第 一 章 (後 半)



六、 七 節

 今まで世界のおもてに濃き雲ばかりありました。またそのために光はこの世に達することができないで暗黒がありました。いま神はその下に空気を造りたまいました。またその空気の下に水があります。水の蒸気は雲になり、その上に浮かぶようになります。これは大空の上の水です。またその下に海とほかの水があります。これは大空の下の水です。ヨブ記二十六章八節、三十七章十八節、詩篇百四十八篇四節、箴言八章二十八節、エレミヤ記五十一章十五、十六節をご覧なさい。大空を造りてその上にある水と下にある水を別ちたまいます。


八 〜 十 節

 今まで光もあります。また空気も造られました。そうですから次に大切なることは乾ける土を造ることです。それまで世界のおもてに海ばかりありました。いま神はこれに限りを付けて、土を揚げたまいます。これはよみがえりのごときことです。海の中より土を甦らしめたまいます。人間の心のうち罪人つみびとたるときに、その心の面にただ肉慾のみありました。けれどもいま神は甦りを与えたまいます。その肉慾を限りたまいます。またその肉慾を統御するようになしたまいます。

 ヨブ記三十八章十節、箴言八章二十九節、エレミヤ記五章二十二節をご覧なさい。そのように神は海を限りたまいます。そうですから浜辺に参りますならば、神の力のしるしを見ることができます。弱き砂をもって強き海を限りたまいます。そのように神は私共の心をも統御したまいます。ご自分のむねに従わしめたもうことができます。またそれからただちに実を結ぶことができます。


十 一 節

 これは甦りを経験することです。ただちに実を結ぶことができます。ローマ書六章二十二節をご覧なさい。六章の初めによみがえりのことを経験します。いま二十二節において実を結びます。エペソ二章十節をご覧なさい。六節において甦りのことを経験します。十節において実を結びます。私共は神の言葉の力によって実を結びます。またその神の実はいつでも自分で増殖します。これは幸いです。ほんとうに神の力によりて実を結びますならば、必ずそのために幾倍の実を結びます。また自然に多く増殖します。その実はほかの実のたねとなります。その実は神の前にうるわしき味わいであります。またほかの実の種となりますから、百倍の実を結ぶことができます。

 私共は今いたるところ自然にその現象を見ますから、あまり驚きません。けれどもこれは驚くべきことです。神は草木動物を造りたまいしのみならず、彼らに自ら繁殖する力を与えたまいました。そうですから一つから多くができて参ります。これは実に造物主の大いなる力です。人間は種々なる機械を造ることができます。けれどもそれを自分で繁殖するように造ることはできません。これはただ造り主の御業みわざであります。またそれによってこの世界は神の御手みてわざであることがわかります。同じように福音書において、主はご自分の神であることを示したまいました。ただ力ある奇跡を行いたまいましたことのみではありません。ほかの人々にその力を与えたまいました。肉にけるものでも驚くべき業をすることができます。けれどもほかの人々にその力を与えることはできません。これはただ神のみの業です。ここで神は物を造りたまいました。またその物にほかの物を造る力を与えたまいました。それによってこれは神の聖業みわざであることを確かめます。

 『よしとされた』。この種々の階段をよしとされました。人間の初めて悔い改めたるときにそれをよしとされました。またそれから聖潔を得たるときにそれをよしとされたまいました。ほんとうに聖霊の感化にって実を結びますときに、それをよしと見たまいます。けれども私共はただ第一の階段にとどまっておりますならば、神はそれをよしとして見たまいません。ただいまの居るべき階段に従ってそれをよしと見たまいます。


十四〜十六節

 今まで光がありました。けれども今、太陽と月と星があります。太陽と月と星は光の源ではありません。黙示録二十二章にこれらが過ぎ去りたるときに完全なる光があることを見ます。神は第一日にご自分から光をいだしたまいます。今この第四日に光の源たる太陽とまた月と星とを造りたまいました。詩篇七十四篇十六節をご覧なさい。『あなたは光と太陽を設けられた』。第一日に光をそなえたまいました。第四日に太陽を具えたまいました。二つとも神の大いなる恵みであります。詩篇百三十六篇七〜九節をご覧なさい。それゆえにあるいは太陽を見、あるいは星を見ますならば、神に感謝せねばなりません。

