『あなたがたが贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものによらず、
傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。』
(ペテロ前書1:18, 19)
血の注ぎは私たちの主の苦難の絶頂である。主の受難に贖いの効力があるのは、血が注がれたことによるのである。したがって信者は、自分が血によって救われたことは恵み深い真理であるとしても、それを受け入れただけで満足してはならない。信者はこのことが意味することを完全に知り尽くすまで進まなければならない。そして明け渡した心の中に血が何を実現しようとしているのかを学ばなければならない。
血の効果は多層的であって、聖書からは以下を読み取ることができる。
これらは別々の祝福ではあるが単一の表現にまとめることができる。それは、血による贖いという表現である。これらの個々の祝福について信者が理解して、それがどのようにして自分のものになるのかを学んだ時、信者は初めて贖いの力を完全に経験することになるのだ。
これらの個々の祝福の詳細を考察する前に、まずイエスの血の力をより一般的なしかたで検討したい。
言い換えれば、イエスの血にこのような力を与えるものは何なのだろうか。ほかの何ものにも存しない力がいかにして血にのみ存在するのであろうか。
この問いに対する答えはレビ記の中に見いだすことができる。『肉なるものの命、それは血にある。私はあなたがたの命の贖いをするために、祭壇でそれをあなたがたに与えた。血が命に代わって贖うのである』(レビ記17:11)。すなわち魂あるいは命が血の中にあるからなのだ。その血が祭壇で神に献げられると、血は贖いの力を持つようになる。
魂あるいは命は血の中にある。それゆえに血はその中に含む命と等価なのである。例えば、羊や山羊の命の価値は雄牛の命よりも低いとされているので(レビ記4章)、羊や山羊の血は献げ物としては雄牛の血ほどの価値を持たないのである。
一人の人の命には、たくさんの羊や雄牛の命以上の価値がある。ならばイエスの血の価値あるいは力を誰が知ることができようか。その血の中には聖なる神の子の命がある。神としての永遠の命がその血に宿っているのだ。ちょうどパウロがエペソの長老たちに与えた指示に見られるとおりである。『どうか、あなた方自身と羊の群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神がご自身の血によって自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命されたのです』(使徒20:28)。
前述のさまざまな効果における血の力とは、神ご自身の永遠の力にほかならない。血の完全な力を経験したいと願っているすべての人にとって、これはなんという栄光であろうか。
しかし、血の力の根拠は、他の何事にもまして、その血が贖いのために神に対して祭壇上に献げられたという事実に存している。流されたものとしての血を思う時、私たちは死を思う。血が、命が注ぎ出されたならば、それは死に至るからである。死は私たちに罪を思い起こさせる。死は罪に対する懲罰であるからである。『罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです』(ローマ6:23)。神はイスラエルの人々に、罪の贖い、あるいは罪を覆うものとして、祭壇上の血を与えられた。その意味は、違反者の罪がいけにえの獣の上に置かれ、いけにえの死が、その上に置かれた罪に対する懲罰として数えられたということなのである。
『罪のおきては次の通りである。罪の賠償の供え物は、燔祭をほふる場所で、主の前にほふらなければならない。これはいと聖なる物だからある。』(レビ記6:25)
このように、血とは、神のおきてを成就するために、神の命ずるところに従って、死にわたされた命なのである。こうして罪は完全に覆われ、贖われたため、罪はもはや違反者のものとしては数えられなくなったのである。彼は赦されたのだ。
しかし主イエスが来られる以前はこれらすべてのいけにえと献げ物は単に型であり影であるに過ぎなかった。イエスの血こそその型が指し示すところの現実なのであった。『神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです』(コリント後書5:21)。
イエスの血はその中に無限の価値を有するものであった。なぜならそれはイエスの魂または命を担うものであったからである。そしてイエスの血が有する贖いの力もまた無限であった。それは、その血が注がれた注がれ方のためである。イエスがその魂を注ぎ出して死にわたしたことは、彼が父の意志に対する聖なる服従によって、自分自身を破られた律法による刑罰に差し出したことなのだ。この死によって単に刑罰が果されただけでなく、律法の要求が満たされ、父なる神に栄光が帰せられたのである。イエスの血は罪を贖い、罪を無力なものとした。イエスの血は罪を取り除き、罪人のために天国の扉を開く、無際限の力を持っているのである。イエスの血は罪人をきよめ、聖別して、天国に相応しい者に変える。
