第 九 章  血 に よ る 勝 利



『彼らは小羊の血と、自分たちの証しの言葉とによって、この者に勝ち、
死に至るまで命を惜しまなかった。』
黙示録12:11


 人を迷わす年老いた蛇と、女の産んだ子との間に、人類の所有権をめぐって何千年にもわたる熾烈な戦いが行われた。『神である主は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で最も詛われる。お前は這いずり回り、生涯にわたって塵を食べることになる。お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」』(創世紀3:14-15)。

 神の国はかつて主権を握っていたが、のちに悪の力が覇権を奪って、戦闘は望みのない趨勢となったと、そのように感じられることがしばしばある。

 私たちの主イエスの生涯も同じようであった。彼がすばらしい言葉と働きを伴って世に来られた時には、すぐにも救いが来るという輝かしい期待が起された。しかし彼の死は、彼を信じていた人々の間に深い失望をもたらした。その時には確かに闇の力が勝利して、その王国を永遠に打ち建てたかのように思われた。

 しかしイエスは死者の中から復活する。このことは、闇の支配者が天から地に落とされたことを示す明白な勝利であった。いのちの主に死をもたらすことによって、サタンはこの死の扉を打ち開くことのできるただ一人の人であるイエスを、彼自身の王国の中に招き入れてしまったのだ。『イエスもまた同じように血と肉とをお持ちになりました。それは、ご自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にするためでした』(ヘブル2:14)。私たちの主が死に臨んで血を流され、あたかもサタンが勝利を収めたかのように見えたその聖なる瞬間に、その敵対者は、それまで彼がもっていた権威を奪われたのだった。

 聖書はこれらの記憶せらるべき出来事の偉大な描写を残している。主要な注釈者たちは、細部は異なるにしても、黙示録12章20章はキリストの昇天に結果としてサタンが天から追い落とされるという一つの場面を描いているという見解で一致している。

 黙示録12章5節7-9節には次のようにある。『女は男の子を産んだ。この子は、神のもとへ、その玉座へと引き上げられた。…… さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその天使たちが竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちもこれに応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落とされた』。

 それに続いて歌声が響き、その言葉が聖書に記録されている。『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々のきょうだいたちを告発する者、我々の神の前で昼も夜も彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。きょうだいたちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とによってこの者に勝ち、死に至るまで命を惜しまなかった。それゆえ、もろもろの天とそこに住む者たちよ、喜べ』(黙示録12:10-12)。

 ここで注意すべきことは、サタンの敗北と天から追い落とされたこととは初めにはイエスの昇天と天における戦闘の結果として描かれているけれども、天に響いた勝利の歌の中では、勝利はまずもって小羊の血に帰せられているということである。小羊の血こそ勝利を獲得した力だったのである。

 黙示録の全巻にわたって私たちは御座みざの小羊を見る。小羊がその座を得たのは、小羊が屠られたゆえであった。サタンとそのすべての権威に対する勝利は小羊の血によるのである。

 私たちはこれまでに血にいくつもの効果があることを見てきたが、今はいかにしてこの勝利が常に小羊の血に帰せられるのかを理解することに努めたい。

 勝利について次の三つに分けて考えてみたい。

  1. 一度限りで完全な勝利
  2. 継続し発展する勝利
  3. 共有される勝利

勝利──一度限りで完全な

 聖書の描写からは、人類の大敵であるサタンがかつてはどれほど高い地位にあったかがわかる。サタンは天の国に入ることを許されており、そこで聖徒たちに対する告発者として、また神の子たちのためになされるあらゆることに反対する者として活動した。

 このことが旧約聖書の中でどのように書かれているかは私たちはよく知っている。ヨブ記には、サタンが神の子たちと共に来て主の前に現れ、主のしもべヨブを試練に遭わせる許可を得ることが記されている。

『サタンは主に答えた。「ヨブが理由なしに神を畏れるでしょうか。あなたは彼のために、その家のために、また彼のすべての所有物のために周りに垣根を巡らしているではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福するので、彼の家畜は地に溢れています。しかし、あなたの手を伸ばして、彼のすべての所有物を打ってごらんなさい。彼は必ずや面と向かって、あなたを呪うに違いありません。」主はサタンに言われた。「見よ、彼のすべての所有物はあなたの手の中にある。ただし、彼には手を出すな。」サタンは主の前から出ていった』(ヨブ記1:9-12)。

