第 三 章 (後 半)



十 四 節

 今まで神はこのことをさばきたまいました。この十四節から宣告をなしたまいます。十四節において蛇を宣告したまいます。十六節において女を宣告したまいます。十七節においてアダムを宣告したまいます。第一の宣告は蛇の宣告でした。アダムとエバが神の前に立ちて審判を得ましたときに、始めにその敵が亡ぼされることを聞きました。そのために心の中に望みが起こりました。神はサタンを亡ぼしたまいますから、人間はまた幸福を得るという望みが起こります。人間はサタンと一致してかかる苦しみを得ました。神はその一致を解きて、人間の敵を亡ぼし、全き自由を与えることを約束して救いの望みを与えたまいました。人間はサタンの捕虜となりました。神はその敵を亡ぼして、自由を与えるように約束したまいました。そうですから人間は未だ宣告を得ませぬうちに、神は望みを起こしたまいます。テモテ後書一章九節をご覧なさい。これはこの約束を指します。ここに世の成らざりしさきよりとありますが、この世は時代の意味です。たとえば律法の時代、恵みの時代のごときものです。すなわち未だ時代の参りません前より我等に賜いし恵みとは、この創世記三章の約束を指します。テトス書一章二節をご覧なさい。この世は同じ意味があります。これは創世記三章の約束です。すなわちサタンを亡ぼして人間に自由を与えることの約束です。そうですから神は罪に汚れたる人間を、またもとの自由なる者としたまいます。イザヤ書二十八章十八節をご覧なさい。このように神はアダムとサタンの契約を解きたまいました。もし神がそれを解きたまいませんならば、人間はいつでもサタンの奴隷となりて陰府よみかねばなりません。その時にそのまわりを見ますならば、心の中に望みがありません。ただ死の有様がありました。神はその時に生命いのちの約束を与えたまいました。以前に二章においてそのまわりにただ幸福と生命がありました。その時に神はアダムとエバを戒めて、死のことを言いたまいました。神はそのまわりに生命がありましたときに、死のことを言いたまいました。今そのまわりに死がありますときに、生命のことを言いたまいます。

 ただいま研究しましたごとくに、神はサタンと罪を亡ぼすように約束したまいました。それは神の大いなる望みです。確実なる望みです。これはまた私共の大いなる望みです。確実なる望みです。神はもはや私共のために罪を亡ぼしたまいました。もはや私共を全く罪の感化より救出したまいました。けれどものちの世に全く罪をも、罪の結果をも、サタンをも亡ぼすように約束したまいましたから、私共はいつでも心の中に、そんな大いなる望みを抱くはずです。またそのために罪に反対して、神と共に戦わねばなりません。


十四、十五節

 そうですから、サタンに身をまかせた蛇がのろいを得ました。またそれのみでなく、サタンもここで神の詛いを得ました。蛇はサタンに身を委せましたから、永遠にサタンの罪の記念となります。私共は蛇の身体を見てサタンの罪と詛いと刑罰の表面の印を見ることができます。私共は幾分かサタンにところを得させますならば、必ずそれほどに神の詛いを得ねばなりません。

 けれども蛇のみではありません。ほかの動物も神ののろいを得ました。『おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべてのけもののうち、最ものろわれる』。そうですからほかの動物も詛われました。蛇はただ彼らにまさりて詛われました。人間の罪を犯しましたから、人間の領分にも罪の詛いが参りました。私共は全くそれを悟ることはできません。けれどもいま何処いずこでもその事実を見ることができます。人間の罪のためにまわりにある者が詛われて罪の結果を得ました。ローマ書八章二十一、二十二節をご覧なさい。『実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共にみの苦しみを続けている』。それは何のためですかならば、罪のためです。私共はこの世を見る時に、人間の罪のために詛われたものなることを承知せねばなりません。またそのために格別にしゅの再臨をち望まねばなりません。主のきたりたもう時に、呪われたるものがその詛いより解放されて、再び完全なる神の領分となることができます。

