『それで、きょうだいたち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると
確信しています。イエスは、垂れ幕、つまりご自分の肉を通って、
新しい生ける道を私たちのために開いてくださったのです。
さらに、私たちには神の家を治める偉大な大祭司がおられるのですから、
心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。
信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。』
(ヘブル10:19-22)
この箇所は、この書翰全体の要点である。また神の恵みの福音の要点でもあって、聖霊は神の恵みがまずヘブル人たちに、ついで私たちに、このような表現で示されることを良しとされたのである。
罪のために人間は、楽園を追われ、神の臨在と交わりとから遠ざけられた。憐れみのために神は、その破れた交わりを基礎から建て直すことを願われた。幕屋という型を示すことによって、神はイスラエルの人々に、神と彼らを隔てる壁がいつか取り払われて人々が神のみまえに生きることができるようになる時が来るという希望を与えた。『いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか』(詩42:2)。これが旧約時代の聖徒たちの詠嘆であった。
しかし新約時代の多くの神の子らにもなお詠嘆がある。それは、聖所に至る道がすでに開かれていて、神の子は誰でもそこに真の住むべき場所を持っているのに、そのことを彼らが知らないからである。
贖いの全き力を経験したいと望む人たちは、私たちの神が聖所について私たちに語っていること、私たちがそこに入る自由を得ているのは血によってであることを、心に留めなさい。ヘブル書10章19〜22節は、神が私たちのために何を用意してくださったのか、私たちは交わりに入りそこに住むためにどのようにして備えられるのかを教えている。
この箇所を注意深く読み、『近づこうではありませんか (let us draw near)』という一句が全体の中心になっていることを見なさい。梗概として書くと次のようになる(順序は英訳に従う)。
この梗概と見比べながらもう一度この箇所を読みなさい。
『それで、きょうだいたち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまりご自分の肉を通って、新しい生ける道を私たちのために開いてくださったのです。さらに、私たちには神の家を治める偉大な大祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか』(ヘブル10:19-22;強調は著者による)。
『それで、きょうだいたち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信して …… 近づこうではありませんか』。
私たちを聖所に招き入れることは、イエスの贖いのわざの終極である。聖所を知らない者は贖いがもたらすものを完全に知ったことにはならない。
この聖所あるいは聖地とは何であるか。神が住まわれる場所である。聖所とはいと高き者の住まいなのだ。それは天国だけを指すのではなく、神が臨在される霊的な聖なる場所をも意味している。
旧約時代には、地上の目に見える聖所があった。祭司が神の臨在の前に出入りして神に仕えるための、神の住まいがあったのである。
『ところで、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、そこには燭台、台、供えのパンがありました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。…… 祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。これによって聖霊は、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道はまだ明らかにされていないことを示しておられます』(ヘブル9:1-3, 6-8)。
新約のもとでは、真の霊の幕屋があり、それは特定の場所に限定されるものではない。至聖所とは神がご自身を現す場所である。『まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない』(ヨハネ4:23-24)。また私たちは知っている。『私たちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「私は彼らの間に住み、巡り歩く。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」』(コリント後書6:16)。