 けれども未だ幾分か夜が残ってあります。神はその暗さをも照らしたまいます。神はその夜を祝福して、人間に恵みを与えたまいます。私共は夜において神の大いなる聖業みわざを見ることができます。私共は昼の間に星を見ることができません。けれども太陽の没しましたときに、星を見て神の聖手みてわざの広大なることと巧妙なることを見ることができます。私共は絶えず楽しみの光にいますならば、神のわざの大いなることをわかりません。時によりて神は私共に夜を経験せしめたまいます。たとえば苦痛、失望を経験せしめたまいます。私共はそのような夜の間に格別に神の業を見物することができます。空に輝く星を見まして、この星はこの世界とともない行くほかの世界であることをわかります。私共は夜においてこの世界は多くの天の従者を持つものなることをわかります。私共は格別に苦痛の時にそれをわかります。ヘブル十二章一節をご覧なさい。私共は順境に居るときには、このような証人が天にることがわかりません。けれども逆境の際に、多くの証人が雲のごとく私共を囲んでいることがわかりまして慰められます。創世記三十二章一、二節をご覧なさい。ヤコブは夜において天における物見人のあることをわかりました。コリント後書四章十七、十八節をご覧なさい。苦しむ者は神の光に照らされて、ともない行く天の使いを見ることができます。私共は心の夜を経験しますならば、そのように神の恵みとその聖手の業を見物することができます。

 神は第一に光を与え、それから太陽と月と星とを与えたまいました。このようの心のうちに神の光を得た者でも、ほんとうにキリストご自身を得ませんかも知れません。けれどもあとからほんとうにキリストご自身が顕れて居たまいます。今まで曖昧に神の光の中に歩みておりました。またすでに救われておりました。けれどもキリストが心の中に顕れていたもう時から、キリストはすべての光の源と、すべての恵みの源となりたまいます。そうしてキリストは実にすべてのすべてとなりたまいます。その時から光は形をもっていたまいます。すなわちキリストはわが光なり。どうぞこの二つのことを学びとうございます。表面に見ゆるところのものはみな神の力のわざ、また神の恵みの業であります。それを見て神に感謝しとうございます。また造りぬしなる神はあがなぬしなる神です。私共の心の中に同じ力と同じ恵みをもって働きたまいます。どうぞ身も魂も神に任せて、早くご自分にかたどらしめたもうことを学びとうございます。


十七〜十九節

 十四節において『しるしのため』の言葉があります。未来において太陽と月がしゅきたるべき審判さばきのしるしとなります。マタイ二十四章二十九節をご覧なさい。また主の第一の降臨のしるしとなりました。マタイ二章二節をご覧なさい。またそれのみではありません。神は一番始めに聖書がありません時から、この星をもって人間を導き、人間にきたるべき救いと救いぬしと審判を教えたまいました。

 ご存じの通りいかなる国にも星宿の図があります。これは太古より宣べ伝えられたことであります。太古の国々の歴史を見ますならば、その星宿の図がみな同じことでありました。またその星宿に種々の名前を付けました。たとえば勝利者、あるいは龍、あるいはおんなの子などのごときものです。また星宿の星によって幾分かそんな形を見ました。いま深くそのようなことを調べる学者は、それによって太古の人々は神の子と、またきたるべき救いぬしの望みを伝えたることを申します。その時に書物がありませんから、その通りでその子孫に神の約束を覚えさせました。そうですから格別に星が救い主のしるしになりました。

 けれどもしるしのためのみではありません。また時期のためでした。人間は弱いものですから、また知恵のないものですから、自分のために時期を定めることはできません。神は命のなき太陽と星をもって人間に時を教えたまいます。人間は神の時に逆らって生活しますならば、害を生じます。たとえば昼遊んで夜働きますならば身を損ねます。今ある人はそういうことをいたします。けれども天理に背きますから、自分の身を害します。私共は神の天理に従って利益と恩寵を頂戴するはずです。