 蛇ののろいを見ますれば、眼に見ゆる詛いです。けれども十五節に眼に見えませぬ詛いがあります。この十五節に明らかに救いが宣べ伝えられてありません。けれどもこの言葉を聞きたるアダムとエバは神の心の中に恵みがある、勝利を得たもうことがあると思ったでしょう。今まで人間はサタンと結合しましたから、神の怒りと詛いを得ました。神は第一にその結合を解きたまいました。それは人間の救いの初めです。これは実に幸いです。人間はサタンの捕虜となりました。サタンにいざなわれて亡びにく道を歩みかけました。いま神はくだりてその結合を解きて人間をサタンの手より救いいだしたまいます。また人間とサタンの間にうらみを置きたまいます。これはサタンの詛いでした。けれども人間の祝福でした。

 いま人間は再度サタンと結合いたしとうございます。再度サタンにいざなわれてサタンに従いとうございます。けれども人間に与えられたる祝福は何ですかならば、その結合を解きてサタンと人間の間にうらみを置かれたことです。どうぞ私共の心のうちにそんな祝福を受け入れることを願います。全くサタンの結合を棄てて、サタンの誘いを棄てて、ただサタンに敵して神に従う道を踏みとうございます。これは幸福のみちです。バプテスマを受けるときに、私共はそんな途を踏むことを約束します。どうぞそんな心を抱きなさい。詩篇九十七篇十節をご覧なさい。『ヱホバをいつくしむ者よ、悪をにくめ』。永遠とこしえ悪に敵せよ。私共は救われたる者でありますならば、大いなる戦いの中にあります。悪を憎みサタンに戦う戦争のうちにるべき者です。必ず平安に生涯を暮らすことはできません。永遠に信仰の戦争を戦わねばなりません。またそのためにしゅに従いて十字架を負わねばなりません。自己を棄てて苦しみを得なければなりません。

 この二人はサタンと結びついていますならば、望みがありません。全くサタンの結合を解きませんならば望みがありません。今それについて自己をだます者が多くございます。幾分かサタンと交わりてサタンの誘惑を喜ぶことがありましても、救われることがあると思います。けれどもこれはまたサタンのいつわりです。全くサタンの結合を解きませんならば、神もそんな人を救いたもうことができません。

 そうですから永遠に女のすえと蛇のすえの間に戦いがあるはずです。すなわち教会とサタンの間に戦いがある筈です。いま教会の有様を見ますならば、幾分かこの世と交わります。この世のものを慕います。そのために教会は勝利を得ません。教会は全くこの世の交わりを棄てて、サタンのいざないを棄てて、サタンと戦わねばなりません。また戦争は気楽なことではありません。戦争はお客をするような面白い気楽なることではありません。救いの道を踏むことは力を尽くし苦しみを忍んで戦うことであります。ここに『おまえのすえと女のすえ』とあります。サタンのすえと神のすえと言われます。サタンのすえの間に人間もあります。マタイ福音書十三章三十八節をご覧なさい。人間の間に悪魔の子も天国の子もあります。またその間にいつでも戦いがある筈です。悪魔の子たる人間はいつでも神の子を迫害します。また神の子はいつでも悪魔の子を救いに導きとうございます。その間にいつでも戦いがあります。ヨハネ福音書八章四十四節ヨハネ一書三章八節をご覧なさい。そうですから悪魔のすえのうちに人間もあります。

 この女のすえと蛇のすえとはただいま話しましたことを指します。けれどもおもにキリストと悪魔とを指します。女のすえは格別にキリストを指す言葉です。この女より救いぬしが起こることを約束したまいます。また格別に救い主がその戦いを戦って勝利を得たもうことを約束します。