至聖所に入ってそこに住み、終日神のみまえを歩むとは、なんと輝かしい特権であろうか。そこにはなんと豊かな祝福が注がれていることであろうか。この聖所で私たちは神の好意と神との交わりを享受することができる。神の命と恵みを経験する。そして神の力と神の喜びを目にする。私たちは至聖所のきよめと聖化にあずかって生涯を生きることができる。心地よい香りの香が焚かれ、神に受け入れられる犠牲が献げられる。それは祈りと祝福との聖なる生涯である。
旧約の時代には、すべてが地上的であった。聖所は特定の場所に建てられた目に見える建造物であった。新約の時代には、すべてが霊的であって、真の聖所は聖霊の力によって存在を与えられる。聖霊の力によって聖所の中に現実に生きることが可能になる。そこに神がおられることは、旧約時代の祭司たちが聖所に入っていった時と同じように確実である。聖霊がイエスの達成された働きを私たちの経験のうちに疑う余地のないものとするからである。
あなたは贖われた者であるから、あなたのなすべきことは至聖所の中に家を構えることである。キリストは至聖所の中でしかその贖いの力を完全にあらわすことができないからである。至聖所においてのみ、彼はあなたを豊かに祝福することができる。このことを理解しなさい。そして神と主イエスとの目的をあなたのものとしなさい。至聖所に入り、そこに住み、そこで奉仕することがあなたの心の唯一の願いとなるように。聖霊が私たちに至聖所という住まいに入ることの栄光を正しく理解させてくださると、私たちは確信を持って期待することができる。
至聖所に近づくことを認めるのは、神の大権である。神はそれを許可することを計画し、準備された。私たちはイエスの血によって、そこに入る自由と権利とを得ている。イエスの血は、それを通して滅びの子が神の聖所に入るための完全な自由を受けられるようになる、驚くべき力を働かせるのである。『以前は遠く離れていたあなたがたは、キリストの血によって近い者となりました』(エペソ2:13)とあるとおりである。
血にこのような力を与えるものは何であろうか。聖書は『肉なるものの命、それは血である』(レビ17:11)と告げている。血の力は命の価値のうちにあるのである。神の生命の力がイエスの血の中にあって働いたのである。
しかし血は、それが注がれるまでは、和解を実現することはできなかった。主イエスはその死によって罪の罰を負うことによって、罪の力に勝利し、それを無きものとされた。罪の力は律法にある。キリストは律法の呪いのもとに血を注がれることによって律法の要求を完全に満たし、それによって完全に罪の力を奪ったのである。したがって血が奇跡を起こす力を持っているのは、神の子の命がその中にあるからだけではなく、それが罪の賠償として献げられたものであるからでもあるのである。これが、聖書が血をそれほどまでに高調している理由である。永遠の契約の血を通して、神は『私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた』のである(ヘブル13:20)。
『ご自身の血によってただ一度聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです』(ヘブル9:12)。血の力は、罪と死と墓と地獄の力を滅ぼし、天国の扉を開いたのである。
そして今、私たちは血によって入る自由を得ている。罪がかつては神に近づく私たちの自由を取り上げていたが、血がこの自由を完全に取り返して私たちに与えるのである。この血の力を心に思うことに時を費やし、それを自分自身のためのものとして信ずる者は誰でも、私たちが今すぐに神に交わり親しくなることができる驚くべき自由と直接性とを認識できるようになる。
神の驚くべき血の力よ! 血を通して私たちは至聖所に入る。血は私たちのために永遠で途絶えることのない力をもって弁護する。血は神の目からも私たちの良心からも罪を見えなくする。私たちはいつでも自由にほんとうに入ることができるのであり、血を通して神に近づき、神と交わることができるのである。
聖霊が私たちに血の全き力を顕されるように! 聖霊の教えに導かれて私たちは父なる神との親しい交わりに至る全き道を進むことができる。血によって私たちの生涯は至聖所の中に入れられているのである。
