『この後、私は数えきれぬほどの大群衆を見た。
彼らは …… 玉座と小羊の前に立っていた。彼らは声高らかに言った。
「救いは、玉座におられる私たちの神と、小羊にある。」
…… この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、
その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。』
(黙示録7:9-10, 14)
これらの言葉は、誰も数えることのできない大群衆が天国の栄光の中にいるという、有名な幻の中に出て来るものである。使徒ヨハネは霊の眼で、彼らが神の御座と小羊の前に立っているのを見た。彼らは白い長衣をまとい、手になつめやしの枝を持っていた。彼らは大声で『救いは、玉座におられる私たちの神と、小羊にある』と歌った。その歌に答えて天使たちはみな彼らの見ている前で玉座の前にひれ伏し、礼拝して世々限りない讃美と栄光を神に献げた。
その時、一人の長老が来て、その大群衆と彼らを際立たせている衣とを指してヨハネに問うた。『この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか』と(黙示録7:13)。
ヨハネは答えた。『私の主よ、それはあなたがご存じです』と。
それでその長老は言った。『この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて昼も夜も神殿で神に仕える』(同7:14-15)。
贖われた人々が天国の栄光のうちにある状態についてのこの説明、御座のそばに立つ長老たちの一人が与えたこの説明には、大きな価値がある。この説明が明らかにしているのは、イエスの血は、この罪と争いに満ちた世界での罪人の唯一の希望であるだけでなく、あらゆる敵がすでに征服され尽している天国においても、同じ貴い血が私たちの救いの根拠として永遠に認識されるということである。天国の神を前にしても血がその力を発揮する必要があるということがここから分かる。血は今現在も地上において罪を処理しなければならないが、それだけでなく未来永劫にわたって、血は贖われた者たちが血によって完全に救われているということをあらわし続けるのである。
このことをもっとよく理解するために、私たちは血の注ぎと天国の喜びとの間に真実の生きたつながりがあることを経験することができる。地上において血との真実で密接なつながりを保つことが、信者に、地上にありながら天国の喜びと栄光にあずかることを可能にするのである。
血は天国の喜びを生じさせる。なぜならそれは:
これがこの箇所の中心的思想であることは明らかである。『この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか』と問うた時に、その長老は、この恵まれた者たち、なつめやしの枝を持って御座と小羊の前に立つ者たちはいったい誰なのかという問いに注意を向けようとしている。そして長老自身が与えた答えに表れているように、彼はこの人たちの最も目立つ外見上の特徴が何を意味しているのかを語ろうとしていることに私たちは気づく。この人たちがどこから来たのかという問いに対しては、長老は『この人たちは大きな苦難をくぐり抜けて来た』と答えている。この人たちは誰かという問いに対しては、彼は『その衣を小羊の血で洗って白くした』人々であると答えている。
このことこそ、長老がこの人たちを見分ける特徴として注意を向けているただ一つのことである。このことがこの人々に、彼らが栄光のうちに占めているその場所に立つ権利を彼らに与えている。このことは、すぐ後に続く言葉を見るといっそう明らかになる。『それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜も神殿で神に仕える。玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る』(黙示録7:15)。『それゆえに』──すなわちかの血のゆえに、彼らは御座の前に立つ。彼らがその栄光の場所を得ているのは、小羊の血に負っているのである。血は彼らに天国にいる権利を与える。
天国にいる権利! こんなことが有罪と認められた罪人に対して言われ得るのであろうか。天国にいる権利がある──すなわち天国にいることが正義である──などと言うのではなく、無償の恵みにより罪人に天国に入ることを許された神の憐れみにのみ、栄光を帰するのが正しいのではなかろうか。否、それは正しいことではない。なぜならそのように考えると、血の価値もそれが流されなければならなかった理由も私たちには分からなくなってしまうからである。またそうすると、私たちは自分の罪と神の恵みについて誤った観念を抱き続けることになり、救い主なる主が私たちのために成就してくださった栄光ある贖いを完全に享受するのに相応しくないままとどまる結果になるからである。