 その戦いの時に『おまえは彼のかかとを砕くだろう』。すなわち救いぬしは傷を得たまいます。しゅはゲツセマネのそのにおいてまたカルバリやまにおいてサタンの傷を得たまいました。けれども勝利を得るように予言したまいます。『彼はおまえのかしらを砕き』。これは全き勝利のことを指します。それによってアダムとエバは神が全くサタンとサタンのわざをこぼちたもうことを聞きました。今サタンの働きのために、苦しみと悲しみを得ました。神の円満なる幸福を失いました。けれども彼らはこの神の蛇に対するのろいを聞きましたときに、神は漸次彼らのために勝利を得たもうことを知りました。神はまたアダムとエバに話したまいます。けれどもこの二人に恵みの約束を与えたまいません。サタンの詛いを聞かしめたまいましたから、この二人に神の恵みがわかりました。そうして心のうちに望みが起こりました。

 私共は十字架を見ますならば、格別にサタンが砕かれたことを見ます。コロサイ書二章十五節ヘブル書二章十四節をご覧なさい。そうですから十字架を見ますならば、しゅの大いなる勝利を感じとうございます。またそのために悪魔が全くこぼたれたることがわかります。またそのために自己を棄てて、全く聖潔を受けることができます。いまただ主と主の十字架を信ずる者のみがその勝利にあずかることができます。けれども未来において主は十字架をもってサタンの国を毀ちたまいます。私共はその大いなる日を見ることができます。

 そうですから罪人つみびとの望みの源は何ですかならば、神が罪を憎みたまいます。けれども罪人を愛したもうことです。神はサタンと罪人の間に入りたまいました。そうして罪人をサタンの誘惑より救いいだしたまいました。そのためにご自分が傷を得たまいました。それによってしゅは罪人を救い出したもうことができました。また全くサタンの国をこぼちたもうことができました。そうですから神は再度エデンのそのを起こしたもうことがわかりました。いまこの二人は幸福を失いました。神は勝利を得て再度その幸福を得させたもうことを聞きました。イザヤ書五十一章三節、エゼキエル書三十六章三十五節をご覧なさい。そうですから神はこの荒れ野のような世を、再度エデンの園にならしめたまいます。これは私共の大いなる望みです。その勝利を望んで今働きます。


十 六 節

 ここで救いぬしは女のすえであることがわかります。またその子を産むことによって大いなる苦しみを受けることを聞きます。女は二つのことを聞きます。一方において、子を産むことによって救い主がきたります。一方において、子を産むことによって苦しみを受けねばなりません。そうですから子を産むことはいつでも罪の記念となります。またその罪より救われることの記念となります。

 子を産むことによって苦しみを得ます。けれどもまされる喜びと望みを得ます。

 私共は再びこの世にしゅを臨ませる働きを務める者です。またそのために産みの苦しみをせねばなりません。私共は涙を流すほどの苦しみをもって、罪人つみびとを探し求めませんならば、何の結果もありませんと思います。私共は罪人に救いぬしを示しとうありますならば、必ず苦しみを負わねばなりません。


十七〜十九節

 アダムは始めに妻の言葉を聞いて罪を犯しましたという申し訳をいたしました。けれどもそれは申し訳とはなりません。かえってそれが罪の根本となりました。そのために神はなおなおのろいをなしたまわねばなりません。アダムは妻の言葉を聞きましたゆえと申して刑罰を逃れんと思いました。けれどもそのために神は刑罰をお与えになりました。私共はほかの人に誘われて、ほかの人の言葉に従って罪を犯しましたならば、それによって少しも申し訳がありません。ほかの人の手本に従って罪を犯しましたならば申し訳はありません。私共は神の言葉に従って罪に反対せねばなりません。神は私共各自めいめいに意志の力を与えたまいましたから、永遠に罪を避けねばなりません。