『それで、きょうだいたち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生ける道を私たちのために開いてくださったのです』とあるとおり、血は私たちに入る権利を与える(ヘブル10:19-20)。その道は生ける道、命を与える道であり、力を授ける。イエスはその肉体を献げることによってこの道を完成させた。このことは、他の箇所で「血によって」という言葉で表現されている思想の単なる反復ではない。決してそうではないのだ。
イエスは私たちのためにご自身の血を流されたが、私たちはこの行為を真似ることはできない。しかしイエスがその血を流し、肉体という垂れ幕を裂かれた時に、彼が通ったその道は、私たちもまた彼に従って通らなければならない。イエスがその道を開く際になされた行為は、聖所に入ろうとしている私たちの手を引き、私たちをそこに運び込む、生ける力となるのである。私たちがここで学ばなければならないことは、聖所に至る道は裂かれた肉体という垂れ幕を通る道だということである。
神と私たちの間を遮っている垂れ幕とは、肉のことであった。罪は肉において力を持っている。ただ罪を取り去ることによってのみ、垂れ幕は取り除かれたのである。肉の姿を取って来られたイエスは、ただ死ぬことによってのみ、その垂れ幕を裂き、肉と罪の力に勝利することができたのである。彼はその肉を献げ、それを死に渡された。このことが、彼の血が流されたということに価値と力とを授けたのである。
そしてこのことは、今でも、イエスの血を通して聖所に入ることを望む一人ひとりにとっての法則となっている。裂かれた肉という垂れ幕を通らなければならないのである。血は肉が裂かれることを必要とし、血はそれを達成する。イエスの血が力をもって働くならば、肉は死に渡されるのである。肉を救おうとする者は至聖所に入ることはできない。肉はいけにえにせられなければならない。死に渡されねばならない。
信者は、その肉の罪深さを認識し、肉にあるすべてを死に渡すなら、その分だけ、血の力を深く理解するようになる。信者はこれを自分の力でなすことはできないが、イエスが開かれた生ける道を通って至ることができる。この道にはイエスの命を与える力が働いているからである。クリスチャンはイエスと共に十字架につけられて死ぬ。キリストにある者はその肉を十字架につけてしまっているのである。使徒パウロは私たちに語っている。『私はキリストと共に十字架につけられました。なお私は生きています。しかし私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子を信じる信仰によるのです』(ガラテヤ2:20=英改訳)。私たちが垂れ幕を通って入ることができるのは、キリストと偕なることにおいてなのである。
新しい生ける道とはなんと栄光ある道であろうか。命を与える力に満ちた道であり、キリストが私たちのために開いてくださった道なのである。この道があるために、私たちはイエスの血によって聖所に入る自由を得ている。どうか主なる神が私たちを、この裂かれた垂れ幕、肉の死を通る道に導き、霊の全き命に至らしめてくださるように。その時に私たちは垂れ幕の内側、神のおられる聖所の中に、自分の住み場所を見いだすことができるであろう。肉の犠牲を献げるたびに、私たちは血によって聖所のさらに奥へと導かれる。
このことをさらに、ペテロ前書3:18に『キリストは、肉では殺されました』とあるところ、また同4:1に『キリストは肉の苦しみを受けられた』とあるところと比較参照しなさい。それは私たちが霊に生きることができるようになるためであった。『神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためです』(ローマ8:3-4)。
『私たちには神の家を治める偉大な祭司がおられるのですから、信仰の確信に満ちた真実な心をもって神に近づこうではありませんか』(ヘブル10:21-22=欽定訳)。
神をほめよ。私たちが聖所に入る時には、キリストのみわざがあるだけでなく、キリストご自身の生ける人格があるのだ。血と生ける道があるだけでなく、神の家を治めておられる大祭司としてイエスご自身がおられるのである。
地上の聖所に祭司たちが入ることができたのはただ大祭司との関係によってのみであった。またアロンの子孫以外の人が祭司になることはなかった。私たちも主イエスとの関係によって聖所に入ることができる。イエスは父に言われた、「御覧ください。私は来ました。あなたが私に与えてくださった子らとともに」と(ヘブル10:7, ヨハネ17:6)。