 またゼカリヤ書3:1には次のようにある。『主は、主の使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右に立っているサタンとをわたしに示された』。

 一方、ルカによる福音書の中で私たちの主は告げている。『私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた』(ルカ10:18)。のちに受難を前にして心が騒ぐ中で主は言われた。『今こそ、この世が裁かれる時。今こそ、この世の支配者が追放される』(ヨハネ12:31)。

 天の国にサタンがいると聖書に書いてあるのは奇妙に感じられるかも知れないが、このことを正しく理解するには、天の国というのは神とサタンとがいつも近くにいて話をしているような狭い場所ではないことを私たちは思い出す必要がある。否、天の国はいくつもの区画をもつ無窮の空間なのであって、そこは神の意志を世界に実現するために働いている無数の天使たちの群れに満ちている。彼らのうちにあってサタンもまだその居場所を持っていたのである。また聖書の中では、サタンはよく絵に描かれるような黒い気味の悪い姿で登場するのではなく、むしろ光の天使として現れることを、私たちは記憶しなければならない(コリント後書11:14)。彼は幾万もの部下を持つ君主だったのだ。

 サタンは人間の堕落をもたらした時に、世界を彼に向け変えさせ、その支配者となり、世界にあるすべてのものに対して現実の権威を持つに至った。本来は人がこの世界の王となるべく定められていたのである。『神は彼らに言われた。「…… 地に満ちて、これを従わせよ。あらゆる生物を治めよ」』(創世紀1:28)とあるとおりである。サタンは王たる人に勝利することによって、人の王国全体を自分の権威のもとに収め、かつ神がその権威を承認された。もし人がサタンの声に聞き従うならば、人はその結果を引き受けてこの暴君に服する者とならなければならない。そのように神が聖なる意志によって定められたからである。こうすることは、神がその力を誤用されたということでも、やみくもに力を行使されたということでもない。神は常に義を行われたのである。このようにしてサタンはその手に権威を保持することになった。律法にしたがってそれを取り上げられるまでの間は。

 サタンが旧約聖書の四千年間にわたって、天の神の前に現れて聖徒たちを告発し反対し続けることができたのは、この理由によるのである。彼はすべて肉なる者に対する権威を獲得した。サタンが天からその告発者としての地位を永久に追われるのは、彼がその権威の働く圏域である肉において勝利を奪われる時まで待たねばならなかった。そしてこのために、サタンの本丸において彼と戦い勝利を得るために、神の子は肉の姿できたりたまわなければならなかった。

 私たちの主が神のひとり子であるとの公知を受けたのち、『悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた』(マタイ4:1)のも、この理由によるのである。サタンに対する勝利は、主がその試練に対して人間として耐え、抵抗した後にのみ得られるはずのものであったからである。

 しかしこの荒れ野での勝利だけでは十分ではなかった。キリストが来られたのは、『ご自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にするため』(ヘブル2:14)であった。悪魔が死の力を持っていたのは、神の律法に適ったことであった。律法は彼を、囚われ人に対する看守の役に定めたのである。『死のとげは罪であり、罪の力は律法です』と聖書に書かれている(コリント前書15:56)。律法の義の要求が完全に満たされるまで、サタンに対する勝利もサタンが追い落とされることも起こり得なかった。罪人つみびとがサタンの権威から解き放たれるためには、その前に律法の力から解き放たれる必要があった。

 主イエスがこの律法の要求を満たしたのは、その死と血を流すこととによってである。『罪の支払う報酬は死です』(ローマ6:23)、『罪を犯した者が死ぬ』(エゼキエル18:20)。律法は絶えずそのように宣告し続けてきた。神殿における任務、すなわちいけにえの血を流し振りかけるということを通して、律法は和解と贖いがただ血を流すことによってのみ実現されることを予告したのである。

