第 五 章  血 に よ る 聖 別



『それで、イエスもまた、ご自分の血で民を聖なる者とするために、
門の外で苦難を受けられたのです。』
(ヘブル13:12)


 血によるきよめ(cleansing)ということが前章の課題であった。今は血による聖別(sanctification)に注意を向けなければならない。表面しか見ない人にとってはきよめと聖別にはたいした違いがないように見えるであろう。この二つの言葉はほぼ同じことを意味しているようにも見えるが、実際には大きな重要な違いがある。きよめは主として古い生活と罪の汚れとに対処するものであって、これらは取り除かれねばならない。聖別とは、新しい生活と神から与えられる性質とに関わる概念である。聖別は、神との一致、血によって贖われた祝福の特別な仕方での成就を意味するのである。

 これら二つの基礎概念の区別は聖書を見ると明らかである。『キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったのは、言葉と共に水で洗うことによって教会をきよめ、聖なるものとするためでした』(エペソ5:25-26)とパウロは注意している。キリストはまず教会をきよめ、それから聖別するのである。テモテへの手紙の中では彼は次のように述べている。『卑しいことから離れて自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い行いのために備えられたものとなるのです』(テモテ後書2:21)。聖別はきよめの後に続くとともに、それにまさる祝福なのである。

 この違いはまた、祭司の聖別式に関する定めをレビびとのそれと比較することによっても明らかになる。レビ人は聖所の務めにおいては祭司よりも下位にある奉仕者であるが、彼らの任職にあたってはきよめという言葉は4回使われているものの、聖別については言及されていない(民数記8章)。

 それに対して祭司の任職にあたっては、聖別という言葉がとてもたくさん使われている(出エジプト29章レビ記8章)。祭司はレビ人よりも神に近く立つ者であったからである。

 この記録はまた犠牲の血と聖別との密接な関係性を強調している。レビ人の任職にあたっては罪のための和解がなされ、きよめのために洗いの水が注がれるが、彼らに血が注がれることはなかった。しかし祭司のためには血を注ぐ必要があった。祭司は個人的に直接に血の適用を受けることによって聖別されたのである。

 これらはみなイエスの血による聖別の予型であり、イエスの血による聖別こそ私たちが今それにあずかるために理解しようとしている事柄である。

 そこで次のことを考えてみたい。

  1. 聖別とは何か。
  2. 聖別はキリストの受難といかなる関係があるのか。
  3. どうすれば聖別を得られるか。

聖別とは何か

 贖われた者が聖別を受けるとはどういうことかを理解するためには、まず私たちは神の聖とは何かを知らねばならない。神お一人だけが聖なる者なのだ。被造物は神から聖を受けることによってのみ聖でありうる。

 神の聖は、しばしば神の罪に対する嫌悪と敵意との関連において語られる。しかしこれでは神の聖が現実に何であるのかの説明になっていない。神の聖は罪とは相容れないという否定的な言明でしかないからである。

 聖とは、神が至高善であり、至高善を意志し、至高善を行うという、その神の在り方のことなのである。神は至高善なることを被造物に求め、それを被造物に与えるのである。

 神が聖書の中で聖なる者と呼ばれているのは、神が罪を処罰するからだけでなく、神は神の人々を贖う者であるからである。預言者イザヤは神がどのような方であられるのかの本質を捉えて次のように語っている。『あなたがたの贖い主、イスラエルの聖なる方、主はこう言われる。…… 私は主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である』(イザヤ43:14-15)。神の聖は、すべてのために善を意志するものであり、それが神を動かして罪人つみびとを救うようにさせたのである。罪を罰する神の怒りと、罪人を救う神の愛とは、同一の水源、すなわち神の聖から出て来るのである。聖は神の本性の完成形である。

 人間に与えられた聖とは、神の性質と完全に一致する性質のことであって、何事においても神が意志するとおりに意志する。『あなたがたを召された方は聖なる方であるから、あなた方自身も聖なる者となりなさい』(ペテロ前書1:15)と書かれているとおりである。私たちに与えられている聖とは、神との一致以外の何ものでもない。神の人々に対する聖別は、彼らが神の聖に通じることによって効力あるものとなる。聖なる神から神だけが持っているものを与えられることなくしては、聖別を受けることはできないのである。神だけが聖なる者であり、聖別する主なのである。