彼こそは偉大な大祭司である。ヘブル人への手紙は、彼が真のメルキゼデクであって、永遠不変の祭司職を持つ永遠の子であり、大祭司として御座に就いておられると証言している。彼は生きていて常に祈っておられるので、『ご自分を通して神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります』(ヘブル7:25)。彼は偉大で全能の大祭司なのである。
彼は神の家の大祭司として、神の家のすべての任務を行うように指名されている。彼は神の人すべての世話をする。私たちが聖所に入ることを望むなら、彼はそこで私たちを受け入れて、神に私たちを示す。彼はご自身で私たちの内に血の注ぎを全うされる。その血によって彼はそこに入ったのであるから、同じ血によって彼は私たちをそこに導き入れる。彼はそこで私たちが果すべき義務と私たちの交際のしかたとを教えてくださるであろう。彼は私たちの祈り、私たちの献げ物、私たちの礼拝の務めを受け入れられるものとしてくださる。それがいかに弱いものであってもである。さらにまた、彼は私たちの聖所での働きと生活のために天的光と力とを私たちに与えてくださる。彼の血が近づく権利を獲得したように、彼の肉の犠牲が生ける道となる。私たちが聖所に入ると、彼は私たちがそこにいつまでもとどまって神を喜ばせる歩みができるように助けてくださる。彼は憐れみある大祭司であるから、どんな人にも、最も弱い人にまで、ご自分を合わせる方法を知っておられる。このために誰でも聖所での神との交わりに心を引かれるようになるのである。私たちには神の家を司る大祭司イエスがおられるのだ。
至聖所は私たちにとって高すぎ、清すぎるように思われるだろうか。血の力を理解することに困難を覚えるであろうか。また新しい生ける道をどう歩めばよいのか困惑しているであろうか。そのときには生ける救い主ご自身を見上げることである。彼が私たちに教え、私たちの手を引いて聖所に導いてくださる。彼こそ神の家を司る大祭司なのだ。
『近づこうではありませんか』。そこで神が私たちを待っておられる。血が私たちを自由にし、生ける道が私たちを運び、大祭司が私たちを助けてくださるのである。神が私たちのために予定されたこれらの驚くべき恵みを用いることを妨げることを何ものにも許してはならない。イエスの血がすでに私たちのために権利を獲得してくださった。イエスご自身の道行きによって彼は道を開いてくださった。彼は私たちを受け入れ、私たちを聖別して保ち祝福するために、永遠の祭司職にあって生きておられるのである。二度とためらってはならない。後戻りしてはならない。神が私たちのために準備されたことを思って、この一事のためにすべてを犠牲に献げようではないか。『近づこうではありませんか』。イエスの手にひかれて私たちの父のみまえに出て、御顔の光の内を歩む生涯を見いだそうではないか。
しかしそこに入るために私たちはどんな準備をすればよいのであろうか。この問いのために、引用した聖書の箇所は輝かしい答えを与えている。
これは、神に近づくことを願う信者のために用意された四つの要求のうちの一つ目である。これは二つ目の要求、すなわち「信仰の全き確信」ということと一体であって、二番目の要求との関係において「真心」(a true heart)の中心的な意味が理解される。
福音の説教は悔改と信仰から始まる。人が信仰によって神の恵みを受けるためには、同時に罪を放棄する必要がある。信仰の成長においてもこのことは常に当てはまる。「真心」、すなわち神に対して一切の隠し事がなく完全に明け渡されている心なしには、信仰の全き確信に至ることはできない。「真心」、すなわち求めていると公言していることをほんとうに求めようと願う心なしには、至聖所に入ることはできない。
『真心から神に近づこうではありませんか』──すなわち至聖所に入るためには何事をも棄てるとほんとうに願っている心、神を所有するためにはすべてを棄てる心をもってである。真心は、自分自身を血の権威と力に引き渡すためにどんなことでも放棄する。真心は、キリストと共に肉体が引き裂かれることによって垂れ幕を通り抜けるという新しい生ける道を選択する。真心は、自分自身をイエスの内住と権威に完全に委ねる。
『真心から神に近づこうではありませんか』。真心がなければ、至聖所への入口も存在しない。
けれども真心を持っているのは誰であろうか。神が与えられた新しい心こそ真心なのである。『だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくされたのです』(コリント後書5:17=英訳)。新しい心に宿っている神の霊の力に頼るなら、あなたはあなたの肉体にまだ残っている罪に対して、あなた自身を神の側に置くことができる。大祭司である主イエスに告げなさい、あなたは彼に従うためにすべてを放棄するのであるから、すべての罪と自己中心の生活を彼に渡し、彼の前に投げ出すと。
