第 二 章



一 〜 三 節

 神の聖旨みむねが成就されましたからいま安息になります。いつでもそうです。人間は平安を求めます。けれども神の聖旨を行いますならば安息が参ります。ここに神の聖意みこころが完全に成就されましたから安息が参ったのでございます。霊においてもいつでもそんな順序です。神の聖旨に降参しますならば安息を頂戴します。

 そうですから神はその第七日を祝したまいます。それはいかなる意味ですかならば、その第七日を恵みの日とならしめたまいます。格別に私共はその安息日に恵みを受けることができます。またそれのみではありません。それをきよめたまいました。それはいかなる意味ですかならば、格別なる用事のためにご自分のために用いられるためにそれを区別したまいました。日曜を守ることはモーセの十戒の時よりではありません。彼の時には憶えよとあります。人間は太古より日曜について命令を得ました。また格別に罪がこの世に入りませんうちに人間はこの命令を得ました。全き有様におりましても、人間は六日働いて七日目に休まねばなりません。またこれは神の性質にかなうことですと思います。また人間の性質にかないます。それに逆らって安息日を守りませんならば、自分の性質に逆らいますから必ず損があります。


四 〜 六 節

 ほかの方面より神の創造の話を見ます。四福音書において主の一代記の四つの話を見ますように、神の最初の創造の二つの話があります。この二つの話はほかの方面より神の創造を見ることです。

 そうですからすべてのものは神の創造でありました。自然にできたることはありません。ことごとく神の働きでありました。


七  節

 はじめに人間を造りたまいました。それから生命いのちいきを吹き入れたまいました。二つの階段がありました。第一の階段は動物のように人間を造りたまいました。生命がありました。けれどもまだ神の生命によって霊魂がありませなんだ。第二の階段において霊魂を与えたまいました。神と交わることのできる霊魂を与えたまいました。私共はそのように貴きものです。動物のごときものではありません。動物よりは貴きものです。神のごときものであります。けれどもやはり土のちりをもって人間を造りたまいました。私共はいつでもそれを覚えねばなりません。そうですから人間は果敢はかなき者であります。詩篇百三篇十四節をご覧なさい。そうですからそのために神はなおなお私共を顧みたまいます。私共の塵なることを思いてなおなお母が子を顧みるがごとく私共を顧みたまいます。それは幸いです。創世記十八章二十七節をご覧なさい。そうですから自分もそれを覚えて、自分は無きがごときものである、自分は神に近づくべき者ではないと覚えねばなりません。ヨブ記四十二章六節を覚えなさい。そのようにまったく自己をひくくし、自己の有様をわかりまして、砕けたる心をもって神の前に現れねばなりません。伝道の書三章二十節、十二章七節をご覧なさい。そのように自分の塵なることを覚えねばなりません。

 神はご自分のかたちにかたどりて、私共を造りたまいました。これを覚えますならば、神に感謝せねばなりません。その貴き有様を覚えて、謹みて歩まねばなりません。また自分の塵にして、果敢はかなき弱き、価値なき有様を覚えて、謙遜なる心をもって神の前に歩まねばなりません。

 神はここで造られたる人間に生命いのちを吹き入れたまいました。けれども人間は罪のためにその生命を失いました。そうですから神は再度生命を吹き入れて、新たにその神たる霊を与えたまいました。ヨハネ二十章二十二節をご覧なさい。再度神は人間に生命のいきを吹き入れて、高尚なる生命を与えたまいました。使徒行伝二章二節をご覧なさい。これは同じことです。神は生命の気を吹き入れたまいました。その霊魂に再度貴き性質の生命を与えたまいました。