 聖書は、「聖別」や「聖別する」という言葉をいくつかの異なる意味で使用することによって、私たちが入れられる神との関係を明確にしている。

 「聖別」という言葉の第一の、最も単純な意味は「分離」である。神の命令によって周囲のものから取り出され、神のもとに取り置かれているもの、または神のご用のために神の所有物として取り分けられてあるものは、聖なるものである。それはただ罪から隔てられることを意味するだけでなく、世にあるすべてのもの、許容可能なものからさえも分離されることを意味している。神が七日目を聖別されたのと同様である。他の日が清くなかったわけではない。『神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった』(創世記1:31)とあるとおりである。にもかかわらず、七日目だけが聖なる日とされた。神がご自身の特別な取り決めによってその日をご自分のものとされたからである。

 神がイスラエルを他の諸国民から取り分けられたのも同じことである。そしてさらにイスラエルの中から祭司をご自身に対して聖なる者として取り分けられた。この分離による聖別はいつも神ご自身のみわざである。したがって神の選びの恵みはしばしば聖別を伴っている。『主である私が聖なる者であるから、あなたがたも私にとって聖なる者となりなさい。あなたがたを私のものとするために、私はあなたがたを他の民から区別した』(レビ記20:26)。『その時、主が選ばれた者が、聖なる者である』(民数記16:7)。『あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は、あなたを選ばれた』(申命記7:6)。神が他の神々と協働するということは不可能である。神は、ご自身の聖をあらわされ分け与えられた人々を、ご自身のみで所有し、支配せざるを得ないのである。

 しかしこの分離ということは、聖別という言葉に含まれることのすべてではない。人が分離されて神のみまえに置かれているだけであれば、それは神のご用のために聖なるものとされた命のない物体と変わらない。分離が真に価値あるものとなるためには、さらに何かが必要である。人はこの分離に対して、自発的に、心から、自分を明け渡さなければならない。聖別ということには、神のものとなるために神に対して人格として献身することが含まれるのである。

 聖別が私たちの人格的生の深み、私たちの意志と愛の深みの中に根を下ろし、そこに住まいを定めるようになった時に、初めて聖別が私たちのものとなるのである。神は人間をその人の意志に逆らって聖別するということはなさらない。したがって神に対する人格的な心からの明け渡しが聖別の過程の不可欠な要素なのである。

 この理由から、聖書は神が私たちを聖別することだけでなく、私たちが自分自身を聖別することについても語っているのだ。

 しかし、献身によっても、真の聖別はなお完結しない。分離と献身は、神がご自身の聖を人に分け与えるという栄光のみわざをなされるための準備に過ぎない。『神の本性にあずかる者となる』(ペテロ後書1:4)ことこそ、聖別を通して信者に与えられることが約束されている祝福なのである。『ご自分の聖性にあずからせようとして』(ヘブル12:10)──これこそ神がご自身のために取り分けられた人々に望んでおられることである。しかしこの時に与えられる神の聖とは、神ご自身とは別の何かの贈り物であるわけではない。否、聖別が獲得するのものは、神ご自身との人格的な交わりであり、神ご自身の命にあずかることなのである。

 神は聖なる者として、イスラエルの民を聖別してその中に住まわれた。神は告げられた。『私はイスラエルの人々のうちに住み、彼らの神となる。彼らは、私が主、彼らの神であり、彼らをエジプトの地から導き出し、彼らのうちに住まう者であることを知るようになる。私は主、彼らの神である』(出エジプト29:45-46)。聖なる者として、神は私たちのうちに住まわれる。神の臨在だけが聖別を可能にする。これが私たちの受け継ぐものであることは確かであるから、聖書は私たちが『神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされるまで』(エペソ3:19)神が私たちの心に住まわれると断言して憚らない。真の聖別とは神との交わりであり、神が私たちの内に住まわれることなのである。そのために神がキリストとして肉のうちに住まわれたことは必然だったのであり、また聖霊が私たちのうちに住まわれるために来られることも必然であった。これが聖別の意味する所である。


聖別はキリストの受難といかなる関係があるのか

 両者につながりがあることはヘブル書に端的に述べられている。『それで、イエスもまた、ご自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難を受けられたのです』(ヘブル13:12)。神の知恵においては、人間の最高の到達点は神の聖にあずかることである。したがってこのことは、主イエスの受難と死に先だってそもそも彼が地に来られたことの中心目的であったのである。それはイエスがご自分の人々を聖別すること、『私たちが愛の内に御前みまえで聖なる、傷のない者となる』(エペソ1:4)ことという目的である。