あなたの肉の内に深く潜むあなたが気づいていない罪や、あなたの心にある悪意についても、備えはすでになされている。『神よ、私を調べ、私の心を知ってください』(詩139:23)とダビデ王は書いている。心を探る聖霊の光にあなた自身を絶えず明け渡しなさい。聖霊はあなたの中から隠されているものを見つけ出される。これを行う者は至聖所に入るための真心を持つ。
私たちが真心から神に近づこうとしていることを恐れずに神に告げなさい。神は私たちの行いが完全無欠であるかどうかによってではなく、私たちが自分で知っているすべての罪を棄て、かつ気づいていない罪に対しては聖霊が与える罪の自覚を受け入れる、その正直さに応じて私たちを裁かれるということを確信しなさい。この正直さをもつ心が神の目には真心なのである。私たちは血を通して、真心によって至聖所に入ることができる。神をほめよ、聖霊によって私たちは真心を持っているのである。
私たちは人間に対する神の取り扱いにおいて信仰がどのような位置を占めるかを知っている。『信仰がなければ、神に喜ばれることはできません』(ヘブル11:6)。ここ、至聖所の入口においては、すべてが信仰の全き確信に依存している。
私たちは、聖なる場所というものが存在して、そこでは私たちは神と共に住み歩むことができること、そこでは貴い血の力が罪を完全に征服しているので私たちを神との絶えざる交わりから引き離すものは何もないということについて、信仰の全き確信を持たなければならない。イエスがご自身の肉をもって聖別された道は生ける道であって、そこに足を踏み入れる者を、その道が永遠の生ける力によって運ぶのである。この道において、神の家を司る偉大な大祭司はご自身を通して神に近づく人々を完全に救うことがおできになる。そして至聖所での生活に必要なあらゆるものを彼は聖霊によって私たちの内に造り出される。私たちはこれらのことを信じて、信仰の全き確信によってしっかり握らなければならない。
しかし私たちはどうすればそこに到達できるのであろうか。どうすれば私たちの信仰は全き確信にまで成長するのであろうか。それは、『信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめ』ることによってである(ヘブル12:2)。彼は神の家を司る偉大な大祭司であるから、私たちが信仰を用いることができるようにされる。彼を、人の思いを超える彼の愛を、彼のなされた完全な働きを、そして彼の貴い全能の血を思うことによって、信仰は保たれ力づけられる。神は私たちの信仰を目覚めさせるために彼を与えられたのだ。彼に目を注ぎ続けることによって、信仰とその全き確信とは私たちのものとなるのである。
神の言葉に向かう時には、『信仰は聞くことによって、聞くことは神の言葉によって来るのです』(ローマ10:17=欽定訳)ということを思い起こさなければならない。信仰は言葉によって到来し、言葉によって成長するが、その言葉は律法の言葉ではなくイエスの声である。『私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である』(ヨハネ6:63)。時間を取ってみことばを深く味わい、心に大切に蓄えなさい。ただしその心は常にイエスご自身に注がれていなければならない。救いをもたらすのはイエスを信じる信仰である。祈りにおいてイエスに差し出すみことば、イエスに訴えるみことばこそ、力を発揮するみことばなのである。
『持っている人はさらに与えられる』(マタイ13:12)ことを覚えなさい。あなたがもっている信仰を用いなさい。それを生活に生かし、明示しなさい。神に心から信頼することをあなたの生涯の使命としなさい。神はご自分を信じる子たちを求めておられる。神にとって信仰ほどほしいものはないのだ。すべてにおいて神の導きと神の祝福を信頼して生きることをあなたの日常としなさい。
至聖所に入るには信仰の全き確信が必要である。『信頼しきって近づこうではありませんか』と。血による贖いは完全で力に満ちている。イエスの愛と恵みは溢れている。至聖所に住む祝福は私たちのものであり、私たちの手の届く所にある。信仰の全き確信のうちに近づこうではないか。