 神はかくのごとく私共に時を与えたまいますから、神の人は格別に厳重に時を守ります。たとえば一週間に一日安息します。これは勝手なることではありません。これは神の定めたもうたことです。またそのように厳重にほかの時を守ります。神の導きたもうままに祈禱を捧げ、聖書を読みます。神の導きの従って一定の時間にそういうことをいたします。神の人は必ず厳重に時間を守ります。


二十節〜二十五節

 いま神は動物を造りたまいました。その前にすべての物を供えたまいました。動物を造りたもう前に、動物の食物を造りたまいました。また動物の居所、また動物のために光をもめぐみをも造りたまいました。神は動物を造りたまいますならば必ずその前に準備ができていました。

 また私共は階段ごとに神の言葉が入らねばならぬことを見ます。神は階段ごとに再度力を出したまいます。再度直接に自分から物を造りたまいます。神がこの世を創造したまえる時に漸次進化したるものではありません。ある哲学者はそのように申します。けれどもそれは誤りです。たとえばいま岩は植物になることを見ません。動物のだんだん人間になることを見ません。階段のあるごとに必ず神は再度言葉をいだし、ご自分の力を出したまいます。たとえば蕾はだんだんと花に、花はだんだん実になります。神の天理に従ってそういうことはだんだんとできて参ります。けれどもこの世界を造りたまえる時には、そういうことではありません。神は階段ごとに再度知恵と力を出したまいました。

 いま概略にこの一章の順序を見とうございます。二節をご覧なさい。幾分か安息といわれる有様があります。これはほんとうの安息ではありません。けれども安息と言われます。二章一、二、三節を見れば、また安息になります。それまで熱心なる働きがあります。終わりの安息は全き安息であります。

 未だ神の働きを得ません罪人つみびとでも、幾分か安息があります。サタンはその人を統御しますから、幾分か安息があります。ルカ十一章二十一節をご覧なさい。サタンの力のもとにある罪人は幾分か安息があります。けれども創世記一章二節のごとき恐ろしき有様にて安心しております。神の働きは何のためですかならば、このような危険なる安息を変えて、真実の完全なる安息を得させんがためであります。

 この章を見ますれば、第一に昼と夜を分かちたまいました。それから海を造りたまいました。それから地を造りたまいました。また後の半分の週間に同じ順序に従いたまいました。第一に夜と昼のために光を創造したまいました。第二に自ら生えるものを水の中に造りたまいました。第三に地の上に生えるものを造りたまいました。

 空虚なるがために安息−わかつ働き
  第一日  光を造って光と闇とを分つ
  第二日  大空を造って上の水と下の水を分つ
  第三日  陸を造って水と陸を分つ(植物を生ぜしむ)

 完全なる安息−完全にする働き
  第四日  太陽、月、星を造って光を完全にする
  第五日  空を飛ぶ鳥、水に住む生き物を造ってこれを完全にする
  第六日  陸に住む生き物を造ってこれを完全にする(人を造る)

 これは神の働きの順序です。これを見ますれば第一の半分の週間に、神は物を分けたまいました。また後の半分には神はその物のためにほかのことを創造したまいました。初めの三日にては一つの物とほかの物とをわかちたまいました。ほかの三日にては分ちたまえる物を充ち足らしめ完成したまいました。

 ここに生き物の順序を見ますれば始めに海にあるもの、次に空気を飛ぶもの、次に地上を歩むものを創造したまいました。詩篇八篇六〜八節をご覧なさい。ここで三つの種類を見ます。地上を歩むけもの、空を飛ぶ鳥、海にある魚を見ます。また神はこの三つの種類を人間の手に渡したまいました。またそれのみではありません。神はその生き物によっていずこにも栄光を顕したまいます。いずこに往きましても生き物があります。海の一番深きところ、たとえば二里ほど深き海の底を探しましても生き物がおります。あるいは地上のいずこにも、あるいは空中のいかなるところにも、神の栄光を顕す生き物があります。