 私たちのための身元保証人として、神の子は律法の下に生まれた。彼は完全に律法に服した。律法の権威のもとからのがれるようにとのサタンの度重なる誘惑を拒絶した。彼は自発的にご自身を献げて罪のための刑罰を身に負われた。受難の杯を拒むようにとのサタンの誘惑に耳を貸さなかった。彼がその血を流した時、彼はその全生命を律法の成就のために献げたのであった。律法が完全に成就された時、罪とサタンの権威は終わりを迎えた。それゆえ死はもはや彼を捕らえておくことができなかったのだ。『永遠の契約の血』によって神は彼を『死者の中から引き上げられた』のである(ヘブル13:20)。そして彼はまた『ご自身の血によってただ一度、永遠の贖いのために聖所に入り』(ヘブル9:12)私たちのために和解を樹立されたのである。

 聖書は私たちに、主が天に現れることによる栄光ある出来事を描く中で驚くべきことを述べている。あの不思議な女に関して次のように書かれている。『女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖であらゆる国の民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へと引き上げられた。すると天で戦いが起こった。ミカエルとその天使たちが竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちもこれに応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落ちされた』(黙示録12:5, 7-9)。それから勝利の歌が次のように続く。『彼らは小羊の血によってこの者に勝った』(同12:11)。

 このミカエルは以前にも、神の民であるイスラエルの側に立って、この世の諸勢力と戦ったことがあることを、私たちはダニエル書(12章)に読むことができる。しかし黙示録にいたって初めてサタンが投げ落とされる。なぜなら小羊の血があるからである。罪に対する和解と律法の成就とがサタンからすべての権威と権利を奪い取ったからである。罪を拭い去って無に帰せしめるという驚くべきわざを天で成し遂げた血は、同じ力をサタンに対しても及ぼした。サタンは今では告発する権利を持っていない。『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のキリストの権威が現れた。我々のきょうだいたちを告発する者が投げ落とされたからである。…… きょうだいたちは、小羊の血によってこの者に勝った』(黙示録12:10-11)。


勝利──継続し、発展する

 サタンは地に投げ落とされたので、天における勝利もまた地において継続されなければならない。勝利の歌の中で『きょうだいたちは、小羊の血によってこの者に勝った』(黙示録12:11)と歌われているが(原文での主語は autoi 「彼ら」)、これは直接には前節で言及された兄弟たちを指す言葉ではあるものの、天使たちの勝利についても含意されている。天における勝利と地における勝利とは同時並行的に進行しているとともに、同じ血という根拠の上に立っているのである。

 神のみわざが行われるに当たって天と地の間に相互性が存在することは、ダニエル書の記述からも分かる。

『彼(幻の中に現れた御使みつかい)は私に言った。「ダニエルよ、恐れるな。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだった最初の日から、あなたの言葉は聞かれているからだ。私はあなたの言葉のゆえにやって来た。ペルシアの王国の天使長が私の前に二十一日間立ち塞がったが、見よ、偉大な天使長の一人ミカエルが私を助けるために来た。」そこで、私はペルシアの王たちのもとにとどまった。』(ダニエル10:12-13)

 ダニエルが祈ると同時にその御使は立ち上がった。天における三週間の戦闘は地における三週間の祈りと断食に並行していた。この地における戦いは、天の不可視の領域における戦いに対応している。ミカエルとその配下の天使たちは、地上における兄弟たちと共に、小羊の血によって勝利を得たのである。

 黙示録12章においては、私たちは戦いが天から地へと移されたのを見る。天からの声が次のように宣言している。『「地と海には災いあれ。悪魔は怒りに燃えてお前たちのところへくだって行った。残された時が少ないのを知ったからである。」竜は、自分が地上に投げ落とされたと知ると、男の子を産んだ女の後を追った』(黙示録12:12-13)。

 この女とは、そこからイエスが生まれた神の教会の象徴である。悪魔はイエスにもう手を下すことができなくなったので、その教会を迫害したのである。主の弟子たちと最初の三世紀間の教会は実際にこのことを経験した。何十万人ものクリスチャンを殉教者として殺害するという血の迫害によって、サタンは最大限の力を振り絞って教会を背教に至らしめようとし、あるいは絶滅に追い込もうとした。『きょうだいたちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とによってこの者に勝ち、死に至るまで命を惜しまなかった』(黙示録12:11)という言葉はこれらの殉教者たちに完全に当てはまる。

