされる命です。聖霊は最初に、ペンテコステの経験をお与えになりましたが、これは始まりにすぎません。つづいて聖霊は、いつまでも私たちの内に住み、炎を燃やし続け、輝きを増し加えてくださるのです。
このようなわけで、このバプテスマは過ぎ去ってしまう一時的な経験ではなくて、その時点から全生活に力を与え、また豊かにするのです。ここに、強さと、愛と、喜びと、望みの秘訣があります。ここに、キリストにある幼子が、恵みに成長した大人になるための、神からの供給源があるのです。さあ、私たちの心を点検して、「信仰に入ったときに聖霊を受けたのか」(使徒十九章二節)どうかを、見極めようではありませんか。