『血を必ず携えて行きます』(ヘブル9:7)
神は私たちに聖書の中の多くの箇所でさまざまなしかたで語られているが、その声はいつも同じ──同じ神の言葉である。
そうであるから、聖書は一つの全体として取り扱う必要があり、そのさまざまな箇所で与えられている真理についての証言を受け入れることが肝要である。そうすることで私たちは、それぞれの真理が神の心の中でいかなる位置を占めているのかを知ることができ、他の何よりも注意を注がなければならない聖書の基本的真理を見出すことができる。これらの真理は、神の啓示の新しい段階とともに立ち現れ、時代が変わっても不変にとどまる。また真理はそれ自身の重要性についての示唆を含んでいる。
以下の緒章における私の目的は、イエスの血の栄光の力と私たちに約束されている驚くべき祝福とについて聖書がどのように教えているかを示すことである。私の説明の根拠を示すために、また贖罪の力としてのイエスの血の測りがたい栄光の証明を得るために、何よりも読者に求めたいことは、聖書そのものにあたることである。神がご自身を啓示された記録として聖書にあたるならば、私たちは神が最初から最後まで血に固有の場を与えていることを知ることができる。
聖書の中で創世記から黙示録に至るまで一貫して明確な視座から取り扱われている概念は、血という言葉で表されるものの他にはない。
したがって私たちの研究は、聖書が血について、
それぞれどのように教えられているかという問題に向き合うことになる。
血についての最初の記録はエデンの門に始まるが、私はエデンの秘義について聖書に書かれていないことまで詮索することはしない。
しかし血がアベルのいけにえに関係していることは明確である。アベルは主に対する供え物として羊の群れの中から初子を携えてきた。そこで聖書に記録されている最初の礼拝の行為として血が流されたのである(創世記4:4)。ヘブル11:4を見るとアベルは信仰によって神に認められる犠牲を献げたのであって、それによって聖書の記す信仰者の系譜の最初に彼の名前が現れることになった。『信仰によって、アベルはカインにまさるいけにえを神に献げ、それにより正しい者であると認められました』。すなわちアベルの信仰と神の喜びとが犠牲の血によって堅く結ばれているのである。
後に与えられた啓示の光によって見ると、人間の歴史の最初に与えられたこの証しが実に深い意味を持っていることが分かる。血なくしては神に近づくことができないこと、信仰による神との交わりもあり得ないこと、神の好意を受けることもできないことを、それは示しているのである。
続く十六世紀の期間について聖書はあまり語っていない。その後に洪水がやってきた。それは神が人類の世界を滅ぼすことによって罪に対する裁きを示したものである。しかし神はその恐るべき水の洗礼から新しい大地を造り出された。
しかしこの新しい大地は、血による洗礼も受けたことに注意する必要がある。ノアが方舟を出て最初に行なったことは、神に燔祭を献げることであった。世の初めにおいてアベルがそうであったように、新しい世の初めにおけるノアもまた、血なしには神とつながることはできなかったのである。
しかし罪が再び蔓延した。そして神は地上に神の国を打ち立てるために全く新しい基礎を据えられた。神はアブラムを召され、イサクを奇跡によって誕生させることで、神に仕える民を選ばれた。しかしこのことも、血を流すことなしには達成されなかったのである。アブラハムの全生涯の中で最も厳粛な時がそれにあたる。
その時までに神はすでにアブラハムと契約を結ばれ、アブラハムの信仰は徹底的に試みられ、彼はその試練に耐えたのだった。
『およそ百歳となって、自分の体がすでに死んだも同然であり、サラの胎も死んでいることを知りながらも、その信仰は弱りませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現される力も、お持ちの方だと確信していたのです。だからまた、「それが彼の義と認められた」のです』(ローマ4:19-22)
彼は義と認められていた、ないしは義が彼のものと認められていたのである。『聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります』(ローマ4:3)。にもかかわらずアブラハムは、約束の子であるイサクはまったく神のものであって、死によって初めて真に神に献げられたものとなることができるということを学ばなければならなかった。
イサクは死なねばならなかった。アブラハムにとってもまたイサクにとっても、ただ死によってのみ利己的生からの解放が与えられるのである。アブラハムはイサクを祭壇に献げねばならなかった。それは自発性にゆだねられる命令ではなかった。それは神の真理の啓示であった。神に対して真に聖別された生涯はただ死によってのみ可能になるのである。それゆえ『信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。神はアブラハムに、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われました。アブラハムは、神が人を死者の中から復活させることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいました』(ヘブル11:17-19)。
