第八章 どのようにして受けるのか



 私たちは今ご一緒に、主が聖霊が来られるのを期待するように弟子たちを指導されたことを学びました。しかし主の教えはそれで終わったのではありません。主は弟子たちに、どのようにしてこの驚くべき恵みを自分のものにすべきであるか、また、助け主を与えられるために何をしなければならないかを、はっきりとお教えになりました。どのようにして聖霊を与えられるかについて、主がその弟子たちに語られたことを傾聴するだけでなく、この教えを自分のものとして受け入れ、この貴重な賜物を得るために主が示された道に従いましょう。

 一。聖霊を受けるための第一の条件は、ヨハネ福音書十四章十五、十六節にあるように、弟子たちに与えられています。「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう」。心と生活において「神に従う心備え」のできている者のみ、助け主を受けることができます。残された生涯のためになされる神のご要求にただただ従う決心のできた者だけが、この恵みの栄冠を受ける望みがあるのです。ペンテコステの日の聖霊の注ぎを受けた弟子たちは、自分たちの意志ではなく、神のご意志のままに用いられるよう、また、地上に神の国が拡張されるために必要なことであれば、どんなことでも耐え忍ぶ決心ができていました。
 私たちは、この条件を満たしているでしょうか。私たちは今後、神に、そして神だけに仕える決心ができているでしょうか。今後、心から御霊に従うということは、御霊を私たちの王として、神として、忠誠心をもってまったく明け渡すことです。これは多くのクリスチャンに缺けているところです。彼らの献身が本物でなければ、その供え物は不完全です。私たちはどうでしょうか。わたしは神の憐れみによってあなたに懇願します。あなたのからだを生きた供え物として、今、神に献げてください。そして、その供え物を綱で祭壇の角に結びつけ、決して放さないようにしてください。

 二。第二の条件は「信仰の祈り」です。
 ルカ福音書十一章十三節でキリストは言われました。「このようにあなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。これによって私たちは、聖霊は神の無代価の賜物であって、父なる神がこのお方を、無代価の恵みをもって与えられることがわかります。ですから、過去の罪や欠点があっても、失望する必要はありません。もし私たちがそのようなことを感じて悲しんでいたとしたら、神はむしろあなたを恵みたいと思っておられるのです。
 この約束が示しているように、聖霊のバプテスマは、私たちが天の父に与えてくださるようにと説き伏せなければならないような恵みではなく、父が御子に与えようと豊かに備えられたものですから、神の子供である私たちにも与えることを喜びとしておられるのです。主が弟子たちを残し去られたとき、このことを想起しながら、弟子たちはどれほどの大きな信頼と喜びに満ちた期待をもって主に迫ったことでしょうか! 私たちもこのような信頼をもって求め、これらすべての約束を待ち望むならば、私たちのうちに必ず成就するのです。
 ですから、神に近づきなさい。自分自身の熱心によってはなく、常勝のキリストの御名によって神の前に出なさい。乞食のようにではなく、愛子のように近づきなさい。王座の御前に来なさい。主は「あなたの願いは何か。‥‥‥あなたに与えよう」(エステル五章三節)と言われるでしょう。
 私たちが祈り求めるならば、キリストは喜んで私たちの祈りに答えてくださいます。主はヨハネ福音書十四章十四節で言われました。「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」。そして「わたしは父にお願いしよう。父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう」と付け加えられました。キリストの祈りは必ず答えられるはずです。これらの祈りは、ペンテコステの日に祝福のうちに答えられ、弟子たちの上に聖霊が注がれました。今でもキリストの弟子のひとりが聖霊を祈り求めるならば、私たちの昇天された主の力ある祈りの答えとして、聖霊が注がれます。

 三。最後に、これを願う者のために、ルカ福音書二十四章四十九節の命令があります。「上から力を授けられるまでは、都にとどまっていなさい」。あるいは使徒行伝一章四節にも「父の約束を待っているがよい」とあります。弟子たちは主が言われたことがわかりました。彼らは、聖霊を受けるためには、ほかのいっさいのものを失ってもよいと思うほどに、この命令を心と精神にとどめました。彼らは祈りが聞かれるまで、すなわち助け主がおいでになるまで、主をとらえて離さず、信じ続け、要求する祈りをかかげて主の前に待ち望みました。
 私たちクリスチャンにとっても、この「とどまっていなさい」「待っているがよい」という条件が必要です。期待する信仰を持って待ち望みなさい。絶え間のない祈りをもって待ち望みなさい。まったく自己を放棄して待ち望みなさい。いよいよ主を待ち望みなさい。あなたの求める聖霊は突然あなたの心に来て、清新な臨在をもってとどまられます。
 このようにして主は、父が約束されたものを得るためにはどうすればよいかをお教えになりました。しかし主は単なる言葉の上だけの教えを与えることで満足されませんでした。主は彼らの目の前で、実行すべき最も重大な課題をお与えになりました。ある夜、主ご自身は復活の力をもって弟子たちの中に現れました(ヨハネ二十章十九節)。主はその平安の確証をお与えになりました。主はご受難の傷跡のあるご自身のからだをお見せになり、それによって彼らに平安をお与えになりました。そして主は、彼らがこの世でキリストの生き方をし、キリストが人々の救いによる神の栄光のために生きたのと、同じ目的を持って生きるように任命されました。
 それから、息を吹き入れ、「信仰によって聖霊を受けよ」と命じられました。
 このようにして主は、聖霊を受けることについての教えを要約されました。今、私たちはこのときの光景を思い浮かべてみましょう。キリストは復活の力をもってあなたと共におられます。あなたはただ主ご自身だけから、この値高い賜物をいただくことができます。心と思いを傾けて主に近づきなさい。
  わたしの平和の君は進み行かれる
  御顔の光はわたしを照らす
 主はもう一度、平和の確証を与えられます。主はあなたのために完全な救いを贖い取られたカルバリーを示してくださいます。あなたがここでへりくだって、礼拝の心をもってひざまずくならば、主はもう一度あなたの内に「聖霊を受けよ」と告げられます。
 あなたが、心と魂においてこの条件に従うならば、信仰によって聖霊を受けることができます。今、主の申し出に応じなさい。あなたの信仰をこの好機にふさわしく奮い起こしなさい。聖霊に満たされよと言われる主に答えて、「ご覧ください、わたしはあなたの僕です。お言葉通りこの身になりますように」と申し上げましょう。



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