八〜十二節

 これは歴史の中に唯一の幸福の時でした。平安と喜びの時でした。喜びと幸福を損なうものは一つもありませんでした。天国のように喜ばしき時でした。神はそれを見て喜びたもうことができました。その聖手みてわざを喜びたまいました。また何故なにゆえにそのように幸福でありましたかならば、神に逆らうことは少しもなかったからです。いずこにも神の聖旨みむねばかりが行われました。ここに神の安息の経験があります。いつでも神の安息を得ますならば幾分かこういう経験があります。神はその時にこのアダムとエバにほんとうの安息を与えたまいました。神は私共にもこのような安息を与えたまいとうございます。ヘブル書四章四〜九節をご覧なさい。その意味は何ですかならば、四節のごとく神は人間のために安息を与えたまいました。けれども六節のごとく不信によって入りませんでした。神は創世記二章の時から安息を与えたまいました。けれども人間はそれを失いました。神はイスラエルびとのためにも安息を造りたまいました。けれどもイスラエル人も不信のためそれにいたりません。そうですから、いまでも残ってあります。先に福音を聞きし者は入りませんでしたから、私共のために残ってあります。私共もその安息に入ることが出来ます。この創世記二章ヘブル書四章に書いてある安息の有様を見ます。この安息が私共のために残ってあります。私共は心の中にこのような安息を経験するはずです。その安息の大切なる特質は次の通りであります。

 第一、神を知ることです。その安息の中に人間は不断たえず神と交わり神の聖声みこえを聞き神を知ることを得ます。ヨハネ十四章二十節をご覧なさい。すなわちペンテコステの霊を受ける日にそのように神を知ることを得ます。

 また創世記一章二章をくらべますならば、一章において神はただ神と言いたまいます。二章四節よりエホバ神(しゅなる神)と言いたまいます。原語にこの二つの名前があります。原語にて神の意味はやはり造りぬしです。また格別に神がこれを造りたもうことを指す名前です。また神のこれをなしたもうことを指す名前です。けれどもエホバの意味は何ですかならば、格別に人間と契約を結ぶことを指す名前です。愛をもって人間をご自分に引き、また仁慈をもってご自分が人間に近づきたもうことを指す名前です。旧約のエホバと新約のイエスとは同じ性質であります。神という言葉は神のなしたもうことを顕します。エホバという言葉は神がどういう御方ですか、すなわち神の性質を顕します。そうですから、エホバを知ることは神を知ることよりは美しうございます。ここでエデンのそのの話においてはじめから神のみの名が付けられておりません。エホバ神という名が付けられております。神の安息を経験しますならば、その時からエホバを知ることを得ます。神のなしたもうことのみではありません。神ご自身を知ることを得ます。

 第二、ここにそのがあります。この前に一章には草木がありました。けれども自然に生えてあります。いま園があります。すなわち格別に巧妙をもって造られたる処を見ます。私共は神の安息に入りましたときから、神のために実を結びます。また神のために樹のようにうるわしきものです。けれども神のまったき安息に入りましたときから、全き霊の実を結ぶことができます。巧妙をもって造られたる者のごとくに円満なる実を結ぶことができます。新たに造られたる園のように美わしき信者の生涯を暮らすことができます。雅歌四章十六節五章一節をご覧なさい。ここにも神の園のごとき心霊上の経験があります。またここにも神のために美わしき実を結ぶことができます。私共は心のうちに神の安息を経験いたしますならば、私共は神の園となります。また雅歌五章一節のごとく主はその園に入りそこに宿りたまいます。

 けれどもそのそのを耕さねばなりません。それを造らねばなりません。神はそのことをアダムに命じたまいました。十五節のごとくアダムをエデンの園に置きたまいました。アダムはその時に何もせずしてただ遊んでったのではありません。その時にも神のために働きがありました。人間の幸福は何ですかならば、働くことです。ただ気楽に生涯を送ることは幸福ではありません。働きは神の恵みの賜物です。その時に神はアダムにこの賜物を与えたまいました。またその園を治めしめたまいました。

 私共は未来において天国にきました時に、ただ気楽に安息することのみではありません。神の恵みによって働くことをも得ます。働きは神の恵みの賜物です。労して働くことは罪ののろいです。いま罪が入りましたから、人間は労して働かねばなりません。けれども罪が入りませんでも働かねばなりません。それは人間の幸いです。