 詩篇百四十八篇七〜十節をご覧なさい。また黙示録五章十三節をご覧なさい。そうですから造られたるものは神に讃美を帰します。よろずのものは神の栄光のために造られました。いま私共はまったくそういうことを見ません。罪が入りましたから、造られたるものはけがされて、神を讃美しません。けれども初めて造られましたときには、みな神を讃美していました。しゅの再臨の時に、主がこの世の王となって悪を追い出したまいまする時に、詩篇百四十八篇が成就せられて、神はご自分の聖意みこころにかなうことをいずこにでも行いたまいます。

 また造りたまえるものはみな自分にかないます。魚は海にかないます。鳥は空を飛ぶことにかないます。ほかのけもののごとき生き物は地上を歩くことにかないます。神は私共をその置きたまいたるところにかなわしめたまいます。あるいは海に居る魚を見、あるいは空に飛ぶ鳥を見るときに、格別にそれを学びとうございます。また私共はおのおの置かれたる位置において神を讃美せねばなりません。鳥はその身分において神を讃美することができます。魚はその身分において神を讃美することができます。もし鳥が魚をうらやみて水に入り、あるいは魚が鳥を羨みて空中に出ますならば、ただ愚かなることです。それぞれ身分に応じてそこにて神を讃美せねばなりません。そうして神のために生涯を暮らさねばなりません。

 そうですから神は造られたる万物によって讃美と栄光を受けたまいます。詩篇百四篇を見ますれば、神が万物を造りたまえることの話を再度見ます。ここで詩をもって歌います。これは創世記一章と同じことです。詩をもって歌いて神に栄光をします。私共は神のわざを見まして、この詩篇百四篇三十三、三十四節のごとく、神を感謝し心のうちに神の恵みを覚えて生涯を暮らすべき筈です。


二十六〜二十七節

 今までは神はただ命令をいだしたもうて、早速そのものができました。けれども今はそうではありません。ここに相談があります。それによって人間を造りたまえることは、神の至大なる働きであることがわかります。神はこの日月星辰を創造し、地と海とそれに充つるものを造りたまえる時に、ただ命令を出したまいました。けれども人間を造りたまえる時には相談がありました。今まで『なるべし』という命令がありました。いま『人を造りて』云々の相談があります。今まではしかあれという命令でした。いま我らをして造らしめよという相談があります。

 神は人間を救う福音の使者を送りたもう時にも、同じように相談いたします。イザヤ六章八節をご覧なさい。ここに再度三位一体なる神は、互いに相談したもうことを見ます。ここに格別にイザヤにそれを言いたまいませんでした。けれども相互の相談を聞かしめたまいました。

 この二つの相談は実に考うべきことです。人間を造りたもうときに相談がなければなりません。これは大切なる働きです。これは神の力を尽くす働きですから、三位一体なる神はそれについて相談したまわねばなりません。また人間を救うことは実に大切なる働きです。神はこのために愛と力と知恵を尽くしたまいますから、再度そのために相談いたします。

 それ故に人間は神にかたどりて造られたるものです。それは実に幸いです。それはいかなる意味ですかならば、神の智恵を持っていることです。人間の智恵は動物の智恵のごとくではありません。動物はよく現在のことを考えることはできます。けれども未来のことを少しも考えることはできません。人間は神の知恵を持っています。それゆえに未来のために考えることができます。動物は神を知ることができません。けれども人間は神のような知恵を持っています。そのために神を知ることができます。動物は機械のように、その目的を成就することができます。けれども人間は神のごとき自由なる意志を持っているものです。そのためにひどい罪を犯すことができます。またそのために聖なるものとなることができます。動物は聖なるものとなることはできませんが、人間は聖なるものとなることができます。

 また神はいかなる方ですかならば、たえず愛に充ちた幸いなる生涯を暮らすことができるものです。全き人間はその通りです。神のごとく幸いなる生涯を暮らすことができます。いかに迫害がありましても、いかに苦痛がありましても、たえず自分の心の中に幸福をもっていることができます。

 このように人間ははじめは全き者に造られました。いま罪のために私共は何程を失いましたかをわかります。けれどもしゅイエスの救いのためにまたその恵みを受けますから、その救いの効能と力とはいかほどであるかをわかります。神は堕落したる人間を再度ご自分にかたどらしめたまいます。