結論として、イエスの血はなぜこのような特別の力を有するのであろうか。それは血を注ぎ出したイエスという人が特別の人格であったからであり、また血の注がれる注がれ方が特別であったからである。それは神の律法を成就し、律法の正当な要求を満たした。それは賠償の血なのであり、それゆえにそれは罪人を贖い、罪人のために、また罪人において、その救いに必要なすべてのことを達成するために十分な力を有するのである。
私たちはその力が成し遂げたことの奇跡を知るならば、その力は同じことを私たちのためにもなしてくださると信じる勇気を与えられるであろう。そのためには、イエスの血の力によって起きたことの偉大な実例を聖書から学ぶことが最善である。
ヘブル書には『平和の神は、羊の大牧者である私たちの主イエスを、永遠の契約の血を通して死者の中から引き上げられた』という言葉がある(ヘブル13:20=著者訳)。
神がイエスを死者の中から甦らせたのは、血の功績によるのである。血なしに神の全能の力が発揮されたわけではないのだ。
イエスは、人類の罪を引き受けて担う者として地上に来られた。そしてただその血を流すことによってのみ、復活を通して人間として甦らされ、永遠の生命を受ける権利を獲得した。彼の血が律法と神の義の要求を満たしたのである。命の血を与えることで、彼は罪の力に勝ち、罪を無効とした。『死の棘は罪であり、罪の力は律法です』(コリント前書15:56)。
死の棘は取り除かれたので、死は力を失った。また悪魔も力を失った。悪魔は死の力を持っていたが、しかし今やイエスと我々に対する全権力を喪失したのである。『子たちはみな血と肉とを持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました。それは、ご自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にするためでした』(ヘブル2:14)。イエスの血は死と悪魔と地獄の力を滅ぼした。『今や(神の計画と恵みは)私たちの救い主キリスト・イエスが現れたことで明らかにされました。キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました』(テモテ後書1:10)。
イエスの血が墓を開いた。このことを信ずる者は、その血と神の全能の力との間に存する密接なつながりを認めるようになるであろう。罪ある人間を取り扱うために神がその全能性を発揮するのは、ただ血を通してのみなのである。神の復活させる力は永遠の生への入口であるが、その入口にはキリストの血が塗られているのだ。キリストの血は死と地獄との力を完全に終わらせた。血の効力はいかなる人間的な思想をも超越している。
ヘブル書9:12には次のように書かれている。『(キリストは)ご自身の血によって、ただ一度、永遠の贖いのために用意された聖所に入られた』(著者訳)。
旧約の幕屋においては、神に公式に面会できるのは垂れ幕の内側でだけであったことを私たちは知っている。人間は誰もこの垂れ幕を取り除くことができない。ただ大祭司がただ一人そこに入ることができたが、それは血を携えてでなければならず、さもなければ彼は生命を失うことになっていた。
『私はイスラエルの人々のうちに住み、彼らの神となる。彼らは、私が主、彼らの神であり、彼らをエジプトの地から導き出し、彼らのうちに住まう者であることを知るようになる。私は主、彼らの神である。』(出エジプト29:45-46)
『主はモーセに言われた。「兄のアロンに告げなさい。決められた時以外に、垂れ幕の内側にある聖所に入り、証しの箱の上にある贖いの座の前に立ってはならない。死なないためである。私は雲と共に、贖いの座の上に現れる。その時にはアロンは罪のいけにえにする若い牡牛一頭と焼き尽くすいけにえにする雄羊一匹を引いて、聖所に入る。』(レビ記16:2-3)
それは、肉に宿って私たちを神から隔てる罪の力の描像であった。肉なる者が神に近づくことがないように、神の永遠の義が至聖所への入口を守っていたのである。
しかし今や私たちの主が、人の手で造った宮ではなく真の宮の中に現れる。イエスは大祭司としてご自分の民を代表してそこに現れ、罪あるアダムの子らのために聖なる方の臨在の前に至る道を願い求める。イエスはかつて『私に与えてくださった人々を、私のいる所に、共にいるようにしてください』と要求された(ヨハネ17:24)。彼は彼を信じる一人ひとりの人に、最も重い罪人にさえ、天国が開かれることを求めるのである。彼の求めは答えられる。どのようにしてか。血を通してである。彼はご自身の血を携えて入られたのだ。イエスの血が天国の門を開いた。