 またそのほかに霊の意味もあります。神は私共に全き安息を与えたまいましたならば、何もしませんでもよろしいでしょうか。聖書を読むことをやめ、祈禱をやめ、集会に出ることをやめる方がよろしいでしょうか。全き恵みを得ましたから、かかる方法に従う必要はありませんでしょうか。何人なにびとも幾分か心のうちにそういう酵母が入ります。もはや聖霊を得ましたから今までのごとくに熱心に神を求めんでもよろしいというような誘惑が参ります。私共はそののようなうるわしき経験を得ましたならば、それを造り、それを耕して守らねばなりません。そうですから私共はどうぞ神のために全き実を結び、神のために美わしき園を造りたいものです。

 第三、ここに神のかわを見ます。一章において海があります。塩があります。荒き波があります。けれども神の安息に入りし者は海のような荒き経験がありません。神の河のごときうるわしき経験を持っております。

 またそのかわはただ自分のためのみではありません。この河は四つの方面に別れて全世界を潤しました。私共は心のうちに神の河を経験いたしますならば、私共より河のごとく生命いのちの水が流れ出ます。ノアの洪水のために世界の形状がまったく変わりました。そうです。今そのような河がありません。けれどもその時にエデンの園よりいでたる河は四つに別れて全世界を潤しました。

 このかわについて度々約束を見ます。詩篇三十六篇八、九節四十六篇三、四節をご覧なさい。ここに海の荒き波の代わりに、心のうちに静かに流れる神の河があります。その人の四周に海のごとき荒き波がありましても、心の中に自分を喜ばし、自分を静める平安の河があります。詩篇六十五篇九節をご覧なさい。神の河によって神は私共を恵み、私共を喜ばせたまいます。またその河は恵みにて溢れております。『神の川は水で満ちている』。いま表面うわべでこの世にその川を見ません。けれども後にもう一度表面でこの川を見ることができます。エゼキエル書四十七章一〜十二節をご覧なさい。神の川はそのように力があります。救いの力、癒しの力があります。私共はしゅの恵みによって今その川を飲むことができます。それを経験することができます。それは神の新しき恵みの泉です。たえずそれによって新しき泉、新しき恵みを頂戴することができます。詩篇八十七篇七節をご覧なさい。

 第四、アダムは彼処かしこにて権威を得ました。造られたるものの上に権威を持つことができました。十九節をご覧なさい。アダムは名を命じました。そうですからアダムはその生き物の性質をわかりました。知識と理解がありまして、直ちにおのおのの性質をわかりました。しゅはシモンを見たまいましたときに、その性質を悟りてペテロと名付けたまいました。アダムはこのようにその性質をわかりまして、その動物に名を付けました。神は最初に人間にそのような悟りを与えたまいました。私共は罪のためにそのような悟りをも失いました。けれども未来においてまたその悟りを得ます。いま実に鈍きものとなりました。けれども後に再度そのような悟りを得るでしょう。これは学んで覚える悟りではありません。見てすぐに覚える悟りでありました。その名を命ずることによってただ知識をあらわしたるのみではありません。権威と力をも顕しました。名を命じますならば、そのものは自分のしもべのようです。名を命ずる権威がありますならば、その者に命令する権威もあります。アダムは彼らに名を命じました。彼は実に造られたるよろずのものの上に権威を持つことができました。いま私共はそれを失いました。性質を悟る知識を失いましたように、その権威も失いました。けれども神は再度人間に、そんな力を返したまいます。これは実に幸いです。

 当時アダムはこの世の中に、神の立てたもう王でした。また仲保なかだちでした。この動物は直ちに神の聖声みこえを聞くことはできません。神を悟ることもできませんけれどもアダムはすべてのもののために仲保と祭司でした。必ずその時にアダムはすべての動物に語り合うことができました。三章においてエバは蛇と語り合うことができました。そのようにたぶんすべての動物と語り合うことができました。