しかし実際にはイサクが死んで死者の中から甦るということは不可能であった。罪のゆえに死が彼を決して放さないからである。『アブラハムが目を上げて見ると、ちょうど一匹の雄羊がやぶに角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕らえ、それを息子の代わりに焼き尽くすいけにえとして献げた』(創世紀22:13)。こうしてイサクは助かり、雄羊が彼の身代わりとなった。その時にモリヤの山に流された血によってイサクの命は救われたのだった。彼とその子孫は神のみまえに血なしでは生きることができない。その血によってイサクは比喩的に死者の中から甦らされたのである。ここには明らかに身代わりという偉大な教義が現れている。
四百年が過ぎ、イサクの子孫はエジプトでイスラエルの民となっていた。エジプトの軛からの解放を通してイスラエルは国々の中で神の初子と見なされるようになった。『あなたはファラオに言いなさい。「主はこう言われる。イスラエルは私の息子、私の長子である」』(出エジプト4:22)。そしてここでもまた血が必要とされた。神の恵みも、アブラハムとの契約も、迫害者を打ち砕いた神の全能の力も、血の必要性を代替することはできなかったのである。
一つの国民の父となったアブラハム一人のためにモリヤの山で血が成し遂げたことを、今はその国民全体が経験しなければならなかった。イスラエルの人々の家の鴨居に過越の羊の血が注がれ、永遠のおきてとして過越祭が制定された。これらのことを通して、イスラエルの人々は命を得るためには身代わりの死が必要であることを学んだ。『あなたがたがいる家の血は、あなたがたのしるしとなる。私はその血を見て、あなたがたのいる所を過ぎ越す。こうして、エジプトの地を私が打つとき、滅ぼす者の災いはあなたがたには及ばない』(出エジプト12:13)。彼らが生きることができるのは、彼らのいる所で命の血が与えられ、それが注がれることによってのみ可能となるのである。『信仰によって、モーセは、滅ぼす者が初子たちに触れることのないように、過越を行い、血を塗りました』(ヘブル11:28)。
三ヶ月後、この教義は驚くべきしかたで確定された。イスラエルはシナイに到達し、神は彼らに契約の基礎として律法を与えられたのである。今この契約が樹立される必要があった。そしてそれは、ヘブル9:7にあるように、血を携えることなしにはありえなかった。モーセはまず、この契約の神の側を代表する祭壇に、ついで契約の書に、犠牲の血を注ぎかけた。それから民に、次の宣言をもって血を注ぎかけた。『これは、主がこのすべての言葉に基づいてあなたがたと結ばれる契約の血である』(出エジプト24:8、ヘブル9:19-20)。
この契約はその血の中に基礎と効力を有していたのであり、その血によってのみ神と人とは契約の関係に入ることができる。エデンの門前で、アララト山で、モリヤの山で、またエジプトにおいて予示されていたことが、いまシナイにおいてこの上なく厳粛に確定された。血によらずしては罪ある人がきよい神に近づくことはできないのである。
しかし、シナイにおける場合とそれ以前の場合とでは、血が適用されるしかたに明らかな相違が存在する。モリヤにおいては血が流されることで命が救われた。エジプトにおいては血は鴨居に塗られていた。しかしシナイにおいては、血は人々の上に注がれた。すなわち両者は直接に接触しているのであって、血の適用はさらに効力あるものとなっている。
この契約が成立した直後に次のような命令が与えられた。『彼らに私のために聖所を造らせなさい。私が彼らの中に住むためである』(出エジプト25:8)。民は契約の神が彼らの間にとどまることによる恵みをすべて味わうはずであった。その恵みにより、彼らは神の家の中で神を見いだし、神に仕えることができるはずであった。
神の家の造営とそこにおける奉仕とについて、神は限りない細心さをもって指示を与えられた。今あなた自身がその宮の中にいるところを想像してみなさい。あなたは血がその中心にあり、すべてを支配する原理となっていることに気づくであろう。天の神の地上の住まいとして建てられたこの宮の入口に近寄ってみなさい。まず目に入るものは燔祭を献げる祭壇である。そこでは朝から夕まで途絶えることなく血が注がれるのである。聖所の中に入ってみなさい。そこで最も目を引くものは、香を献げる純金の祭壇である。この祭壇にも絶えず血が注がれる。その聖所の向こうに何があるのかを聞いてみるならば、あなたはそこが神の住まわれる最も聖なる場所であることを教えられるであろう。神はそこにどのように住まっておられ、どうすれば神に近づくことができるのであろうか。それは、血を携えることなしには不可能である。一年に一度だけ、大祭司が一人だけでそこに入って神を礼拝し、神の栄光がとどまっている純金の御座に血を注ぐのである。その礼拝における儀式の極点は血の注ぎなのである。