サタンが天から地に投げ落とされたことについてはすでに考察してきた。この出来事は、聖なる神はいつでも律法にしたがって行われることを示している。律法と正義によらなければサタンが投げ落とされることもなかったわけであるが、ちょうどそれと同じように、罪人が受け入れられることも律法と正義によるのである。預言者イザヤも述べている。『シオンは公正によって贖われ、その立ち帰る者は正義によって贖われる』と(イザヤ1:27)。使徒パウロも『罪が死に至るまで支配したように、恵みは義によって、永遠の命に至るまで支配する』と書いている(ローマ5:21=英訳)。このために神はそのひとり子を世に送ったのである。天国に入る権利(正義)を持っていると言うことは、恵みを貶めることにはならない。むしろこの権利(正義)を与えたことにこそ、恵みの最高の栄誉があるのだ。
教会においては本来あるべきことではないが、このことを分かっていない教会が時々ある。最近私は、死後に天国に行く希望を持っていると語っている一人の人に、その希望は何を根拠にしているのかと尋ねたことがある。彼は思慮の浅い人ではなかったし、自分の正しさを信じるような人でもなかったが、次のように答えた。「そうですね、私は主を求めていますし、主の意志を行おうと努めていると思います」。そのことは聖なる神の裁きの座の前では役に立たないことを私が告げると、その人は神の憐れみに訴えようとした。私はその人に、あなたは憐れみ以上のものを必要としていると告げたが、その人は、彼を天国に受け入れるものは神の義にほかならないという事実を分かっておらず、聞いたこともないようであった。信仰による義認を説く説教は聞いていながら、永遠の祝福にあずかるためには律法に照らして義と宣告されていなければならないということを分かっていない人がたくさんいるのではないだろうか。
ひとりの若者がいて、その人には学習障害があったが、神の霊に心を照らされてイエスの十字架の意味をよく理解していた。その人の証しは、全く違ったものである。
その人が臨終の床にあって永生への希望について尋ねられた時、彼は、一冊の書物があって、その或るページには彼の犯した罪がたくさん記録されていると話してから、右手の指で左手の掌を指し示して見せた。そこには爪の跡がついていた。それは釘を刺された手を象徴的に表していた。彼は、そこにあったはずの血によって、そのページに書かれているすべての罪が今は消し去られていることを示したのである。小羊の血こそ彼の希望の源泉だったのだ。
小羊の血は、信じる罪人に天国への権利を与える。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』(ヨハネ1:29)。彼は血を流すことによって罪の罰を負った。彼は私たちの代わりにご自身を死に渡した。彼はご自分の命を多くの人の身代金とした。今、私たちの主の血は、私たちの身代わりとして、私たちの罪の罰として、実際に流されたのである。今、神の義は、その血が罰と服従を命ずる律法の要求をすべて成就したことを宣言する。神はキリストを信じる罪人は義であると宣言される。信仰とは、キリストが私のためにすべてをなしてくださったことを認めることであって、神の義認とは、律法と正義に循って私には救われる資格があることを、神が宣言されることなのである。神の恵みは私に天国への権利を与える。そして小羊の血はこの権利の保証なのである。私は血によってきよめられているなら、天国への権利を持っているのであるから、何一つ不安なく死に相対することができるのだ。
あなたは天国に行くことを願い望んでいる。では神の御座の前で自分の場所を見いだすことができる者は誰か。その答えを聞きなさい。それは『大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くした』者たちである。しかし天国に行ってから、または死に臨んで、衣を洗うというわけには行かない。ここで地上に生きている間に洗われなければならないのだ。まだ血できよめていただいていないのであれば、天国の希望があるかのように自分を欺いてはならない。イエスご自身がその血であなたをすでに洗ってくださったのだと知るまでは、あえて死と向き合うことをしてはならない。
もし人が何かの権利を与えられていても、その人がそのものを味わい楽しむ能力を持っていないのであれば、その権利にはほとんど意味がない。どんなに高価な贈り物であっても、それを楽しむのに必要な感受性が欠けているのなら何の役にも立たない。そのための心の準備ができていない人たちに天国への権利を与えても、その人たちにとって特にうれしくもないし、そのようなことは神のみわざの完全性と矛盾している。