 私共は神の安息に入りますならば、必ず権威もあります。悟りもあります。また必ずすべて造られたるものに対して愛があります。私共の心のうちに神の安息がありますならば、必ず以前より深く神の手のわざを示します。以前より深く景色のうるわしきを感じます。少しも動物を害しませずして、できるだけそれを慰めます。アダムは神の造りたもうたものを愛しましたように、私共もすべてのものが愛する父の聖手みての業ですから、それを愛します。

 第五、交わりと愛があります。二章二十三節をご覧なさい。エバが与えられました。アダムは動物の上に権威を張り、幾分か交わることができました。けれどもそのために心の満足を得ません。自分の性質を持っている者がなければなりません。自分と同じ位の者がなければなりません。動物はアダムの性質よりはひくい者です。アダムは自分とまったく交わることのできるために、自分と同じ貴き位を持っている者がなければなりません。神は今そのような者を与えたまいました。今まで神はアダムにすべてのうるわしきものを与えたまいました。けれどもいま愛する者を与えたまいました。これはすべてのものにまされることです。

 愛すべき者を与えたもうたことは、すべての恵みよりすぐれたることです。神は私共にそのように勝れたる恵みを与えたまいます。ただ罪の赦しと永遠の生命のみではありません。愛すべきひとり子を与えたまいました。今までアダムは位にきました。けれどもいま愛すべき者を与えられました。アダムの許嫁いいなづけの日は即位の日より遙かに勝れています。

 位にくことによって喜びを得ました。聖なる権威を張ることによって、神のために働く権威を得たることによって、喜びを得ました。けれどもこの日はそれよりすぐれたる楽しみの日です。今ほんとうに心の満足を得ます。私共は聖霊によって力を頂戴します。また権威を頂戴します。けれども私共がほんとうに愛すべきしゅイエスを得ますならば、それは何よりも勝れたる恵みであります。ここにアダムの位に即いたことと許嫁いいなづけとは親しき関係があります。私共は主の再臨の時に同じ関係を見ます。黙示録十九章六、七節をご覧なさい。その時と主の聖国みくにが来ることと主の婚姻の時と親しき関係があります。

 以上の五箇条を見ますならば、私共が罪のためにいかなる幸福を失いましたかわかります。罪は何程いかほどに恐ろしきかわかります。またそれを深く感じますならば、未来において再度パラダイスに入ることができることを信じてそれを慕う心がありますならば、今でもできるだけ全き愛を経験いたしとうございます。全き安息と喜びと力と愛を経験いたしとうございます。

 これはみな神の慈愛のしるしでした。神は何故なにゆえ人間に対して幸福を与えたまいましたか。何故にそのような円満なる国を与えたまいましたか。何故に全き慰めを与えたまいましたか。それはただ人間を愛する愛のためです。どうぞ創世記二章によって神の慈愛を感じ、いよいよ深くその聖意みこころを悟ることを得なさい。神はその時も今も同じ性質を持っていたまいます。今でもそのように私共を喜ばせたまいとうございます。今でもこのように私共に幸福を与えたまいとうございます。どうぞ神の慈愛を信じてつぶやくことなく、失望することなく、その愛の光の中に慰められて生涯を送りとうございます。恵みを受けることは何ですかならば、目を開いて神の慈愛を悟ることです。


十 六 節

 それによって神のゆたかなる恵みをわかります。すべての樹の実をくらうことを得ます。


十 七 節

 ただ一つの命令のみがありました。その時にも神は人間に律法を与えたまいました。その時にも人間は律法のもとにありました。けれどもそれはただ幸いのみでありました。それによって神に自分の忠義を示すことができます。それによって神はなお恵みを与えたまいます。

 『しかし善悪を知るの木からは取って食べてはならない』。たぶんあとから神はその樹をも与えたまいました。けれどもその時にその樹をくらいませんことによって、神に服従をあらわすことができました。