 今までアダムはこの世の王でした。神は直接にアダムをのろいたまいません。けれどもその領分を詛いたまいました。さりながらそこにも神の恵みを見ます。一章二節を見ますならば、この世の罪のために形なくむなしく闇が水のおもてをおおう有様となりました。神は新しき創造をなしたまいました。いま再度罪が入りました。けれども今の詛いは軽うございます。この世は一章二節のごとき有様とはなりません。荒れ野となりました。けれどもほんとうに形なくむなしき闇の世とはなりません。詛われましても実を結びます。人間のために食事を供えます。そうですから神は詛いを言いたまいました時にも恵みを施したまいました。人間はそのように恵みを受けるべき者ではありません。いま私共は毎年収穫を受けるべき者ではありません。罪のためにこの世は詛われて、砂漠のようになる筈でした。けれども神は刑罰を与えるときにも、恵みを覚えたまいました。何も受くべからざる人間にも、なくてならぬ食事を与えたまいました。

 ただいま共に研究しましたことは、ただにアダムとエバのことのみではありません。私共も神に対して罪を犯しました。私共はこのようにのろいを得たる者です。また詛われるべき者です。けれどもこの功なき詛われるべき者でも、神の恵みを得ました。また約束を得ました。望みを得ました。どうぞ自分の罪と、自分の受くべき詛いとを考えて、なおいっそう神の恵みを覚えとうございます。

 罪の第一の結果は苦しみです(十七節)。第二の結果は失望です(十八節)。善きたねきます。けれどもいばらができます。失望です。第三の結果は労して働くことです(十九節前半)。第四の結果は死です(十九節後半)。実に罪の結果の恐ろしきことがわかります。これを深く考えますならば、罪人つみびとの恐ろしき有様がわかります。苦しみもあります。失望もあります。苦労もあります。死もあります。十八節にいばらとあざみがあります。私共はいばらとあざみを見ますならば、いつでも人間はこの世を亡ぼしたことを覚えます。これは罪の滅びの表面うわべの結果です。いばらは完全に成長しますならば葉であるべきものです。けれどもその葉となるべきものが完全に成長しませずして、いばらとなったのであります。実に罪のために葉はいばらとなります。人間の心のうちに同じことがあります。苦き思想のいばらは罪の結果です。しゅはこの罪の表面の結果をご自分に受けたまいました。いばらの冠を戴きて、罪の結果と罪ののろいを全くご自分の身に受けたもうたことを示したまいました。主はこの冠を戴きたまいました時に、ご自分は罪人の王、罪人のかしらであることをあらわしたまいました。そうしてすべての罪人の罪をご自分の身に負いたまいました。そのためにいばらがまた葉になります。イザヤ書五十五章十三節をご覧なさい。神は全く勝利を得たまいます。この罪の詛いを全く取り除いてまたうるわしきを造りたまいます。また心の中に種々ないばらとあざみがあります。けれども救いによってそういうものがことごとくなくなり、美わしき有様となります。

 『あなたは一生、苦しんで地から食物を取る』。人間は喜んで食を得るはずです。食事の時は喜楽よろこびの時であるはずです。けれども罪のためにこの喜ばしき時も苦しみの時となりました。神はこれにも勝利を得たまいます。使徒行伝二章四十六節をご覧なさい。この人々は全く救いに与りましたから、苦しんで食を得ません。神の救いのために喜んで食を得ました。このように共に食することは喜びの時であるはずです。うるわしき交わりをする時である筈です。聖霊に満たされる者は必ずその喜びを頂戴します。

 『苦しんで食物を取る』。伝道の書を見ますれば、そのことの意味が分かります。神は私共人間を喜ばせとうあります。けれどもこの書を見ますれば、人間は万事において不満を得ます。神は食事を得ることによって人間を喜ばせとうございます。けれどものろいのために苦しみを得ます。たとえば一章二、三節、二章二十三節をご覧なさい。この創世記三章十七節の光をもって伝道の書を読みなさい。また万事のくうくうなることは何故なにゆえですかならば、罪の結果です。

 『土に帰る』。これはちょうど神の言いたもう通りでした。三章四節に蛇は『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう』と申しました。けれども神の言葉のまことを見ます。アダムは直ちに死にません。けれどもついに死なねばなりません。