心は人間の命の中心であり、良心は心の中心である。良心を通して人は神との関係に気づく。神と人との関係に正しくない所があれば良心がそれをその人に訴えるからである──ただ彼が罪に手を染めていることだけでなく、彼が罪になじんで神から離れていることを訴えるのだ。清い良心は彼が神に喜ばれていることを証しする(ヘブル11:5)。ただ彼の罪が赦されていることだけでなく、彼の心が神の前に真実であることを証しするのだ。至聖所に入ることを願う者は、『良心のとがめのない』心を持っていなければならない。この言葉は『悪しき良心から洗い清められた私たちの心』とも訳される。血の注ぎはこのきよめを実現する。血があなたの良心を洗い清めて生ける神に仕えさせるのである。
私たちは至聖所に近づくことは血によってであることを見てきたが、それは十分ではない。血の働きは二重なのである。神に近づく祭司は、神のみまえで祭壇の上に血を注ぐことによって和解を得ただけでは十分ではなく、彼自身の人格が血の注ぎを受けなければならなかった。イエスの血は聖霊によって私たちの心に直接注がれねばならず、そうして私たちの心を悪しき良心から洗い清めなければならないのだ。血は自分を責める良心をすべて取り除く。血は良心を清め、良心は咎が完全に取り除かれたことを証言する。神と私たちの間を隔てるものはまったくなくなる。良心は私たちが神を喜ばせる者であること、私たちの心がきよめられていること、私たちが神との真の生ける交わりを持っていることを証しする。そう、イエス・キリストの血はすべての罪から私たちを清める──罪の重荷を取り除くだけでなく、罪の痕跡をも消し去るのである。
血の力によって私たちの堕落した本性はその力を発揮することができなくなる。ちょうど泉がその周囲の草に穏やかな水しぶきをかけてそれを新鮮で緑豊かに保っているように、血もまた絶えず注いで心を清く保っているのである。血の完全な力のもとに生きる心は清い心であって、良心のとがめをすすがれて全き自由のうちに神に近づくことができるように備えられている。心全体、内的存在全体が、神の働きによってきよめられているのである。
『心は清められ、良心のとがめなく、神に近づこうではありませんか』。私たちの心はきよめられていることを、信仰の全き確信をもって信じなさい。血が私たちを清めることを神の前で告白して血に名誉を帰しなさい。大祭司イエスは血によって清められた心を持つということの完全な意味と力とを私たちに理解させてくださるであろう。私たちは至聖所に近づくことができるように血によって備えられていると共に、私たちの心は神との面会のために血によって備えられている。心がきよめられて至聖所に住むことができるとは、何と栄誉あることであろうか。
私たちは、見えるものと見えないものという二つの世界に属している。私たちは一方で神に触れることのできる隠された内的生活をもち、他方で人間と交わるための身体的な外的生活をもっている。『洗われた』という言葉は身体に関わることであるから、それは身体にあるすべての活動を含む生活の全領域に関わる言葉なのである。
心は血を注がれねばならなかったが、体は清い水で洗われなければならない。祭司たちが清められる時には、血を注がれると共にまた水で洗われたのであった。
『アロンとその子らを会見の幕屋の入り口に進ませ、彼らを水で洗いなさい。』(出エジプト29:4)
『そして祭壇の上の血を少し取り、注ぎの油も少し取って、アロンとその服に、またその子らとその服に振りかけなさい。こうしてアロンとその服、その子らとその服は聖なるものとなる。』(出エジプト29:21)
そして彼らが聖所に入ると、そこには血が注がれた祭壇だけでなく、水を満たした洗盤が置かれていた1。それでキリストも水と血によって来られたのである。『この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とによって来られたのです』(ヨハネ一書5:6)。『キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになった …… キリストがそうなさったのは、言葉と共に水で洗うことによって、教会を清めて聖なるものとし、染みやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、傷のない、栄光に輝く教会を、ご自分の前に立たせるためでした』(エペソ5:25-27)。イエスは初めに水による、そして最後に血による、バプテスマを受けられた(ルカ12:50)。
私たちにも同じように二重のきよめがある。水によるものと血によるものとである。水によるバプテスマは、悔い改めて罪を棄てるためにある。使徒パウロも『洗礼を受けて罪を洗い清めなさい』と告げられたことを証ししている(使徒22:16)。血は心と内的人格をきよめるものであるが、バプテスマは身体をそのすべての外的生活もろともに罪から離れさせるものなのである。