 神は人間をご自分にかたどりて造りたまいました。そのかたちのごとくに人間を造りたまいました。人間は罪のためにそれを失いました。けれども幾分か残ってあります。今でも霊の眼をもって人間を見ますならば、神のかたちといわれます。コリント前書十一章七節をご覧なさい。『男は神のかたちであり栄光であるから』。そうですから神の像といわれます。ヤコブ書三章九節をご覧なさい。他の人を見ますれば、神の像に似せて造られたる者なりと覚えねばなりません。そのためにほかの人を敬うはずです。ほかの人々につきて苦き感情を抱き、またそれをのろうことはできません。

 さりながら人間は堕落してもとの全きかたちを失ったものとなりました。けれどもこの地の上に、ひとり全き神のかたちを持てる者が顕れたまいました。神の像にかたどりて造られたる全き人間を見たくありますならば、しゅイエスを見なさい。主は実に神のかたちでした。コリント後書四章四節をご覧なさい。神のかたちなるキリストとあります。コロサイ書一章十五節ヘブル書一章三節をご覧なさい。そうですから神は再度この地上に全き人間を置きたまいました。またその全き人間によって、再度全き人間を造りたまいます。私共はいま主のあがないのために、主の霊のために神のかたちになることができます。これは私共の望みです。これは救いの目的です。救いの目的はただ私共を祝福することではありません。天国に導くためではありません。救いの目的は私共を再度神のかたちにかたどらしめんがためです。コロサイ書三章十節をご覧なさい。神の像に従いて漸次円満なる者となります。コリント後書三章十八節をご覧なさい。格別にここで神の言葉の力を見ます。この前の数節の論を見ますれば、ユダヤ人は心の中に顔おおいがあります。旧約を見ましたときに、少しも神の栄光とキリストの救いを悟ることはできません。心の中に顔おおいがあります。けれども私共は旧約を開くときにかえって顔おおいなくして主を見ることができます。またそのように聖書によって黙示を受けて、漸次神の像にかたどりて栄えより栄えにいやまさります。これは聖霊の働きです。聖霊は再度神の言葉と一緒に働きたまいます。そうですから私共は漸次再度神のような者となります。これは実に栄えある望みです。実に私共は心の中にそんな望みと目的を持って、この世におりますならば、この世にけがされぬように衣をきよく守ることができます。私共はこの望みに逆らうことを棄てて謹んでこの唯一の望みを抱きて生涯を暮らしとうございます。

 そうですから私共はしゅかたちを再度もらいます。これは霊の形です。心の中に神にかたどりて、愛の心と悟りと力を得ることです。ローマ書八章二十九節をご覧なさい。神はあらかじめそれを定めたまいました。太古からそんな目的を持っていたまいました。太古から主イエス・キリストのような多くの子供を作る目的を持っていたまいました。これは私共の貴き召しです。この世にる間に神はそのように私共の心のうちに、新しき創造をなしたまいます。のちの世において、新しき創造が顕れて参ります。コリント前書十五章四十八、四十九節をご覧なさい。必ず天にけるものの像を持ちます。静かに心の中にその望みを抱きなさい。その喜びを抱きなさい。私共はあまりそのことを感じませんから、この世の事柄を思いわずらいます。それを感じますならば、その望みの力によりて、きよき生涯を暮らすことができます。ヨハネ一書三章二節、三節をご覧なさい。これは主の再臨の望みではありません。神に似ることを望む望みです。詩篇十七篇十五節をご覧なさい。

 神ははじめに驚くべき働きをなして、ご自分のかたちにかたどりて人間を造りたまいました。けれども新しき創造は、なおなお驚くべきなおなお大いなる働きです。すなわち亡びたる者を起こし、再度ご自分の像にかたどらしめたまうことです。神はそのために聖血を流したまわねばなりません。この第二の働きは第一の働きよりは優れたる働きです。それによって私共は神の持ちたもう資源がいかに深きかを知ることができます。

