第 四 章  血 に よ る き よ め



『神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、
互いの間で神と交わりを持ち、
御子みこイエスの血によってあらゆる罪から清められます。』
ヨハネ一書1:7=英訳)


 私たちは血の最も重要な働きが罪のための和解であることを見てきた。和解に対する知識と信仰がもたらす実は、公式な罪の赦免である。赦免とは、天において罪人つみびとのためにすでに成し遂げられていることの宣言であり、かつ罪人がそれを心から受け入れることである。

 血の最初の効果は、しかしこれだけにとどまるものではない。心が信仰を通して神の霊に自分自身を明け渡すに従い、血はさらなる力を及ぼす。聖書が血の働きに帰している祝福が他にもあり、それを血が心に注ぐ時、心は和解の完全な力を理解し、味わうことができるようになる。

 和解による最初の結果の一つは、罪からのきよめ(cleansing)である。私たちはこのことについて神の言葉がどう語っているかを見なければならない。私たちの間ではしばしばきよめとは罪の赦免に含まれるのであって、罪科のきよめ、罪状を抹消されることにほかならないと語られる。しかしこれは正しくない。聖書は罪科からのきよめについては語っていない。罪からのきよめとは、罪状の抹消ではなく、けがれを除去されることを意味している。罪科とは、私たちの神との関係に関わる事柄であって、私たちが自分の誤りを正す、もしくはしかるべき罰を受ける責務を表している。他方、罪のけがれとは、罪が私たちの内面にもたらす不潔さ、不純さの感覚であって、これがきよめの対象なのである。

 きよめは、神が賜う救いを完全に経験すること、聖書が救いに関して教えているところを正しく理解することを求めているすべての信者にとって、最も重要なものである。

 以下のことを順に考察したい。

  1. 旧約聖書ではきよめという言葉は何を意味しているのか。
  2. 新約聖書においてはきよめという言葉は何を指し示しているのか。
  3. どうすればこの祝福を完全に経験することができるのか。

旧約聖書におけるきよめ

 モーセの手によってイスラエルのために定められた神礼拝の規程によれば、人々が神の前に出るために二つの儀式を守ることが必要とされていた。一つは献げ物もしくはいけにえであり、もう一つはきよめまたは浄化であった。両者は異なるしかたで執り行われる必要があった。どちらもその目的は、人間が罪深いものであること、聖なる神に近づくにふさわしくないものであることを、人間に認識させることにあった。どちらも、人間を神との交わりにかなうものとするために主イエス・キリストが成し遂げる贖いを予示するものであった。多くの場合、キリストによる贖いの型と見なされるのは、献げ物の方だけである。しかしきよめもまた、ヘブル書では『食べ物と飲み物と種々の洗い清めに関する肉的な諸規定』(ヘブル9:10)として、当時の人々のための贖いの譬喩であることが強調されている。

 当時のイスラエルの人々の生活を想像してみるなら、きよめの規程は、いけにえと同様に、罪の意識と贖いの必要性とを人々の心に印象づけるものであったことが理解できるであろう。私たちはいけにえときよめの両方から、イエスの血が現実に持っている力がどのようなものであるのかを学ばなければならない。

 きよめのさらに重要な例の一つを旧約聖書に見ることができる。もし誰かが死体とともに家の中にいたなら、もしくは死体や骨に触れることがあったなら、その人は七日間けがれた者とされた。死は罪に対する罰であるので、死に接する人を誰でもけがれた者としてしまうのであった。きよめがなされるためには、焼かれた若い雌牛の灰が必要であった。このことは民数記に記されている。

『身の清い者が雌牛の灰を集め、宿営の外の清い所に置く。それはイスラエル人の会衆のために、汚れを清める水を作るために保存される。それは罪である。雌牛の灰を集めた人は自分の衣服を洗うが、彼は夕方まで汚れる。…… 死者の体に触れて身を清めない者は皆、主の幕屋を汚す。…… 汚れた者のためには、罪として焼かれた雌牛の灰の一部を取って器に入れ、その上に生ける水を加える。次に、身の清い者がヒソプを取ってその水に浸し、天幕、すべての器、そこにいた人々に振りかけ、また、骨、犠牲者、死体、墓に触れた者に振りかける。』(民数記19:9-10, 13, 17-18)

 この灰は水と混ぜられ、ヒソプの束を使って、けがれている者に振りかけられた。その後、その人は体を水に沈めなければならなかった。こうして儀式上は再びきよい者となることができた。