 キリストの受難がいかにしてこのことを達成し、私たちの聖別を実現し得たのかは、キリストが犠牲となる直前に父に語られた言葉を見ると、私たちに明らかになる。『彼らのために、私は自らを聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者とされるためです』(ヨハネ17:19)。キリストの受難と死が私たちを聖別するものとなるのは、受難と死がキリストご自身を聖別するものであったからだ、というのである。

 これはどういう意味であろうか。イエスは聖なる神であって、『父が聖なる者とし、世にお遣わしになった』(ヨハネ10:36)者であるはずなのに、その彼がご自身を聖別しなければならないのであろうか。そうしなければならなかった。それこそ必要なことだったのである。

 キリストが所有していた聖別は、彼が受けた試練の範囲を超えるものではなかった。試練においてキリストは、ご自分の意志を神の聖に完全に明け渡し続けなければならず、またそのことを明らかに示さなければならなかった。すでに見てきたように、人間における真の聖とは、自分の意志と神の意志との完全な一致を意味している。荒野での試練に始まる主の公生涯を通して、主は常にご自分の意志を神の意志に服属させ、神に対するいけにえとして献身を尽してきた。しかしその頂点はゲツセマネでの出来事にある。それは闇の力が支配している時であって、神の怒りの恐るべき杯をご自分の唇から遠ざけて自分の意志を行うことへの誘惑が、耐えがたい力をもって主に迫っていた。しかし主はこの誘惑を拒否した。彼はご自身とその意志とを神の意志と聖のために献げた。こうして彼はその意志を神の意志と完璧に一致させることによってご自身を聖別したのである。

 このように主がご自身を聖別された事実は、私たちが真理を通して聖別されるための力となった。このことはヘブル書の記事と完全に符合している。そこではイエスご自身の言葉として次のように書かれている。『御覧ください。私は来ました。御心みこころを行うために』。そして続いて『この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです』と説明されている(ヘブル10:9-10)。このように、イエスがその肉体を差し出すことが神の意志を行うことへのご自身の完全な明け渡しであったがゆえに、私たちは同じ神の意志によって聖別されるのである。彼は私たちのためにご自身を聖別された。それは私たちが真理によって聖別されるためである。イエスの完全な服従は、私たちの救いの代価であるばかりでなく、永遠に罪に勝つ力でもある。『しかし、キリストは罪のためにただ一つの永遠のいけにえを献げた。…… 実に、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださったのです』(ヘブル10:12, 14)。

 私たちの主がご自身の人々に対して持つ真の関係は、主があのようなしかたで苦難を受けられたことがいかに理に適ったことであったかを知ると、ますますはっきりしてくる。『聖とする方も、聖とされる人たちも、すべて一つの源から出ているからです』(ヘブル2:11)と書かれている。主イエスと彼に属する人たちとの間の一致は、両者とも同じ一人の父から命を得ているという事実、両者とも同じ聖別にあずかっているという事実の中にある。そこではイエスは聖とする方であり、人々は聖とされる者たちである。聖別は彼らに一致を与える紐帯なのである。『それで、イエスもまた、ご自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難を受けられたのです』(ヘブル13:12)。

 血による聖別が意味するところを理解し経験することを望むなら、何よりも大切なこととして、私たちがまず、聖別とは私たちの主の受けられたすべての苦難を特徴付けるものであり、かつその目的であって、そのことが祝福という報酬とその道とを準備したという事実を把握しなければならない。主の受けた聖別はそれらの苦難を特徴付けるのであって、苦難のうちに聖別の価値と力とがある。私たちの受ける聖別は、それらの苦難の目的であって、その目的が達せられることによって苦難は完全な祝福に変わるのである。

 神は聖なる者として贖いをあらかじめ定めたもうた。神のみこころは、人間を神ご自身の似姿へと聖別することによって罪に勝利し、そのことによってご自身の聖の栄光をあらわすことであった。主イエスがその苦難に耐え、苦難を全うされたのが贖いのためであったように、私たちもまた同じ贖いを目的として神に献身しなければならない。聖霊が、すなわち霊としての聖なる神が、私たちの内に来られてイエスにある贖いを啓示するのであれば、贖いはイエスの目的の中心であり続ける。聖霊という名の通り、彼は聖をもたらす霊なのだ。