あなたがさらに問いを重ねても、あなたはいつでも、何事においても血が唯一必要なものであることを教えられるであろう。神と交わる道はただ血を通る他はない。家や祭司を聖別するにあたっても、子供の誕生にあたっても、罪の最も深い悔い改めにおいても、いと高き祝祭においても、そのほか何事においてもそうなのである。
このおきてはその後十五世紀にわたって、シナイにおいて、荒れ野において、シロにおいて、またモリヤの山において継続された。そして、我らの主がすべてを成就するために来られた。主が来られたのは、これらすべての影と型とに対してその実体をもたらすことによってそれらを廃止し、霊と真理とによるきよき神との交わりを樹立するためであった。
イエスの到来とともに古いものは去り、すべてが新しくなった。イエスは天の父から出た者であるので、父に至る道を天の言葉で私たちに教えることができる。
血を携えなければならないという思想は旧約聖書に由来するものであるかのように言われることがある。しかし我らの主イエス・キリストはどのようにおっしゃっているであろうか。まず、洗礼者ヨハネがイエスの到来を告げた時に言った言葉を思い出しなさい。彼はイエスが二つの任務を果すことを告げた。『世の罪を取り除く神の小羊』、そして『聖霊によって洗礼を授ける人』であると(ヨハネ1:29, 33)。神の小羊の血が注がれることは、聖霊が注がれることに先立たねばならなかった。旧約聖書に記された血の任務がすべて成就された時に初めて、聖霊はその任務を始めることができるのだ。
主イエス・キリストは、彼が世に来た目的が十字架上での死であることをはっきり語られた。死は彼がもたらす贖罪と生命のための手段であった。彼はその死において血が流されなければならないことを明確に告げておられる。
カペナウムのシナゴーグでイエスは、自分は生命のパンであって、世に命を与えるものであると語られた(ヨハネ6:33, 35)。彼は四回も強調している。『人の子の血を飲まなければあなたがたの内に命はない。…… 私の血を飲む者は誰でも永遠の生命を得る。…… 私の血はまことの飲み物だからである。…… 私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる』と(ヨハネ6:53-56)1。こうして主は根本的な真理をあらわされたのである。それは、彼は神の子であって、私たちの失われた生命を私たちに回復するために来られたのであり、そのためには、彼が私たちのために死ぬこと──私たちのために彼の血が流されて私たちがその血の力にあずかる者となること──の他に道はないという真理である。
主は旧約聖書における奉献の教理を確証している。それは、人は他者の死を通してしか生きることができないこと、そして復活によって永遠のものとなった命を受ける、という教理である。
しかしキリストは、私たちのために永遠の生命を獲得しても、それに私たちをあずからせるためには、ご自身の血を流してそれを私たちに飲ませなければならなかった。何と驚くべき事実であろうか、血を携えることなしには永遠の生命は私たちのものとはならないのである。
同じ真理を主はその地上での最後の夜に、同様に印象的な言葉で告げている。彼は、多くの人の身代金として(マタイ20:28)ご自分の命を差し出すという偉大な使命を遂げるに先立って、最後の晩餐の杯を取り、『これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である』(マタイ26:28)と言われた。『血を流すことなしには(罪の)赦しはありえないのです』(ヘブル9:22)。罪が赦されなければ命はない。しかしキリストは血を注ぐことによって私たちのために新しい生命を獲得された。彼の血を飲むということによって彼は自分の命に私たちをあずからせる。贖いとして注がれた血は、私たちを罪の重荷から、また罪の結果としての死から解放する。信仰によって私たちが魂の中に血を受け入れる時、血は私たちに彼の命を与える。キリストの血はまず私たちのために注がれ、そして私たちに与えられる。
復活と昇天の後は、主はもはや使徒たちによって肉に従って知られることはなかった。『それで、私たちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。かつては肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません』(コリント後書5:16)。今や、象徴的なものはすべて過ぎ去り、象徴によって表されていた深い霊的真理そのものが覆いを除かれて現れている。
しかし血は覆われてはいない。血は今なお目立つ場所を占めている。神殿で執り行われていた奉仕は無益なものとなったこと、キリストが現れたため、神はそれを廃止する意向であることを明らかにするためにヘブル人への手紙は書かれた。