 「汚れた者」、「清め」、「清い者」という言葉は、レプラ患者の癒やしに関連しても用いられた。レプラという病気は当時は死んだも同然のように見なされていた。レビ記13章14章を見ると、病気から治癒した人がきよめの儀式を受ける際には、まずいけにえとして献げられた鳥の血を混ぜた水の注ぎを受けなければならなかった。次にその人は全身で水に浸からなければならなかった。さらに七日後にその人は再度いけにえの血の注ぎを受けた。

 清めに関する律法を注意して読むと、きよめと献げ物との間には二つの点で違いがあったことが分かる。第一に、献げ物は和解がなされるべき違反行為に直接対応するものであったが、きよめは、それ自体は罪ではなく罪の結果として現れた状態、神の聖なる人々から不潔と見なされるような状態の方に関係していた。第二に、献げ物の場合は、献げ物をする人自身に対しては何もなされなかった。その人はただ祭壇に血が注がれるのを、あるいは至聖所に血が持ち込まれるのを、見ているだけであった。その人はそれによって神との和解が実現したことを信じなければならなかったが、彼自身に対しては何もなされることがなかった。他方、きよめにおいては、その人自身の身に起ることの方に主要な意味があった。不潔さは、その人自身の病気に起因するものであったり、外部の何かに触れることによって生じたものであるから、水による洗い清めと水の注ぎはその人自身に対して行われなければならないと神は定められたのである。

 「清くする」とか「清め」という言葉は旧約聖書の他の箇所でも同じ意味で用いられている。詩篇51篇でダビデは次のように祈っている。『私を罪から清めてください。…… ヒソプで私の罪を取り払ってください。私は清くなるでしょう』(詩51:2, 7)。ここでダビデが用いている言葉は、死体に触れた人のきよめに関して用いられるものと同じである。その時にもヒソプが用いられた。ここでダビデは公的な赦免以上のことを祈っているのである。5節ではダビデは自分が『邪悪に形造られた』(欽定訳)と言っている。すなわち彼の本性が罪なのだ。彼は内側から清められたいと祈っている。『私を罪から清めてください』と彼は祈っているが、ここで『清める』という意味で使ったのと同じ言葉を使って、10節で彼は『神よ、私のために清い心を造ってください』と祈っている。このようにきよめは赦免以上のものを含むのだ。

 この同じ言葉は預言者エゼキエルによっても同じ意味で、すなわち変えられなければならない内的状態との関係で使われている。主は『私はあなたを清めようとしたが、あなたはそのけがれから清くなろうとしなかった』(エゼキエル24:13)と語っているが、後に新しい契約について語る場面では次のように言っておられる。『私があなたがたの上に清い水を振りかけると、あなたがたは清められる。私はあなたがたを、すべての汚れとすべての偶像から清める』(同36:25)。

 マラキは同じ言葉を火に結び付けて語っている。『彼は、銀を精錬し清める者として座り、レビの子らを清める』(マラキ3:3)。

 水によるきよめ、血によるきよめ、火によるきよめは、いずれも新約において実現する、罪の汚れからの内的なきよめと解放の予表なのである。


新約聖書におけるきよめ

 新約聖書においてはしばしば清い(clean, pure)心について語られている。私たちの主は『心の清い人々は、幸いである』(マタイ5:8)と語られた。パウロは『清い心から出て来る愛』(テモテ前書1:5)について語っている。同じくだりで彼は『正しい良心』にも言及している。

 ペテロもまたその手紙の読者に『清い心で深く愛し合いなさい』(ペテロ前書1:22)と勧めているが、ここでもきよめという言葉が使われている。

 私たちはまた、神が受け入れられた人々に対して、神は『彼らの心を信仰によって清め』られたと書かれているのを読む(使徒15:9)。主のものとなった人々に対して主イエスが心にかけておられたのは、『ご自分のものとして清める』(テトス2:14)ということであった。

 私たち自身に関しても『私たちは肉と霊のあらゆるけがれから自分を清めようではありませんか』(コリント後書7:1)と言われている。

 こうした聖書の言葉全体から、きよめとは公式の赦免の結果として心の中に造り出される内的状態のことを意味していることが分かる。

 私たちはヨハネの第一の手紙1:7により『御子イエスの血があらゆる罪から私たちを清める』ということを学んだ。この『清める』という言葉は、回心の時に受ける赦免の恵みそのものを指しているのではなく、光の中を歩む神の子たちに現れる恵みの効果を指している。この節に『神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます』とある通りである。続く9節には、それは赦免のその先にあるものであることが示されている。『神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます』。きよめは赦免の後に来るものであり、赦免の結果であって、信じる者がその心の中にイエスの血の力を内的に、体験的に受け入れることによるのである。