 けれども神は死にも勝利を得たまいました。またかえって死によってなおなお大いなる恵みを与えたまいました。死によって人間はよみがえりを得ます。また天国にくことができます。死がありませんならばそういう幸福を受けることができません。このように神はそののろいによっても人間を祝福したまいます。またそれのみならず、死によって救いぬしは救いの道を備えたもうことができます。ただ死によって罪の詛いが取り除かれます。そうですから死をもって死を亡ぼしたまいます。またこの詛いをもって罪とサタンを亡ぼしたまいます。


二 十 節

 エバの名の意味は生ける者です。それによってアダムが神の恵みと神の約束がわかりましたことを示します。アダムは神の前に立って神の蛇に対する宣告を聞きましたから、生命いのちを得るという望みを抱きました。罪のために死にかけています。けれどもこれから神の約束のごとく、サタンが砕かれて再度生命を得るという望みを抱きました。神ののろいを得ました。けれども祝福を得る望みを持っております。神の詛いを得て土に帰らねばなりません。けれども生命の望みを得ましたから、その望みのしるしとして妻をエバと名付けました。

 アダムは神を離れることの苦しきことを味わいました。けれども今、神の恵みの言葉によって再度生命と幸福と交わりを得ることを望みます。アダムはただそれを信ずることのみではありません。その妻にもこのように名を付けましたことによって、その信仰を言い表しました。アダムは信仰も告白もありました。またそれによって、神は死ぬる者に生命を与えたもう者であることを信ずることを示します。これはいつでも信仰の大切なることです。ローマ書四章十七節をご覧なさい。死にし者を生かす神を信ずることは、ほんとうの信仰です。もし私共の信仰にこの原理がありませんならば、ほんとうの信仰ではありません。ほんとうの信仰はいつでも死にし者をよみがえらせる神を信ずることです。また二十一節において神はなおなおアダムを教えて救いの道を示したまいます。


二 十 一 節

 そうですから全く自分の前に不安心を取り除きたまいます。この二人は衣を着て憚らずして神の前に立つことを得ます。以前にこの二人はを着て神の前に立ちとうありました。けれどもできませんでした。いま神は全き覆衣かつぎを与えたまいました。この二人は神の眼よりただ最も恐ろしき恥を覆いとうございました。けれども神は全くその身を蔽いとうございます。罪人つみびとの全体を蔽いたまいとうございます。ルカ福音書十五章二十二節をご覧なさい。これは同じ霊の意味であります。すなわち神は帰ってきました放蕩息子にいとうるわしき服を着せて、全く蔽いたまいます。神はご自分の義、ご自分の聖を与えたまいます。私共はそんな義の衣をもって憚らずして神の前に立つことを得ます。ピリピ書三章九節をご覧なさい。パウロはそれを願いました。彼はキリストの義を着て神の前に立つことを願いました。私共は自分の義を依頼しますならば、永遠に不安心があります。けれどもキリストの全き義を依頼しますならば、安心してしゅの前に立つことを得ます。ローマ書九章三十節十章三節をご覧なさい。言葉を換えて言いますならば、ユダヤ人は自分のために裳を造ろうとありました。そうですから神の全き義を受け入れません。自分の小さき義を頼んで神の全き美わしき衣を捨てます。

 またこの衣は皮衣かわごろもです。それによって神はこの二人に教えたまいました。必ずその時に神はこの二人に犠牲いけにえみちを教えたまいました。また犠牲によって神に近づくことができることを教えたまいました。神はそれを教えたまいませんならば、人間はそれを考えなかったでしょう。神の造りたまえる者を殺しますならば、神を喜ばすことができぬことを知っております。そうですから神は必ず人間にその途を教えたまいました。人間はその時に自分の思想に従いてけものを殺す権威がありません。神がそれを教えたまいませんならば、人間は必ずできませんでした。けれども神は犠牲の途を教えたまいました。その皮を取りて皮衣を造りてそれを人間に着せたまいました。その羊より皮をはぎて裸なるアダムに着せたまいました。コリント後書五章二十一節をご覧なさい。これは同じことです。神はしゅの義を取りて裸なる人間を蔽いたまいます。主が死にたまいませんならば私共はその義を頂戴することはできません。けれども罪を知らぬ者が罪人つみびととなって死にたまいましたから、私共は神の前に義人となることができます。