『事実、キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今や私たちのために神の前に現れてくださったのです。それも、毎年自分のものでない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストは、ご自身を何度も献げるようなことはありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から、度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り除くために、ただ一度現れてくださいました。』(ヘブル9:24-26)
したがって恵みの御座が天国に備えられているのは血によってなのである。天国の真ん中に、すべての者の裁き手である神ととりなし手であるイエスとのすぐそばのよく目立つ場所に、聖霊が注がれた血を置くのである。
『生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使の群れ、天に登録されている召し出された長子たちの集団、そしてすべての人の審判者である神と、完全な者とされた正しい人たちの霊と、新しい契約の仲介者であるイエスと、そして、アベルの血よりも優れたことを語る注がれた血に』(ヘブル12:22-24)
この血に絶えず訴えることによってのみ、天国は罪人に対して開かれたままになり、祝福の流れが地に注がれるのである。この血を通して、仲介者たるイエスはそのやむことのないとりなしのみわざを続けられるのである。恵みの御座はその存在をこの血の力に負っている。それでいま私たちは『憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づく』ことができるのだ(ヘブル4:16)。
キリストの血の力は何と素晴らしいことであろうか。それは墓と地獄からの出口を開いたように、天国への入口を開いて、キリストを通して私たちが入ることができるようになったのである。血は下なる暗黒と地獄とを制圧する全能の力を有すると同時に、上なる天国とその栄光を支配する力でもあるのだ。
血は神に対してもサタンに対してもこれほどに力をもって働くのであるから、血がそのために流された目的であるところの人間に対しては、さらに力をもって満ち溢れないであろうか。確かにそのとおりである。
血の驚くべき力は地においてはとりわけ罪人のために現れる。このことはペテロの第一の手紙に強調されている。『知ってのとおり、あなたがたが空しい生活から贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものによらず、キリストの尊い血によるのです』(ペテロ前書1:18-19)。
ここに『贖われた』(lytrousthai; 「買取られること(to be ransomed)」と英訳される)とある言葉には実に深い意味がある。それはとりわけ奴隷が自由の身分へと解放される、ないしは買取られることを意味している。罪人とは、サタンの敵対する力によって律法と罪の詛いのもとに奴隷とされている者のことである。しかし今やあなたは血によって自由の身とされた者と宣言された。血は罪の負債を完済し、サタンと詛いと罪の力を滅ぼしたのである。
この宣言を受け入れた者には、空しい生活、すなわち罪の生活からの真の解放が始まる。贖いあるいは買い取りという言葉には、神が罪人のためになされるすべてのことが含まれるのである。それはまず罪の赦免と聖霊の授与から始まる。『聖霊は私たちが受け継ぐべきものの保証であって、こうして、私たちは神のものとして贖われ、神の栄光をほめたたえることになるのです』(エペソ1:14)。そしてさらに進んでそれは復活による肉体の完全な解放に至る。『同様に私たちも新しい命に生きるためです。私たちがキリストと共に彼の死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。私たちの内の古き人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています』(ローマ6:4-6)。
ペテロがさきの手紙を書いたのは、『イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎを受けるために選ばれた人たち』に対してであった(ペテロ前書1:2)。それは、彼らの心に触れて悔い改めの思いを与え、彼らの内に信仰を起して彼らの魂を生命と喜びで満たしたのは、尊い血であったと告げているのだ。一人ひとりの信者の存在が驚くべき血の力の例証なのである。
そしてさらにペテロは彼らを聖潔へと促すにあたっても、再び尊い血に訴えている。『あなたがたを召し出してくださった方は聖なる方なのですから、あなた方自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」と書いてあるからです』(ペテロ前書1:15-16)。ペテロはこのことに彼らの注意を促そうとした。