 迫害の諸世紀の後に、平和と地上的繁栄の諸世紀が続いた。サタンは力ずくで戦うことには失敗したけれども、世の好意を勝ち取ることによってかえって大きな成功を収めた。教会の中のあらゆるものが世に従うことで暗さを増していき、ローマ教会の背教は中世の時代に頂点に達した。しかしそれにもかかわらず、これらのすべての時代を通して、周囲の悲惨さのうちにあって信仰の闘いを戦う多くの人々があった。こうした人たちが主を敬愛しあかしすることによって、『きょうだいたちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とによってこの者に勝ち、死に至るまで命を惜しまなかった』という証言がしばしば再確認された。

 この秘められた力によって、サタンの権威は宗教改革を通して打ち破られた。『彼らは小羊の血によってこの者に勝った』。『キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。神はこのイエスを、血に対する信仰を通しての和解の供え物とされました』(ローマ3:24-25)という栄光の真理を発見し、体験し、宣べ伝えることによって、改革者たちは驚くべき、力ある、栄光に満ちた勝利を手にしたのである。

 宗教改革の日々以降、教会は、小羊の血に栄光を帰するにしたがって、死に対する勝利を得させる新しい命を吹き込まれてきた。そう、サタンの座が何千年にもわたってゆるぐことのなかった最も遠い異教徒の中でさえ、小羊の血はサタンの力を滅ぼす武器となっているのだ。十字架の血による世の罪の贖いとそこに現れた神の無償の赦す愛を宣べ伝えることは、最も暗い異教徒の心を開き、和らぎをもたらす力である。それによってそのような心もサタンの住み場所から、いと高き者の宮へと変えられるのである。

 この教会に与えられた資産はクリスチャンなら誰でも使うことができる。小羊の血によってクリスチャンはいつでも勝利を手にしている。この血の力が完全な和解と罪からのきよめとをもたらすことを心に確信すると、その確信は悪魔が私たちに及ぼす権威を奪い去り、神の善意に対する全き確信を私たちの心のうちに作り出すのである。罪の力を滅ぼす血の力のうちに生きるならば、心を陥れるサタンの誘惑はやむ。

 小羊の聖なる血が塗られている所には神が住み、サタンは吹き飛ばされてしまう。天においても、地上においても、また私たちの心の中においても、小羊の血は常に前進し続ける勝利を与えるのだ。『彼らは小羊の血によってこの者に勝った』。


勝利──共有される

 私たちは小羊の血によって清められた者に数えられているのであれば、また勝利を共有する者でもあるのだが、このことを真に受け入れるためには次の事実を知っておく必要がある。

戦いなくして勝利はないこと

 私たちは敵の領土に住んでいることを知らねばならない。黙示録で使徒に明かされた天の幻は私たちの日々の生活においても真実なのである。サタンはすでに地に投げ落とされており、彼に残された時間は短いので怒り狂っている。サタンはもはや栄光の座にあるイエスには手が出せないが、イエスにつく人々を攻撃することによってイエスを苦しめようとしている。敵は私たちの想像を超える狡猾さと力とをもっていつも私たちを見張っている。このことを私たちはいつも意識して生きなければならない。彼は私たちをその支配下に収めようとして倦むことがない。彼は文字通りの意味で『世の支配者』(ヨハネ14:30)なのである。彼は世にあるあらゆるものを動員して、教会を主に対する信仰から引き離し、彼の霊すなわちこの世の霊によって満たそうとしているのだ。

 サタンは明らかな罪とされていることへの誘惑を用いるだけでなく、私たちの日常の取引や事業の中に介入していく方法を知っている。彼は私たちの日ごとの食事やお金のやり取りや交渉事の中に取り入ろうとしている。彼は私たちの文化や学問や知識をも支配下に収めようとしている。どんなことにおいても彼は、本来は合法的である物事を、彼の目的のために人を欺く道具にしようとして働いているのだ。

 小羊の血によってサタンに対する勝利にあずかりたいと望む者は、戦う者でなければならない。その人は敵の性質を知悉していなければならない。サタンが容易に人を盲目にし欺いてしまうその狡猾さとはどのようなものであるのかを、その人は聖書を通して聖霊によって教えられなければならない。信者は、この戦いは『肉と血に対するものではなく、支配、権威、この世の主にして闇の世界の支配者、天にいる悪の緒霊に対するものだからです』(エペソ6:12)ということを知らねばならない。死の時まで戦い続けることを覚悟しなければならない。その時にのみその人は、『彼らは小羊の血と自分たちの証しの言葉とによってこの者に勝ち、死に至るまで命を惜しまなかった』という勝利の歌に加わることができるのである。