 『治めさせよう』。神のかたちを持っている者は、必ずほかの者を治めます。これは理にかなうことです。神の霊の像がありますならば、必ず権威も力もあります。必ずそんな者は王となります。人間は心の中に、権威を張ることを喜ぶ思想があります。誰でも権威を持つことを喜びます。これはもと正しき精神です。いまは自分の肉慾のために、それを使います。これはしきことです。けれどもこの思想は人間が神の像に似せて造られたることの名残です。いま私共は権威を張ることはできません。しゅもこの世にいませし時に、王となることはできませんでした。けれどものちの世にはそのように権威を張りて、王となることができます。自分の性質に従って、自分の心に従って王の権威を持つものとなります。これは私共の幸いなる一つの条件です。正しきままに神に従って権威を張ります。この二十六節を見ますれば、神の目的は何ですかならば、人間をもってこの世を統御することです。直接には自分はこの世を統御するつもりではありません。人間をもってこの世を治めることです。また格別に人間一人をもってこの全世界を治めることです。

 歴史を見ますならば度々ある王は心の中に全世界を治めることを望みます。また幾分かそれを成就せる者もありました。神はそんな目的を持っていたまいます。人間の肉慾に従わずしてご自分の正義と公平に従って、全世界を統御する王を立てる目的を持っていたまいます。これは全世界の一致和合となることです。全世界の人々はみな同胞兄弟となります。これは実に幸いです。その王はしゅイエスです。神はそんな王国を建てて、人間一人をもってこの世界を統御したまいます。

 『男と女とに創造された』。二つの形をもってご自分の完全なる性質と形を顕したまいます。

 男は女を軽蔑することはできません。女は男を軽蔑することはできません。性質も形も違います。けれども二つながら神の像にかたどられて造られた者です。二つながら神の全き性質を顕す者です。


二 十 八 節

 『神は彼らを祝福して』。それはどういう意味ですかならば、もはや全き者です。けれどもなおその上に溢れるほどの恵みを与えたまいます。全き人間に飽くまで善きこと、きよきこと、生命の楽しみを与えたまいます。神は実に人間が保つことができるだけ多くの恵みを注ぎいだしたまいました。

 『神は彼らを祝福して言われた。生めよ、えよ、地に満ちよ、地を従わせよ、また海のうおと、空の鳥と、地に動くすべての生物を治めよ』。それは人間の働きです。

 二十九節に人間の養いを見ます。神は人間に働きをも養いをも与えたまいます。


二十九、三十節

 そうですからほかの動物の食事は青草でした。人間の食事は実でした。たねでした。後に罪ののろいを得ましたときから、人間も動物の食事を食わねばなりません。三章十八節の終わりに、『あなたは野の草を食べるであろう』とあります。人間は動物に与えられたる食事を食べなければなりません。何故なにゆえなれば罪の詛いのためです。地は以前のようにしげく実を結びません。以前の有様はいつでも必ず繁く実を結びました。いつも樹の実がありますから、人間はうるわしい食事をすることができました。けれども罪の詛いのために溢れるほどの実がありませんから動物の食事をせねばなりません。九章三節をご覧なさい。その時に神は人間に肉を与えたまいます。青草のごとく肉を与えます。私共は神の聖手みてより肉の食事を頂戴いたします。神の命令に従いてそれを得ます。


三 十 一 節

 『はなはだ良かった』。これは実に幸いです。神はご自分の聖旨みむねに従いて働きたもうことが出来ますならば、すべてのものははなはだ良かりき。それによって幾分か神の性質と聖旨を悟ると思います。神の働きと神の聖旨はいつでもその造りたもうた者の幸いなることと全きことであります。私共はほんとうに自分のむねを棄てて、神に一切をまかせて、神がその聖旨に従いて私共の心のうちに働きたもうことを許しますならば、神は必ず私共が保つことのできるすべての幸福を注ぎたまいます。神はその聖旨に従いてはなはだ良き有様を造りたまいます。

 この三十一節を見ますれば神の働きの結果は全きことです。二章の有様を見ますれば、神の働きの結果は幸福です。全き喜びです。



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