 聖書によると、このことは良心のきよめによって生じる。『ましてキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか』(ヘブル9:14)。前節には雌牛の灰が汚れた者たちに振りかけられることが、キリストの貴い血を個人的に経験する先例として挙げられている。良心とは、私たちの行いを咎める裁き手であるが、それだけではなく、私たちと神との関係の在り方を証言する内心の声でもある。もし良心が血によって清められると、良心は私たちが神を喜ばせる者となったことを証言するようになる。

 ヘブル書は『いけにえを献げる者たちは、一度清められたら、もはや罪の自覚がなくなる』と述べている(ヘブル10:2)。私たちは聖霊によって、血が私たちを罪の意識と罪の力から解放したこと、それゆえ私たちの新たにされた本性においては私たちは罪の支配から完全に脱していることを、内的に経験する。罪とその誘惑はなお肉に宿っているものの、支配する力を失っている。良心はきよめられ、私たちがほんの少しでも神から離れる必要を覚えることはない。私たちはまったき贖いの力によって神を見上げる。血によってきよめられた良心は、贖いが完全であること、神の思いがまったく満たされていることを、証言せずにはいない。

 そして良心が清められているなら心全体も清められている。良心は心の中心だからである。『心は清められて、良心のとがめはなくなり』(ヘブル10:22)とある通りである。良心が清められねばならないだけでなく、理解や意思や私たちのすべての思想と願望を含む心全体が清められなければならない。キリストの死と復活の効力は永遠である。このキリストの死と復活の力が、罪に傾く欲望と性向とを滅ぼすのである。

 『御子イエスの血が私たちをあらゆる罪から清めます』──原罪からきよめ、現実の罪からもきよめるのである。血は霊的な、心的な力をもって心に働きかけるので、信者はひとたび血の力がその生涯に働くようになったなら、彼の古い性質はもはや力を発揮できなくなっていることを見いだすのである。血によって欲望と情欲は制圧され、息の根を止められる。そしてすべてがきよめられるので、聖霊はそこに栄光の果実を結ぶことができるようになる。小さなつまずきはあっても、心はすぐにきよめを見いだし、立ち直ることができる。意識に上らない罪さえも、血の効力によってその力を奪われている。

 私たちは罪による罪科と汚れとの違いについて指摘してきた。このことは物事を明確に理解するために必要な区別であるが、実生活においては両者は区別されないということを記憶しなければならない。血によって神は罪を全体として処分される。血の働きが真実なものであるなら、その力は罪による罪科と汚れとの両方に同時に現れる。和解ときよめとは同時に進行するのであり、血は常に働くのである。

 多くの人は、血はいつでもそこにあるのだから、たとえ自分がまた罪を犯しても、血に戻ってきて清めていただくことができるかのように考えている。しかしこの見解は正しくない。泉が絶えず流れてその中に置かれているものを清く保つように、罪と汚れのために開かれたこの血の泉も同じである。『その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを清める一つの泉が開かれる』(ゼカリヤ13:1)。血を通して永遠の霊が生かす力を永遠に働かせる。この霊によって心は清める血の流れの中にいつもとどめられるのである。

 旧約の時代には、きよめは一つひとつの罪に対してなされる必要があった。新約の時代では、きよめは永遠に生きてとりなしをなされる方によって保たれる。この真理を信仰が認め、切望し、把握するなら、心は守り清める血の力のもとに、一瞬も離れることなくとどまることができる。


祝 福 の 経 験

 信仰を通してキリストの血による償いの恵みを受けている者は誰でもまた、血によるきよめの効力にもあずかっているのである。しかし悲しむべきことに、そのきよめの力は十分に経験されてはいない。したがって、この栄光ある祝福を完全に経験するための条件は何なのかを理解することはたいへん重要である。

 まず最初に、そういうものがあると知っていることが必要である。多くの人は、罪の赦しが血を通して受けられるすべてだと思っていて、それ以上のものを望まないために、それを受けることもないのである。

