このようにして私たちは、主がヨハネ福音書十六章七節に「わたしが去っていくことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去っていかなければ、あなたがたのところに助け主は来ないであろう」と言われた意味をある程度理解することができます。弟子たちにとって聖霊をいただくということは、主が肉体を持って共におられるよりも、もっと重要なことでした。彼らはキリストが共におられることがどんなに幸いであるかを、身にしみて味わっていました。そして、主が去って行かれることが、どれほどの損失であるかをよく知っていました。しかしそれでも、来てくださる助け主の方がさらに良く、さらに大きな祝福でした。聖霊は弟子たちをさらに神に近づけ、キリストがなされたよりもさらに多くの光と力を彼らにくださることになっていたのです。
彼らの信仰と望みは明らかに高められました。彼らは主がかねて約束されていたことを成し遂げることができると期待しました。彼らは、主から聖霊について最もすばらしい言葉を聞かされていましたが、それが誇張した言い方であるとは思っていませんでした。それはみな現実となりました。助け主が来られたとき、すぐ、地上に「天国が始まった」ように見えたに違いありません。
キリストは、お語りになったことを成し遂げられました。主はその言葉のもたらす意味と印象を知っておられました。主は誤った印象が独り歩きするのを容認されるはずがありませんでした。主は、彼らがご自分の言葉を最も単純な意味に受け取るのを望んでおられるのです。私たちは、とかくこれまで、主が十分に、事実上、文字通りの意味では言っておられないように読む傾向がありました。しかし、まさに主は言われたとおりのことをなさいました。主は、そのお言葉はことごとくその通りになるものであることを、私たちが理解するように求めておられます。そしてそのように把握する信仰を、主はお喜びになります。
このようにして最初の弟子たちは、その通りに理解し、信仰を持ってそれを要求しました。そして、これらの非常に大きな、貴重な約束は、まったくその意味するとおりに、輝かしくも成就しました。助け主がおいでになったとき、ご自身の命の輝きと力をもって彼らの心を満たされましたので、ひとつの御霊によって主に結びつけられ、父なる神と子なる神の交わりに入れられ、明らかに神を知るにいたりました。キリストがこのような恵みをもって彼らに啓示してくださったので、新しい回心者は、主を見たことはありませんでしたがこれを愛し、言葉に表せない喜びをもって主を喜ぶようになりました。彼らは学識ある教師に学びませんでしたが、聖霊によって新しい真理に導かれ、歓喜のあまり、キリストを十分に知るためにはいっさいを棄てる決心をし、天国で知られているのと同じようにキリストを知ることを切に願ったのでした。
彼ら自身は、この世においてこのように大きなことができるはずがなかったのですが、その彼らから生ける水が川のように流れ出し、いたるところで貴重な魂が救われ、彼らのうちの誰かがほかの町々を短期訪問しただけで、喜びと平安と正義が結実を見たのです。
彼らが実に聖霊に満たされ、その魂は満々たる命を楽しみ、世と肉と悪魔に勝ち得てあまりあるものとなりました。私たちは、助け主についてキリストが約束されたことは、このように現実の経験として溢れるばかりに成就したことを見ることができました。これらの約束は、私たちにも提供されています。キリストは昔の弟子たちにされたのと同じように、今の弟子である私たちにも語りかけておられるのです。
私たちは言葉と行為と生活において、彼らと同じような力を持つことができます。私たちは、キリストがこれらの言葉をもって約束されたように、私たちの言葉と生活にともなって与えられる超自然的な結果を見ることができます。おお、不信仰にならないで信じ続けなさい。不信仰によってこの約束の偉大さを見失うことのないように。そして、「信仰において強くなり」その約束されたことを神は成し遂げることがおできになることを確信して、神に栄光を帰しましょう。 アーメン。