 この二人はこの衣を着て神の前に立つことを得ました。その衣を見ていつでも罪の結果は死なりと覚えましたことでしょう。そうですからその衣は永遠に罪の記念となりました。また救いの記念となりました。アダムはそれを着て少しも誇るべきところはありません。私共は永遠に限りなき時まで誇るべきところはありません。いつでも自分の罪と神の恵みを記念せねばなりません。天国にきますときに、自分の義を見て誇りませずして、ただ自分の罪と神の大いなる恵みを記念します。


二十二〜二十四節

 神はもはやこの二人に救いのみちを示したまいました。またそれによって恵みと愛をあらわしたまいました。けれども同時に懲戒を与えたまわねばなりません。罪を犯しましたから、罪の赦しを得ましてもその罪のために懲戒を得なければなりません。神は人間にきたるべき救いぬしあがないを示したまいました。けれどもそのために直ちに罪の結果を全く取り除きたもうことはできません。漸く人間はまたパラダイスに住まうことができます。けれども永い間罪の苦き味わいと刑罰を受けねばなりません。

 人間は神の賜物を喜びました。また格別にほかの賜物すなわち智識を求めました。そうですから神の賜物を取り除きたまわねばなりません。ご自分を求めしめんがために、賜物を取りたまわねばなりません。神はいつでも私共にご自分を求めしめたまいとうございます。私共はただ神の賜物を求めそれのみを喜びますならば、神はご自分を求めしめんがためにその賜物を取り除きたまいます。そうですから今エデンの幸いが取り除かれます。神は時によって愛と恵みのためにその幸福を与えたまいました。人間のためにそれを与えたまいました。今同じ愛と恵みのためにそれを取り除きたまいます。神は喜んで私共に幸福を与えたまいます。うるわしき経験を与えたまいます。けれどもその幸福と経験のみに目を付けて、神を求めませんならば、神はそれを取り除きたまいます。神は必ずわけなくして幸福を取り除きたまいません。必ず訳があります。また必ずこのように愛のためにそれを取り除きたまいます。私共をなおなお恵まんがためにそれを取り除きたまいます。

 『命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない』。これは神の恐れです。人間はそのままに限りなく生きますならば、実にわざわいです。呪われたる有様にて、神を離れたる有様にて、限りなく生きますならば地獄です。また神は人間を救わんがために、第一にその恐れを消すために、人間を生命いのちの木より追い出さねばなりません。また人間は死なねばなりません。死によってなおなおうるわしきよみがえりを得ます。死にませんならば永遠に神とともに住むことができません。そうですから神はこの二人をさばきたまいます。けれどもその審判さばきは実に愛の審判です。なおなお美わしき恵みを与えんがための審判です。

 アダムは神の家より追い出されました。エデンのそのは格別にアダムの家とは言われません。格別に神のいましたもうところでした。アダムはそこより追いいだされました。八節を見ますれば、それはアダムの願望でした。『しゅなる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した』。二人はそれを願いました。現在の有様にて彼処かしこにとどまることは苦しみとなります。罪人つみびとは天国に入りますならば、地獄よりも苦しくあります。罪人は神より追い出されることを願います。神に近づくことは罪人の苦しみです。このエデンの園は至聖所のごとき場所でした。後からアダムはその周辺に住まいました。エデンというところに住まいました。けれどもエデンの園より追い出されました。エデンに住んで犠牲いけにえを献げましたときに、たぶんエデンの園の入口にていたしました。彼処にこのおのずから回るほのおのつるぎがありました。これは神の在したもう処の表面うわべの印です。たぶんこの二人は彼処に壇を造って献げ物をいたしました。