自己義認とキリストに対する嫌悪に陥っているユダヤ人と、神を持たない異邦人に対しても、罪の力から解放されるただ一つの方法があった。それはまた罪人たちに日ごとに解放をもたらすことができる唯一の力であった。そうでないわけがあろうか。天国と地獄の両方に力をもって働くことのできる血は、罪人たちの心にも力をもって働くのである。
イエスの血の力に対しては、私たちがどれほど多くを期待しても期待しすぎるということはないのである。
これが三番目の問題である。血の力が私たちの内にもたらそうとしている力ある効果が実現されるためには、どのような条件と環境が必要なのであろうか。
第一の答えは、神の国のどこにでも当てはまるのと同じこと、すなわち信仰を通してということである。
しかし信仰は知識に大きく依存する。もし血が達成できることについての知識が欠けているなら、信仰は何も期待できないし、血が力ある効果を及ぼすということは不可能になる。しかし多くのクリスチャンは、血に対する信仰によって罪の赦しが受けられるという確信を得ただけで、血の力について十分に知ったつもりになってしまっている。
彼らは、神ご自身と同様に神の言葉も尽きることがないということを知らない。彼らはすべての理解を超えた意味と祝福との豊かさを奪われてしまっているのである。
彼らは、聖霊が語られた血によるきよめという言葉は、血がもたらす効果と体験についての部分的な人間的表現に過ぎないことを忘れている。血の効果と体験は、言い尽くせない栄光を伴って人間の心に天国の命を与える力をあらわすのである。血の力についての認識が貧弱であれば、その効果のより深い、いっそう完全な発現は妨げられてしまうのである。
聖書が血について教えていることを見極めようと私たちが努力するなら、血を信じることによって私たちがこれまでに知っていたすべてにまさる偉大な結果が私たちの内に形作られるのを私たちは見ることができる。また将来においては絶えることのない祝福が私たちのものとなるであろう。
私たちの信仰は血がすでに成し遂げたことを知ることを通して強化される。天国と地獄とがともにそのことの証人なのである。神の約束のありあまる豊かさを確信するように鍛錬することを通して信仰は成長する。それだから心から期待しようではないか、私たちが泉にますます深く飛び込むほどに、そのきよめ、力づけ、命を与える力がますます大きな祝福を伴って現れることを。
私たちは水と最も密な関係に入るには水に飛び込む必要があること、水のきよめる力に自らをゆだねる必要があることを知っている。イエスの血は開かれた泉であって、罪とけがれを清めるものであると記されている(ゼカリヤ13:1)。その泉の水は聖霊の力によって天なる宮を通って流れるのである。『川がある。その流れは神の都に、いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。神はその中におられ、都が揺らぐことはない。夜明けとともに、神は都を助けられる』(詩46:4-5)。信仰によって私はこの天国の川に触れられる場所に身を置く。私はその川に身を委ね、水が私を覆い、私を通って流れるままに任せる。私がその泉に身をひたすと、泉は私を清め、力を与えずにはおかない。私は単純な信仰によって、目に見えるものから目をそむけ、救い主の血を表すその霊的な泉に飛び込まなければならない。血が私のうちに幸いな力となって現れると確信しなければならない。
それゆえ幼子のような、執拗な、期待に満ちた信仰をもって、驚くべき血の力のますます豊かになっていく経験に、私たちの心を開こうではないか。
しかし、血がその力を発現するためには信仰の他にも必要なものがあるのではないだろうか。さきの問いに対する第二の答えがある。聖書は、血に対して聖霊を、最も近いものとして結び付けている。聖霊が働くところにのみ血の力があらわされるのである。
ヨハネの第一の手紙を見ると次のようにある。『地に証しをもたらすものも三つあり、霊と水と血です。この三者の証しは一致しています』(ヨハネ一書5:8=欽定訳)。水は悔い改めのバプテスマを示し、罪を捨てたことを証しする。血はキリストにおける贖罪を証しする。聖霊は水と血に力を与える者である。霊と血とはヘブル書においても結び付けられている。『まして、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を清めないでしょうか』(ヘブル9:14)。血がその価値と効力をもつのは、主にある永遠の霊によっていたのである。
血が天国と人間の心とにおいて生ける力を有するのはいつでも聖霊を通してなのである。血と霊とは常にともに証しをなす。
信仰において、またみことばの説教において、血が崇められているところでは必ず霊が働き、また霊が働くところでは必ず霊は心を血に導くのである。血が流されなければ聖霊が与えられることもなかった。霊と血との生ける結合は断たれることはない。