 和解と赦しと罪からのきよめとはいずれも計り知れない価値を有するものであるが、それらはすべて聖別のためにある。神のみこころは、貴い血によって印せられている一人ひとりが、その印が神の印であって、その人が神のために完全に分離されていることを表すものだということを知るようになることである。この血がその人を、完全に神のものである生涯へと全面的に献身するように招いているのであり、この血がその人を神の聖にあずからせるという約束であり力なのだ。神の聖にあずかるということは、神がその人のうちにご自身の住まいを設けるということであり、その人の神となるということなのである。

 『イエスもまた、ご自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難を受けられたのです』(ヘブル13:12)。どうか私たちがこのことを受け入れ信じられる者となるように。


どうすれば聖別を得られるか

 一般論としては、この問いに対する答えは、血にあずかっている者はまた聖別にあずかっているのであり、神の目から見ると聖なる者とされている、ということになる。

 人は神と共に歩むことを覚えるに従い、血の聖別する働きを深く経験するようになる。この働きがどこから生み出されるのかを知らないとしてもである。聖別をどのように獲得するのかをまず理解してすべてを説明できるようにならない限り、血が聖別の力を自分の内にあらわすことを祈り求めることはできないなどと、誰も考えてはならない。主イエスは『私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる』(ヨハネ13:7)とおっしゃっているが、それはきよめの儀式、すなわち弟子たちの足を洗うという行為についておっしゃっているのである。主イエスご自身は、主にある人々をご自身の血によって聖別される。小羊を礼拝し、小羊にあずかるために自分を献げる人は、小羊の血による聖別を経験することになるが、それはその人の理解を超越したことなのである。主イエスがそれをその人になされるのだ。

 しかし信者は知識にも成長する必要がある。知識に成長することによってのみ、その人はその人のために用意されている完全な祝福に入ることができるのだからである。私たちは、血の働きと私たちの聖別との間の本質的なつながりについて、探求する権利があるし、その義務もあるのだ。私たちは、聖別ということの有する主要な特性として学んできたことを主イエスがどのようにして私たちの内に実現しようとしておられるのかを、知ることができる。

 聖別を受けるためにはまず最初に必ず、神の裁量に服するために神の所有物として神に向かって分離されなければならないということを、私たちは学んできた。血はまさにこの分離を宣言するのである。罪の力は破壊されたこと、私たちは罪の束縛から解放されたこと、私たちはもはや罪の奴隷ではないこと、それに代わって私たちの自由を血で買い取ってくださった方のものとなったことを宣言するのである。『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、神のものとなった自分の体と自分の霊とで神の栄光をあらわしなさい』(コリント前書6:20=欽定訳)。この言葉は私たちが神の所有物となったことを教えている。神は私たちが完全に神のものとなることを望んでおられるので、私たちを選び、私たちを買い取り、ただ神のために生きるようにと識別の印として血を私たちに与えられたのだ。分離という概念は、私たちがたびたび引用してきた次の聖句に明瞭に表現されている。『イエスもまた、ご自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難を受けられたのです。ですから、私たちも、イエスの受けられた辱めを身に負い、宿営の外に出て、もとに赴こうではありませんか』(ヘブル13:12-13)。この世に属するすべてから外に出るということは、聖なる、汚れなき、罪人から分離された者であるイエスのもつ属性であって、それはまた彼に従うすべての者の属性とならなければならない。

 信者であるあなたは主イエスによってその血を通してすでに聖別されているのであり、主はその聖別の力をあなたが完全に経験することを願っておられる。血を通してあなたのうちに生じたことについて明確な印象を持つように努めなさい。聖なる神はご自身のためにのみ完全にあなたを所有することを望まれる。誰一人、何一つ、あなたに対して何の権限も持たないし、あなたもまたあなた自身に対して権限を持たない。神はあなたをご自身のために取り分けられ、ご自身の印をあなたに付けられた。イエスの血という印をである。その血は、永遠の神の子の命であり、恵みの御座みざに注がれた血であって、それはいつも神の眼の前にある。この血は私たちが罪から完全に贖われた者であることを保証するものであり、私たちが神のものであることをあらわす印である。