 四章十六節を見ますれば、カインはそのところを出ました。カインはエデンを出ました。そうですから神に近づくことはできません。ほんとうに神に献げ物を捧げることはできません。実に彼は神の前を出ました。

 かの天幕の有様を見ますならば、ちょうどその有様がありました。人間が入ることのできません至聖所もありました。彼処かしこに神のほのおのつるぎがあらわれました。神の栄光が顕れました。人間は神に近づきとうありますならばその前に献げ物を捧げねばなりません。またその周辺に神より追い出されたる者が住まいました。癩病人らは神の陣営を離れて住まねばなりません。カインがエデンを離れて住まいましたように、神に追い出されました者は、神の住まいを離れて住まねばなりません。

 創世記二章を見ますれば、人間は親しく神と交わることができました。神を友達とすることができました。神の愛がわかりて神と相語らうことができました。けれどもいま罪のために、人間と神の間に障隔ができました。神のいましたもうことのしるしがあります。この徴は何ですかならば、ほのおのつるぎです。神の審判さばきの徴、神の怒りの徴です。人間は罪のために神の怒りを経験しました。心のきよき者は神の慈愛がわかります。神と親しく交わりて神とともに歩むことができます。また神のしき愛に満たされて、幸いなる生涯を暮らすことができます。けれども罪のある者は神の恐ろしき怒りを経験します。神の愛を感ぜずして、神の焔のつるぎを経験します。出エジプト記二十四章十五〜十七節をご覧なさい。遠く離れたる者の眼前に、神の在したもうことは燃ゆる火のごとくでありました。けれども近づいて親しく交わったモーセにはそういう経験はありません。神の前に出ることはモーセの幸福でした。モーセはそれによって神の愛を感じました。ダニエル書七章九節、十節前半をご覧なさい。神の宝位の前にその周辺に神の審判の印、神の栄光の印があります。罪人つみびとはその周辺にある栄光を感じて恐れます。けれども救われたる者は神の聖旨みむねを知ることを得ますから、神の慈愛と恵みを深く感じます。

 私共は如何にして回るほのおを通して、幸福と神に至ることができましょうか。人間はこのように幸福より追い出されました。如何にして再度その幸福を得ましょうか。如何にして再度神に至ることができましょうか。ほかより見ますれば実に望みがありません。また人間は力を尽くし精を出してその回る焔を通りとうございます。けれども自分の力ではできません。自分の智恵、自分の知識にて神に至ることができません。人間の宗教、人間の道徳、人間の種々なる儀式にてはできません。すべてそういうことは無益です。私共は如何にしてその焔を通ることができますかならば、しゅイエスが血をもってみちを開きたもうたゆえであります。主はご自身の身においてこの焔のつるぎの傷を受けたまいました。またその流されたる血をもってその焔を消して私共のために救いの途を備えたまいました。私共は今その途を踏んで神に近づきませんならば、必ずほかの途がありません。自分の力、自分のもがきにてその焔を消して幸福に到ることはできません。けれどもこのける途によって、この流されたる血の道のために、私共は再度神に至ることができます。神の審判さばきでありませずして、神の慈愛を感ずることができます。神は旧約時代にもそれを示したまいました。人間は神に近づきまする時に、献げ物を捧げました。神はそれを受け入れたることを示すために、天より火をくだしたまいました。その火は犠牲いけにえを打ちました。それを焼き尽くしました。その意味は何ですかならば、人間の身代がありますならば、神の焔のつるぎがその身代を刺します。そうして罪人つみびとはその身代のために救われて、再度幸福に至ることができます。神の怒りの火、神の焔のつるぎは主イエスを打ちました。そうですから私たちは再度神に近づくことができます。再度幸福と栄光に至ることができます。



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