血の力が完全に私たちの心に現れるためには、私たちは自分を聖霊の教導のもとに置かなければならない。このことはよく注意すべきである。『弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる』(ヨハネ14:26)。
私たちは聖霊が私たちの内におられることと、私たちの心のうちにそのみわざを行い続けていたもうことを、堅く信じなければならない。イエスは祈られた。『私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります』(ヨハネ17:22-23)。
私たちは、神の霊が生ける種子として私たちの内に住んでいることを知っている者として生きなければならない。そうすれば神は血のすべての隠された力ある効果を完全に発現させてくださるであろう。『キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっておられます。イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう。神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです』(ローマ8:10-11, 14=英訳)。私たちは聖霊に導いていただかなければならない。聖霊を通して血は私たちをきよめ、聖別し、神に結び付けるのである。
『聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである』(ペテロ前書1:16)という神のきよめへの招きの声を聞くように使徒が信者たちを励まそうとした時には、彼は続けて信者たちに、彼らがキリストの尊い血によってすでに贖われている者であることを思い起こさせている。
人々は自分がすでに贖われていることとその贖いが意味するところを知らなければならないが、何よりもそれが『銀や金のような朽ち果てるものによらず』──そうしたものには生ける力はない──『キリストの尊い血によるのです』(ペテロ前書1:18-19)ということを知らなければならない。
完全な贖いの力としての血がどれほど尊いものであったかを正しく知ることが、新しいきよめられた生活への力となると彼は述べている。
愛されているクリスチャンたち、このことは私たちにも当てはまるのである。私たちは尊い血によって贖われていることを知らなければならない。私たちが血の力を経験できるようになるためには、贖いと血とについて知らなければならない。
贖いとは何であるのか、その贖いを獲得するために働く血の力と尊さとは何であるのか、それを完全に理解すればするほどに、私たちはより完全な祝福と幸いとを経験するようになる。
尊い血による贖いについてのいっそう深い知識に導いてくださる聖霊に、自分をゆだねようではないか。
そのためには二つのものがなければならない。一つは、必要に気づく深い感覚、もう一つは、血をもっと理解したいという切望である。血が流されたのは罪を取り除くためである。血の力は罪を無力にすることに存する。
しかしながら私たちは罪から解放されたという最初の事実だけで簡単に満足してしまうので、罪が打ち勝ちがたいものとして私たちの内に残ったままになりがちである。私たちは贖われた者であるから、多くの事柄において神の意志に背いている状態をそのままにしてはならない。
きよめへの願いが私たちの内にもっと強くならねばならない。私たちが知っているより以上に血は力あるものであること、私たちがこれまでに経験したことより以上に血は偉大なことを成し遂げることができることを知ったならば、私たちの心はきよめへのもっと強い願いを持って立ち上がるはずなのではないだろうか。もし私たちが罪からの解放ときよめと神との親しい交わりとをいっそう強く願うなら、その時には私たちは、血が何をなすことができるのかについての知識にさらに深く進むために必要な第一歩を踏み出したことになる。
まだ先がある。切望は期待とならなければならない。私たちが聖書を調べて血が達成したことをよく見極めるなら、血が私たちの内にもその完全な力を発揮することが当然と思えるようになるはずである。私たちが無価値であるからといって、無知だからといって、あるいは無力だからといって、そのことを疑ってはならない。血が限りない命の力をもって明け渡された心の内に働くのである。
さあ、聖霊なる神に自分を明け渡しなさい。心の眼を血の上に据えなさい。血の力に対してあなたの内なる人をまったく開きなさい。天国の恵みの御座は血の上に据えられているのだ。その同じ血があなたの心を神の宮とし、神の御座となすのである。
血の注ぎの下にあなたののがれ場がある。そこに行って神の小羊ご自身にあなたの中に血の力を及ぼしていただきなさい。あなたは必ずそこに、ほかの何にも比べようがないイエスの血の奇跡的な力があることを見いだすであろう。