イエスの血の力は、単に罪人のために天国の扉を開くだけではない。それは神的な方法でその人の上に働くので、その人が天国に入る時には、天国の祝福とその人とがあたかも最初から相互に合致していたかのように感じられるのである。
次の聖書の言葉は、天国の祝福とはどのようなことから構成されていて、それを受けるためにどのような性質が必要なのかについて私たちに教える。『それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜も神殿で神に仕える。玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを打つことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭ってくださるからである』(黙示録7:15-17)。
天国の祝福を構成するのは、神と小羊とにそば近くあって交わることである。「神の玉座の前にいて」「彼らの上に神が張られた幕屋の中で昼も夜も神に仕える」「もはや飢えることも渇くこともなく」という表現はすべて、天国の祝福はもっぱら神と小羊のみから由来することを示している。神と小羊とにお目にかかって言葉を交わすこと、神と小羊とに目を留めていただき、愛し、守っていただくこと、それが祝福なのである。
そして神と小羊とのこのような親しい交わりのために備えられるには、二つのことが必要である。
神の意志との一致がなければ天国について何も考えることができない。二人の者の間に一致がなければ一緒に住むことができるだろうか。そして神は聖なる者であるから、罪人はその罪から清められて聖別されなければならない。さもなければその人は、神の国の幸いに含まれるいかなる要素とも全く不適合な者にとどまらざるを得ない。『すべての人と共に平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、誰も主を見ることはできません』(ヘブル12:14)。人間本性全体が新たにされて、神を喜ばせることを思い、願い、意志し、実行することができる者とならなければならない。単に命じられたことを守るだけの服従としてそれをなすのではなく、本来的な喜びから、それ以外にはなすことも意志することもできない者として、そうしなければならない。聖潔がその人の本来の性質とならなければならない。
小羊の血がそのようになしてくださることを、私たちはすでに見てきたはずである。『御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます』(ヨハネ一書1:7)。聖霊によって公式に和解と赦罪がなされ、生きた信仰によってそれが保たれていれば、血が神の力をもって働いて、罪深い欲望と願望を殺すのである。血は絶えることなく驚くべききよめの力を及ぼす。血によってイエスの死の力が働く。私たちはイエスと共に罪に対して死んだのである。信じて血のそばにとどまることによって、イエスの死の力が私たちの最も内奥にある隠された生にまで入ってくる。血は罪の力を打ち砕き、私たちをすべての罪から清めるのである。
血はまた聖別する。きよめは救いの一部分であって、ただ罪を取り除くものであることを私たちは見てきた。血はこれ以上のことを行う。血は神のために私たちを獲得し、私たちの内面を血を流された時のイエスの内面と同じように変える。血を流すことによってイエスはご自身を私たちのために聖別されたが、それは私たちもまた真理によって聖別されることができるようになるためであった。私たちが喜びをもってこの聖なる血の中に没入する時、神の意志と栄光に対して完全に献身する力、すべてを犠牲にして神の愛のうちにとどまる力が、主イエスによって吹き込まれ、私たちの内に働くようになる。
血は私たちを聖別して、神が私たちを所有してご自身で満たすことができるように、私たちを空にして神に委ねる。神に所有され満たされること、これこそ真の聖潔である。これを小羊の血が実現してくださる。その結果、私たちはこの地上にいながら、言葉を超えた喜びをもって天上の神にお会いすべく備えられるのである。
天国に相応しい者とされるということには、神の意志との一致に加えて、神との交わりを楽しむことに対する願望と能力とが含まれる。この地上においては、血は天国に入るための真の凖備をなす。血は私たちを神のそばまで連れて行くこと、神が臨在される至聖所に入ってそこに住まいを持つ権利を与えられたことを、これまでに見てきた。血が注がれる所には恵みの御座もある。そのような人知を超えた価値を神は血に賦与されていることを見てきた。心が血の完全な働きのもとに自分を置くなら、そこに神がとどまられ、そこで神の救いが実現するのである。