この書簡では、他のどの聖書の箇所よりも、この神の目的が真に霊的なものであることを聖霊が強調しておられるのであるが、それと同時に「イエスの血」という表現に新しい価値が与えられてもいる。
私たちの主に関しては次のように記されているのを読む。主は『ご自身の血によってただ一度聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです』(ヘブル9:12)。
『まして、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか』(同9:14)
『それで、きょうだいたち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています』(同10:19)。
『あなたがたが到達したのは …… 新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血より優れたことを語る注がれた血です』(同12:22, 24)。
『イエスもまた、ご自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難を受けられたのです』(同13:12)。
『永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神』(同13:20)。
これらの言葉によって聖霊は、私たちを完全に贖う力の中心に血があることを教えている。血を携えなければならないことは、旧約と同様、新約にも当てはまるのである。罪のためにその死において流されたイエスの血だけが、神の側から罪を覆い隠すことができるのであり、かつまた私たちの側から罪を取り除くことができるのである。
使徒たちの書簡の中にも同じ教えを認めることができる。パウロは『キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました』と書いている(ローマ3:24, 25)。さらに『それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです』と書いている(同5:9)。
コリントの人々に対しては彼は『私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか』と訴えている(コリント前書10:16)。
ガラテヤの人々に宛てた手紙ではパウロは十字架という言葉にこれと同じ意味を持たせているが(ガラテア6:14)、コロサイ書の中ではこれら二つの言葉を結び付けて『十字架の血』について語っている(コロサイ1:19=原書では1:20)。
エペソの人々に対しては、彼は『私たちはこの御子において、その血による贖いを得ている』こと(エペソ1:7)、『あなたがたはキリストの血によって近い者と』せられたこと(同2:13)を思い起こさせている。
ペテロはその手紙の読者を『イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎを受けるために選ばれた人たち』と呼んでいる(ペテロ前書1:2)。彼らが贖われたのは『キリストの尊い血による』からである(同1:19)。
またヨハネはその『子たち』に『御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます』と保証している(ヨハネ一書1:7)。そして『この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とによって来られたのです』と明言している(同5:6)。
このように血を崇めることを通して、使徒たちは皆、キリストによる永遠の贖いの力が血によって完全に実現されたこと、そしてそれを受けて聖霊がそれを行使してくださるという事実を認めているのである。
しかしこれは地上の言葉による表現に過ぎないのではないだろうか。天国ではどのように語られるのであろうか。将来に約束された栄光から私たちは何を学ぶのであろうか。
神は黙示録の中で、その御座の栄光と御座を取り巻く人々の祝福について描写しておられるが、その黙示録の中でも血は目立つ場所を与えられていることに注目することはとても大切である。
記者のヨハネは、その御座に『小羊が屠られたような姿で立っている』のを見ている(黙示録5:6)。長老たちは小羊の前にひれ伏して次のような新しい歌を歌った。『あなたは …… ふさわしい方です。あなたは、屠られて、その血により …… 人々を贖われたからです』(同5:9)。
後に彼が誰も数えることができないほどの大群衆を見た時には、それがどのような人たちなのかを長老の一人が次のように語っている。『この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである』(同7:14)。
さらにのち、サタンが打ち負かされた時にヨハネは勝利の歌の一節に次のような言葉を聞いた。『きょうだいたちは、小羊の血によってこの者に勝利した』(同12:11)。