 しかし、神の聖霊が聖書の中で血の効力についてそれとは別の言葉で語っているのには特別の目的があるのだということを、理解し始める者は幸いである。そうすればその人はその特別の意味とは何かを探求し始めるようになる。このきよめという言葉によって主が私たちに何を教えようと望んでおられるのか、それを知りたいと望む者は皆、この言葉が使われている聖書のすべての箇所を比較検討すべきである。そうすればその人はすぐに、信者には罪責の除去ということ以上の何かが約束されていることに気づくであろう。その人はきよめが幸いな内的資産を与えるものであることを理解し始めるであろう。このことを知ることが、それを経験するための第一条件である。

 第二に、望みがなければならない。キリスト教会は、私たちの主が私たちの地上の生活に意図されていることを実際に経験することを、しばしば先延ばしにしようとしてきた。『心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る』(マタイ5:8)と書かれていることがそれである。

 心の清いことは、すべての神の子の特質であって、神と交わり神の救いを経験するための必要条件である。しかし人は、すべてのことにおいて常に主を喜ばせる者となることに、内心ではあまりにもわずかしか関心を払わない。罪や罪の汚れが残っていても私たちは平気なのだ。

 神の言葉は私たちに祝福の約束をもたらすのであって、それは私たちのすべての願望を呼び起すはずなのである。イエスの血がすべての罪から清めてくださると信じなさい。あなたが自分自身を明け渡すことを正しく学ぶなら、それはあなたに偉大な結果をもたらす。あなたはきよめの栄光ある効力を経験することを常に望むべきなのではないだろうか。あなたの良心が咎めているすべての罪の汚れから救われることを切望すべきなのではないだろうか。どうかこの祝福を求めるあなたの願望が呼び起されるように。真実な方である神が約束されたこと、すなわちすべての不義からのきよめを、神があなたのうちに実現してくださることを自分の目で確かめなさい。

 第三の条件は、すべて清からざるものから自分を引き離そうとする意志である。罪によって、私たちの本性のすべて、世にあるすべてが汚染されている。きよめは、清からざるものすべてから完全に分離して未練を断ち切るまでは、実現することはない。『けがれたものに触れるな』(コリント後書6:17)とは神がその選びたもうた者に与える命令である。私たちは、私たちを取り囲むあらゆるものが清からざるものであることを認識しなければならない。

 私の人間関係も、所有物も、わたし自身の霊も、すべて明け渡されなければならない。それは、これら一つひとつの関係において私が貴い血によって清められるためであり、私の霊と心と体のすべての活動が完全なきよめを受けるためである。

 何かを自分の手元にとどめようとする者は、決して完全な祝福を受けることができない。自分の全存在が血による洗礼を受けるためにあらゆる価を支払う意志のある者だけが、イエスの血がすべての罪から清めるという真理の理解に進むことができるのである。

 最後の条件は、血の力に対する信仰を働かせることである。血はいつでもその力と効力を保っているのだが、私たちの不信仰が私たちの心を閉ざして血の力を締め出してしまうのだ。信仰とは、生きておられる主がその血を適用する神の力を私たちの心から締め出しているその妨げを取り除き、その力に対して私たちの心を開くということなのである。そう、血によるきよめがあることを、信じようではないか。

 草むらの中に湧水が湧いているところを見たことがあるのではなかろうか。道ばたに生えている草の上には常に土埃が降りかかっている。しかし湧水がかかることで生命を与えられ、きよめられている草には、土埃は見られない。そのような草はすべて緑であり生気がある。それと同じように、キリストの貴い血もまた、信じる者の心の中に祝福のわざを絶えることなく注いでいる。信仰によって自分自身を主にゆだね、必ずこのようになると確信している者には、実際にそれが与えられるのである。

 血の天的な霊的効力はいつでも経験することができる。その力は私たちを常にその泉をそばにとどまらせ、主の受けられた苦難のうちに住まわせる。

 イエスの血があなたの心をすべての罪から清めてくださることを、来てあかしするようにと私はあなたがたに願う。疲れた旅人が清流に体を浸し、水の中に飛び込んで、体を冷やし、きよめ、力を与える水の力を味わう時に感じる喜びを、あなたは知っているであろう。水の流れが天から出て絶え間なく地に注いでいることを、信仰の目を上げて見なさい。この流れにあなた自身を浸して、『イエスの血がすべての罪から清める』という言葉が、あなたがこれまで思い描いてきたよりもはるかに深く広い神的意味を有していることを信じなさい。主イエスご自身がご自分の血によってあなたをきよめ、あなたのうちに力を与えるという約束を成就しようとしておられることを信じなさい。イエスの血による罪からのきよめが日々味わうことのできる恵みであること、そこにあなたは確信をもっていつまでもとどまることができることを悟りなさい。



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