血は、神と小羊──主イエスご自身──と実際に交わることを可能にする。『私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人のうちにとどまる』(ヨハネ6:56)という主の言葉を覚えているであろうか。血の力の全き祝福はイエスとの完全な結合である。働きをそれを行う人格から切り離し、血を主イエスとは別のもののように考えるとすれば、それは私たちの不信仰のゆえである。主イエスこそ血によるきよめを行われるその人なのだ。私たちをそばに引き寄せ、ご自分の血を飲ませるその人なのだ。その血を通してのみ、私たちは天にあるイエスとの、また父との、全き交わりに適合した者とされるのである。
あなたを天国に合わせて形作り、天国の精神を持たせるために何が必要であるのかを、あなたはここに知ることができる。常に恵みの御座に置かれている血が、あなたがたの心の中でその力をあらわし、あなたがたの生涯を神と小羊との断たれることのない交わりに変えるのである。これは永遠の栄光の中での生活の雛型である。この思想をあなたの心の中に定着させなさい。血はすでにこの地上にある心の中に天上の祝福を与えているのである。この貴い血は地上の生と天上の生とを一つにするのである。
私はここまで、長老が贖われた人々について説明したことに基づいて述べてきた。しかしこのことはどの程度、当事者たちの経験と証しなのであろうか。彼ら自身の口からこのことについて聞くことができないであろうか。聞くことができる。彼ら自身が証ししているのだ。引照している箇所にある歌を通して、彼らが大声で歌っているのを聞くことができる。『救いは、玉座におられる私たちの神と、小羊にある』と(黙示録7:10)。主イエスは屠られた小羊として、その血を流した小羊として、御座の間に立っておられる。その姿のままで、イエスは贖われた人々の礼拝の対象なのである。
このことは、人々が歌う『新しい歌』の方によりはっきりと表れている。『あなたは、巻物を受け取り、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、その血により、神のためにあらゆる部族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から私たちを贖い、私たちを私たちの神に仕える王、また祭司となさったからです』(黙示録5:9-10=欽定訳)。
それはまた、この書物の冒頭で使徒ヨハネが天国で小羊のおられる場所について見聞きした後に語った言葉にも表れている。主イエスの名に最初に言い及んだ時にヨハネは次のように声を上げている。『私たちを愛し、その血によって罪から洗ってくださった方に、私たちを王となし、またご自分の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と権威とが世々限りなくありますように、アーメン』(黙示録1:5-6=欽定訳)。
小羊の血の力は、救われた人々に喜びと感謝の賛美を繰り返し思い出させて止むことがない。十字架の死においていけにえが献げられたことによって、イエスはご自身を彼らに与えると共に、彼らをご自身のために勝ち取られた。血は、イエスがなさってくださったことの永遠のしるしであると共に、イエスを動かしてそれをなさしめた愛の証しでもある。血は尽きることなく溢れ出る天上の至福の泉であり続ける。
このことをよく理解するために、『私たちを愛し、その血によって罪から洗ってくださった方』という表現に注目しなさい。私たちはこれまでイエスの血について考察してきたが、この箇所で足を止めたのは初めてである。そしてここには、血が与えるすべての栄光の中でも最も栄光ある一つのものが示されている。それは、彼の血は、彼の愛のしるしであり、愛の大きさを示すものであって、愛を分与する手段であるということである。血が用いられるたびに、またイエスが血の力の経験を心に与えるたびに、イエスの驚くべき愛が新しく湧き上がる。イエスはご自身を私たちのために献げられたのであり、また私たちにご自身を与えられる。ここに彼の神としての、永遠の、終わりのない、測り知ることのできない愛がある。イエスの血の力の完全な、永遠に続く経験とは、この愛を完全に知ること以外ではあり得ないであろう。