信仰を通しての勝利であること

 『世に勝つ勝利、それは私たちの信仰です。世に勝つ者とは誰か。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか』(ヨハネ一書5:4-5)。主イエスも言われた。『勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている』(ヨハネ16:33)。サタンはすでに打ち負かされている敵なのである。サタンは主イエスにつく者に対して言う言葉を持たない。

 イエスの勝利を信じないこと、知らないこと、またそれについての自分の確信を疑うことによって、私はサタンが本来持っていないはずの権威をサタンに与えてしまうことになる。それに対して、私が主イエスと共にあることを知っていて、イエスが私の内に住んでご自分が獲得された勝利を保ってくださることを知っているならば、サタンは私に対して何の権威も持たない。小羊の血による勝利こそが私の生涯の権威なのである。

 この信仰だけが戦いにおいて勇気と喜びを与えることができる。敵は怖るべき力を持っていて、一睡もせずに私たちを監視しており、世にあるものを何でも使って私たちを誘惑する方法を知っている──そのことを考えると、この戦いは大変厳しいものであり、このような戦いの中にいつもとどまるということはできない、さらには生きていること自体が不可能だと感じられるかも知れない。私たちがその弱さのままで敵と相対しなければならない、あるいは私たち自身の力で戦わなければならないとするなら、それは完全にそのとおりである。しかし私たちはそんなことをするようにと召されたのではない。イエスが勝利者なのだ。私たちはただ、サタンがイエスによって天から追い落とされたという天上の事実で心が満たされるだけでよいのだ。私たちの心が、イエスご自身がそれによって勝利を得られたその血に対する信仰で満たされる時、またイエスご自身が私たちと共にあってその血の力と勝利とを保ってくださるという信仰に満たされる時、その時に『私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝ってあまりあります』(ローマ8:37)という言葉が成就するのである。

血との交わりによる勝利であること

 信仰は単に私が持っている思想とか確信なのではなく、それは一つの生命なのである。信仰は、神やほかの天にある目に見えない物事に心を直接結び付けるものであるが、しかし何よりも、イエスの血に結び付ける。血の力のもとに自分を置くことなしには、サタンに対する勝利を信じることはできない。

 血の力に対する信仰は、血の力を経験することを求める願いを私の内に起し、血の力の経験の一つひとつが勝利を信じる信仰をより輝かしいものとする。

 神との完全な和解の内に深く身を沈めなさい。それはあなたのものだからである。血がすべての罪からのきよめを保証している。そのことを信じる信仰を生活の中に働かせなさい。自分自身を血によって聖別された者、神に近づけられた者として献げなさい。この信仰をあなたが生きるための養いとし力としなさい。そうすればあなたはサタンとその誘惑に対する完全な勝利を経験することになる。神と共に歩む者は王としてサタンを支配するようになる。

 信者よ、私たちの主イエスは私たちを単に祭司としただけでなく、神のそばで神に代わって支配する王ともされたのである。私たちは王の精神──敵を支配する王の勇気で、心を満たされなければならない。小羊の血は、すべての罪科に対する和解の証拠であるだけでなく、すべての罪の力に対して勝利を与えるという証拠でもあるのだ。

 イエスが復活して昇天し、サタンが投げ落とされたのは、イエスの血が流されたことの結果である。同じように、イエスの血の注ぎは、私たちがイエスと共に復活して彼と共に天国の座に就くという、完全な経験をすることができるように道を開いた。

 それゆえ私はもう一度あなたがたに命じる。あなたの存在全体を開いてイエスの血の力を受け入れなさい。その時に、あなたの生涯は、私たちの主の復活と昇天と地獄の力に対する永続する勝利とを絶えず確認して証しする生涯となり、あなたの心はいつも天国の歌に唱和するようになる。『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。キリストの権威が現れた。我々のきょうだいたちを告発する者が投げ落とされたからである。…… きょうだいたちは、小羊の血によってこの者に勝った』と(黙示録12:10-11)。



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