それだから『心は悪しき良心から清められて、体は清い水で洗われています。信仰の全き確信をもって、真心から神に近づこうではありませんか』(ヘブル10:22)。きよめは、神の働きとしては血を注ぐことであり、人の働きとしては罪を捨て去ることであって、この両者は切り離せない。
至聖所に入るためには私たちは清くならなければならない。ちょうど身なりを整えずに国王の謁見を受けることなど想像できないように、すべての罪から清められるということがないまま至聖所で神の謁見を受けることもまた問題外である。神はキリストの血という形で私たちに自分を清める力を与えられた。至聖所で神と共に住みたいという私たちの願いは、最小の罪をも棄てることを伴っていなければならない。清くないものは至聖所には入れないからである。
神をほめよ、神は私たちがそこにいて神に仕えることを望んでおられる。私たちが神の祝福──神との聖なる交際を楽しむだけの清さを私たちが持つことを望んでおられる。神は私たちが清くなるように、すでに血を通して、聖霊によって必要を充たしておられるのだ。
至聖所は、私たち会衆の中にあってまだ主に対して回心していない人たちにすら開かれているのである。その人たちにも聖所は開かれている。貴い血、生ける道、偉大な大祭司もまた彼らのためでもあるのだ。そのような人たちを敢えて私たちは確信をもって招く。友よ、あなたがなお神から遠くにいるとしても、神の驚くべき恵みをこれ以上見くびってはならない。父に近づきなさい。父は本気でこの招待状を送ったのだ。父のひとり子の血の価によって、父は至聖所に入る道を開かれた。父はあなたを子としてご自分の住まいに迎えることを、愛の中で待っておられる。だから私たちはみな近づこうではないか。イエス・キリスト、神の家を司る大祭司は、全き救い主なのである。
『近づこうではないか』。この招きは特にすべての信者たちに向けられている。入り口の外に立つだけで満足してはならない。罪が赦されることを期待するだけでは足りない。垂れ幕の中に入って、心から私たちの神にほんとうに近づいて行こうではないか。神のそばに暮らし、その聖なる臨在のうちに全面的に住まいを定めようではないか。私たちの場所は聖所の最奥にあるのだ。
『近づこうではないか』、真心をもって、信仰の全き確信のうちに。神に心から完全に自分を献げる者は、信仰の全き確信を惜しげなく与えられ、聖書が約束しているすべてのことを経験するようになる。信仰の弱さは二心から来る。血が既に罪を完全に償って打ち破ってしまったので、神に近づくことから私たちを引き留めておくことができるものはもはや何もない。
『近づこうではないか』、心は悪しき良心から清められ、体は清い水で洗われて。血の完全な力を信じる信仰を心に受け入れようではないか。聖所の清さに相応しくないすべてのものを捨て去ろうではないか。そうすれば私たちは至聖所の中でますます我が家にいるかのような安らぎを感じ始める。私たちの命であるキリストにあって、『以前は遠く離れていたあなたがたは、今、キリストの血によって近い者となりました』(エペソ2:13)。そして私たちは至聖所における私たちの仕事に従事することを学ぶ。私たちが行うことはすべて、イエス・キリストにあって神を喜ばせる霊的な供え物となる。
近づくようにとの招きは、特に祈りに対する呼びかけである。それは、私たちが至聖所にいつもいるわけではないから祈りが求められるというのではなく、もっと親密な時間を取り、魂がただ神とのみ交渉するために自分を完全に神の方に向け直すようにという招きである。しかし私たちの祈りはたいてい遠くから神に呼びかけるような祈りであるので、そこにはほとんど力がない。祈りをもって『近づこうではないか』。そう、私たちはまず神に近づくために時間を取り、それから祈らなければならない。その時に、私たちは、私たちの願いと希望が神に受け入れられる香の煙として立ち昇ることを確信して、神のみまえにそれを置くことができる。その時に、祈りは真に神に近づく行為となり、神との内的交流の実践となる。その時に、私たちは執り成しという任務を遂行して他者のために祝福を祈るための勇気と力を得ることができる。血の力によって至聖所に住む者は真に神の聖徒の一人なのであって、神の臨在の力がその人から出てその人のまわりにいる人々の上に注がれるのである。
『近づこうではないか』。そして自分自身のために、お互いのために、またすべての人のために祈ろうではないか。どうか私たちが聖所の中にとどまり、そのことによって私たちがどこにでも自分とともに神の臨在を運ぶ者となることができますように。そして神の臨在が私たちにとって、力から力へ、栄光から栄光へと成長する生命の泉となるようにしなければならない。