ヨハネが見たように、天の栄光の中で神の偉大な目的が歌われる時には、あるいは神の子の驚くべき愛が、その贖いの力が、また贖われた人々の喜びと感謝が歌われる時には、必ず小羊の血という言葉が伴っているのである。聖書の最初から最後まで、すなわちエデンの門が閉ざされてから天のエルサレムの門が開かれるまで、そこには一本の黄金の糸が走っている。すなわち血が、始めと終わりを一つに結び合わせ、罪が破壞したものを栄光のうちに再建するのである。
聖書において血がこれほどまでに輝かしい位置を占めている、その事実によって主が私たちに何を教えようとしておられるのかを悟ることは難しくはない。
罪に勝利し罪人を救うために、神が用意された方法と思想はただキリストの血のみである。そう、それはあらゆる理解を超えることなのである。
恵みの奇跡はすべて血の中に集約されている。
これらはいずれも、イエスの尊い血から発して私たちを照らす一筋の奇跡の光なのである。
神が人というものを思われた最初から、つまり世界の基礎が据えられる以前から、神の心の喜びのもとはイエスの血にあった。私たちもまたこの同じ血の力を誇り、その中を歩むことを学ばない限り、その心は安まることはなく、救いを見いだすこともない。
イエスの血が重要であるのは、悔い改めて赦しを求めている罪人にとってだけではない。すでに贖われている人々も同じように血を慕い求めるはずである。なぜなら宮の中の神の恵みの御座ではいつでも血の力が明らかに現れているからである。このように血を絶えず霊的に認めて生きることだけが、私たちの心を神に近づけるのであり、また心を神の愛と喜びと栄光で満たすことができるのである。
イエスの血は最大の永遠の神秘であり、神の知恵の最深の奥義である。その意味を簡単に理解できると思ってはならない。神はそれを人類に与えるまでに四千年の年月を要するとされたのである。私たちもまた、血の力を知識として把握したいと思うなら、時間をかけなければならない。
しかし時間をかけても、犠牲的な困難を伴わないなら十分とは言えない。犠牲の血というものはいつでも生活を献げることを要求する。イスラエルの人には罪の赦しを公式に受けるための血が定められていたが、その血はその人の生活の一部を犠牲として献げることなしには与えられることはなかった。主イエスは、私たちが自分の生活を犠牲として献げなくても済むようにご自身の命を献げられたわけでも、血を流されたわけでもない。決してそうではない。イエスがそうされたのは、私たちが自分の生活を犠牲として献げることができるようになるため、またそれを望むようになるためであったのだ。
イエスの血の隠された価値は自己犠牲の霊にある。それによって血は真に人の心に働きかけて、人の心にイエスと同じような自己犠牲の霊を作り出すのである。私たちは自分自身と自分の生活とを強いて新しい生活の力にゆだねることを学ばねばならない。この新しい生活力こそ血が準備したものなのである。
私たちが聖書を通して罪と現世的精神と自己の意志とを知るために時間をとり、これらのものから分離するなら、その時に血の力が明らかになるであろう。なぜなら血こそがこれらのものを取り去るものだからである。
私たちが祈りと信仰において自分自身を神に献げるなら、私たちは自分の考えや生活を自分の獲得物のようには思わなくなり、すべては神が与えられたものであることを知るようになる。その時に神は、血によって私たちのために準備されている栄光と祝福に満ちた生活を私たちに開示してくださるのである。
確信をもってイエスに依り頼みなさい、血が獲得した祝福は私たちのものとなる。大祭司なるイエスから血を切り離してはならない。なぜならその大祭司が血を注がれたのであり、大祭司は血を適用するために生きておられるのだからである。
私たちのためにひとたび血を流されたイエスは、必ずその力を分け与えてくださる。そうしてくださると彼を信じなさい。彼があなたの目を開いてくださり、深い霊的洞察を与えてくださると信じなさい。彼があなたを教えて、血について神の目で見ることができるようにしてくださると信じなさい。そうしてあなたが見ることができるようになるすべてのものを、彼があなたに分け与えてくださり、あなたのうちに力あるものとしてくださると信じなさい。
彼に他の何ものにもまさる信を置きなさい。その永遠の大祭司たる力を信じなさい。その力によって彼は血のすべての効力をあなたのうちに実現してくださる。それはあなたの全生活が、神の臨在される聖所の中にたえずとどまるものとなるためである。
信者よ、あなたは尊い血を知るに至ったのだから、主の招きに従いなさい。みそば近く寄りなさい。彼から教えを受けなさい。彼から祝福を受けなさい。彼の血があなたにとって霊となり、命となり、力となり、真理となるようにしていただきなさい。
今すぐに、信仰によって心を開きなさい。そしてあなたがこれまでに経験したことがない栄光とともに、高価な血の力ある天的な作用をすべて完全に受け入れなさい。イエスご自身があなたの生活にこれらすべてを実現してくださるのであるから。