『私たちを愛し、その血によって罪から洗ってくださった方に』。この愛はまことに測り知ることのできない愛である。イエスがなされたことでこの愛に動かされたのでないものがあるだろうか。彼はご自身を私たちのために与えられた。彼は私たちのために罪となられた。彼は私たちの代わりに詛いを受けられた。誰がいったいこのようなことを敢えて口にできるだろうか。神がその霊によって私たちに教えられたのでなければ、誰の心にこのようなことが思い浮かぶだろうか。彼がほんとうに私たちのためにご自身を与えられたことを、しかも誰かに強いられてそうしたのではなく、愛に突き動かされて、私たちが永遠に彼と一体になることができるようにと私たちを求める愛に突き動かされてそうされたことを。『しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました』(ローマ5:8)。
それは神の奇跡であるため私たちの感性を超越している。しかし神に感謝すべきかな、私たちがそれを感じ取ることのできる時が来ている。常に直接に愛にあずかる天上の生活を送ることによって、私たちはその愛に満たされ、満ち足りることができる。そう、この地上においてさえ、血についてより正しく知り、より完全に信頼することによって、聖霊が私たちの心に神の愛をより力強く注いでくださると期待することができるのだ。私たちの心が小羊の愛で満たされるのを妨げることができるものは何もない。天上において見たように、この地上においても私たちの口が小羊への賛美で満たされるのを妨げることができるものは何もない。血の力の一つひとつの経験がますますイエスの愛の経験となっていくであろう。
血という言葉をあまり強調するのは良くないと言われてきた。なぜならそれは品がなく聞こえるし、同じ思想をもっと現代的な言い方や思考習慣にかなう方法で表現することもできるはずだからというのである。
私はその見解には同意しないとはっきり言わなければならない。私はこの言葉を、ただヨハネからではなく、主ご自身から受け取っている。私は、この言葉が神の聖霊によって選ばれたものであって、命を与えられ、永生の力で満たされ、私たちの理解を超越した祝福を与える力を持っていると確信している。自分の思考習慣に合った表現に変えようとすると、翻訳に伴うあらゆる不完全さを免れない。『霊が諸教会に告げること』を知り経験しようと望む者は、言葉が天上から永遠の生の喜びと力とを随伴する言葉として与えられたままに、信仰によって受け入れる。『あなたの血』および『小羊の血』という言葉は、神の栄光の住まいである至聖所の中に、『新しい歌』の喜ばしい歌詞と共に永遠に響き渡るであろう。
小羊の血を通して与えられる天国の喜びは、二心なく血の力に頼る者だれもにとっての取り分である。それはまた天国で御座の周りにいる群衆の中に加わるに相応しい者となっただれもが受ける取り分である。
私たちは天国にいる者たちが血について語っていること、歌っていることを学んできた。私たちに伝えられているこれらの言葉が、主が意図されたとおりの効果を私たちの内に生み出すように祈ろうではないか。天国の生活を現実に生きるには、血の完全な力のうちにとどまることが必要である。血は私たちに天国に入る権利を与える。
血の清める力は、私たちを情欲と罪の力とから解放する。そして私たちを聖なる神の光と命の交わりのうちに保つ。血は天国における讃美の歌を吹き込む。血は、私たちを愛され、私たちのためにご自身を与えられた小羊の血なのであるから、血は彼が私たちのためになしてくださったことについて語るだけでなく、すべてをなしてくださった彼ご自身について語る。血において私たちは最も完全に彼の分け前にあずかる。血がなしてくださることを完全に経験するために、信仰によって自分自身を献げなさい。そうすればすぐにその人は幸いな讃美と愛とに満ちた生活への入り口を見いだすであろう。そしてその生活よりもまさるものは天国のみなのである。
この生活は、あなたと私のためのものである。十字架においてだけでなく、御座においても、血がただ私たちの栄光となるように。小羊の血の生ける泉の中に、深く飛び込もうではないか。血の働きに対して心を広く開こうではないか。永遠の大祭司ご自身が洗い清めによって私たちにその血を適用してくださる。この洗い清めがいつでも与えられていることを堅く信じようではないか。私たちの心の中にこの血の力を経験しないものが何一つなくなるように、燃える心をもって祈ろうではないか。かの大群衆の歌に喜ばしく声を合わせようではないか。『あなたは、その血により、神のために、私たちを贖った』と(黙示録5:9)。この人たちはこのこと以上に栄光あることを何一つ知らないのだ。
どうか私たちの地上の生涯が本来あるべき生き方、すなわちこの主に献げる永遠の歌となることができるように。『私たちを愛し、その血によって罪から解放してくださった方に、私たちを王とし、またご自分の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力とが世々限りなくありますように、アーメン』(黙示録1:5-6)。