 『それを取って食べるときっと死ぬであろう』。やはりその時から死にかけておりました。新約において、彼を信ずる者は生命を得べければなりという言葉を見ます。やはりその時から生きております。同じようにこの命令に背きましたときから、死にかけて神ののろいのもとにいます。死ぬることはまったく生命を失って消えることではありません。死ぬることは幸福を離れることです。神の恵みを失うことです。すべての恵みの源たる神を離れることです。これは死です。そのために漸次腐って参ります。


二十一節〜二十三節

 これによって神は私共に夫婦の親しき関係を与えたまいます。夫婦はほんとうの一つとなります。アダムはこのけものらを見ていました。また幾分か彼らと交わることができましたでしょう。必ず談話することができました。必ずこの獣はみなアダムに従いました。けれどもほんとうに友とすべき者がありません。神は今ほんとうの友を与えたまいました。その女はほんとうに男と親しき交わりのできる者です。位が同じことです。区別がありませずして、一緒にすまう筈です。また神はこれをもって私共にキリストと教会の親しき関係を教えたまいます。エペソ五章三十〜三十二節をご覧なさい。そうですからこの話はキリストと教会の例話です。キリストは天国において天使と話すことができます。また天使は必ず服従しました。けれども神の子はほんとうに交わりのできる者はありません。しゅは新婦を求めたまわねばなりません。神は人間を主イエスの新婦となしたまいます。またそれを得るために、この二十一節のごとくに、アダムが眠りにつきましたごとくに、神の子も死の眠りに就きたまわなければなりません。また自分の傷によって新婦を得たまいました。

 エバがほんとうにアダムの肉の肉でありましたごとくに、しゅの新婦もご自分の肉の肉です。ご自分の霊の霊です。また何のために造られましたかならば、主と交わりて主を慰めるためでありました。

 私共はいまこの世にいる間に、幾分かその目的を達することができます。幾分かしゅ聖旨みむねを喜ばせ主を慰めることができます。けれども後の世に私共の貴き位は何ですかならば、主とまったく一つとなりまして、主と円満なる交わりをすることです。詩篇四十五篇十、十一節をご覧なさい。私共はいま聞き、目を注ぎ、耳を傾けねばなりません。ほんとうにこの心の中にこの貴き位を深く考えねばなりません。またそれに従ってこの世にけるものをまったく棄てて、ただ主のものとして生涯を暮らさねばなりません。神はそれを見たもうて私共を喜びたまいます。それによって慰めを得たまいます。

 そうですからこの二章を見ますならば、神は人間に実に完全な楽しみを与えたまいました。アダムはその身分も幸いでした。すべてなくてならぬものを豊かに与えられました。実に人間は幸いでした。人間は愛のために、自分の感謝を顕すために、神の律法に従うべき者でした。

 けれども人間は自分の罪のためにこの幸福を失いました。神の働きを損ないました。神の喜びを悲しみとしました。けれども未来において再度パラダイスを造りたまいます。人間は罪のために自分の幸福を失いましたことは、一番大切なることではありません。人間は罪のために神の栄光をけがしました。神の全き働きを損ないました。また神の聖意みこころを痛めました。きたる世においては神はもう一度人間に幸福を与えたまいます。けれどもただそれのみではありませずして、それによってご自分の栄光を顕したまいます。それによってご自分の豊かなる恵みと力を顕したまいます。それによってご自分も再度安心を得たまいます。また再度その栄光を輝かせたまいます。その未来のパラダイスにおいて神はまったく人間を立たしめたまいます。また失敗せざるしゅイエスを立たしめたまいます。主イエスはそのパラダイスの王となりたまいます。主はその与えられたる幸福を永遠に保ちたまいます。主の国において必ず失敗がありません。神の栄光を汚すことはありません。彼処かしこに再度生命の川が流れて見えます。黙示録二十二章一節をご覧なさい。彼処に再度生命の木の生えておることを見ます。神は全きパラダイスを造りたもうて人間の失敗を補いたまいます。私共はいま罪のために失った幸福を悲しみます。けれども心のうちに再度その幸福を得る大いなる望みがありますから感謝に堪えません。



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