 血について思うたびに次のような輝かしい告白があなたのうちに湧き出ずるようにしなさい。「主イエスはご自身の血によって私を聖別された。私を神のための完全な所有とされた。私はまったく神のものである」と。

 私たちは聖別とは分離よりも大きなものであること、分離は聖別の端緒に過ぎないことを見てきた。また私たちは、神の聖なる意志のためにのみ、またその中にのみ生きるために、個人的に献身して心から自発的な明け渡しを行うこともまた、聖別の一部であることを知った。

 キリストの血は、いったいどのようにして私たちの内にこのような明け渡しを実現し、またこのような明け渡しによって私たちを聖別することができるのであろうか。これは難しい問題ではない。私たちはイエスの血に私たちを贖い、罪を消し去る力があることを信じるだけでは十分ではなく、何よりもその力の源泉に今は注意を向けなければならない。

 私たちは、血がこの力を持っているのは、主イエスが進んでご自身を献げられたゆえであることを知っている。血を流すことによって、主はご自身を聖別して完全に神とその聖のために献げられた。このことが血を聖なるものとした。血は聖別する力を持つ。血の中には、キリストの完全な明け渡しが表されている。血は、イエスが父に身を献げたことにより、罪に対する勝利への道が開かれ、そのための力が提供されたことを告げている。私たちは、血にさらに近く近づくにつれ、またその血の注ぎを受けていることを認めて生きるようになるにつれて、「神への完全な明け渡しが罪からの完全な贖いへの道である」という血の宣言の声を私たちは聞くようになる。

 血の声は、単に私たちに思いを伝えたり呼び起したりするために語るのではなく、命を与える神の力をもって語るのである。血は主イエスが持っていたものと同じ視座を私たちの内に与える。イエスがご自身の血によって私たちを聖別したのは、私たちが何の留保もせずに心から自分自身を神の聖なる意志に明け渡すことができるようになるためである。

 しかしこのような献身は、それに先立つ分離の段階を合わせても、なお準備に過ぎない。聖別は、神がその宮を所有してそれをご自身の栄光で充たす時に、初めて完結する。『私はそこでイスラエルの人々と出会う。その場所は私の栄光によって聖別される』(出エジプト29:43=英訳)。聖別が現実に完成を見るのは、神がご自身の聖を、すなわちご自身を、分け与える時なのである。

 ここで血は語る。血は私たちに天国が開かれていると語る。神からの命の力が地にくだった、障害はすべて取り払われた、神が人と共に住まわれると。

 神に直接に接して交わることが、血によって可能となる。血に自分自身を完全に明け渡す信者は、神もまたご自身を与えられ、ご自身の聖をその人のうちに開示されるという保証を得る。

 聖別のもたらすこれらの結果はどんなに栄光あるものであろうか。聖霊を通して、魂は生ける神とのみ交わるようになり、罪に対して敏感な警戒を保ち、また神への恐れによって罪から守られる。

 ただし、罪に警戒して生きるということ自体は、魂を満ち足らせることはない。宮は清く保たれねばならないだけでなく、神の栄光によって満たされねばならない。主イエスに現れている神の聖のすべての美点が、神との交わりのうちに探し求められ、見いだされる必要がある。聖別は、神との一致、神の意志への参入、神の生命の共有、そして神のかたちへの同化を意味するのである。

 『それで、イエスもまた、ご自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難を受けられたのです。ですから、私たちも、宿営の外に出て、御もとに赴こうではありませんか』(ヘブル13:12-13)。そう、彼こそその民を聖別される方なのだ。みもとに赴こうではないか。彼が私たちにその血の力を知らしめてくださると信頼しようではないか。その幸いな効力に自分をゆだねようではないか。主がご自身を聖別されたことによって、その血は、天国を私たちに対して開くために天国にすでに入っているのだ。血は私たちの心を神の御座みざとなし、神の恵みと栄光が私たちの内に住まうようになすことができる。そう、宿営の外におられる主のもとに赴こうではないか。イエスに聖別していただくためにすべてのものを進んで手放し別れを告げる者は、決して祝福から漏れることはない。進んでどのような代価を払ってでも貴い血の力を完全に経験したいと望む者は、イエスご自身からその血による聖別を受けることができると確信することができる。

 平和の神があなたを完全に満ち足らせてくださるように。アーメン。



| 総目次 | 緒言と目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |