インウード師東京講演

チャールス・インウード 講演
小  島  伊  助  編纂


第 一  意志の態度



 『わたしはわたしの見張所に立ち、
  物見やぐらに身を置き、
  望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、
  またわたしの訴えについて
  わたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。』(ハバクク二章一節)

 愛する皆様、主にある兄弟姉妹として今一度この地上において皆様にお目にかかることのできることを心から喜んでおります。この前、東京において修養会を開いてから既に六年になります。私はあの時のことを忘れることができません。おそらくこれは私の生涯中の最も楽しい記憶の一つでありましょう。あの時のことを思い出すごとに言い難き神様の聖業を讃美せずにはおられません。しかしてこのたびもう一度このところにおいて、皆様に神の恩寵を語ろうとしております。これは私の衷心からの歓喜であり、また神様がこの集会を祝して驚くべき聖業をなしたもうを期して大いなる感謝であります。これは私にとっては重大なる集会であります。私共は来る七、八週間に七つ、八つの修養会を持つはずでありまして、これは最初の集会、いわば聖戦の初陣とも言うべきものであります。このところにおいて大いなる勝利を博するか否かは次々の戦に甚大なる影響を及ぼす次第であります。神願わくばここに我等の上に大いなる勝利を取りたまわんことを!
 さて、この集会が祝されるか否かは、私共が神に対して誠実であるか否かによって定まります。私共が神様に対して誠実であるならば、神様は必ずこの集いを祝福してくださいます。たとえばこの集会は如何なるものでありましょうか。或いは避雷針のようなものであるかも知れません。避雷針は空気の中の電気を自分に引き受けますが、みなそれを地の中へ埋めてしまいます。それともこの集いは電信局のようでありましょうか。かしこにおいては蓄えられる電流によって多くの使命をどしどしと果たしていくのであります。しかもこの集いをそのいずれに致しますのも皆様の神様に対する態度如何によるのであります。それについて私は、ただいま一つのことを皆様に申し上げたい。すなわち『神にかかわる一切の事柄は、一にあなた自身の意志の態度によるものである』という一事であります。
 ただいま読みましたハバクク書の中には、かなり多く意志のことが言われております。感情のことはあまり言われておりません。ここに意志はいかに肝要なる地位を占めておることでありましょうか。皆様が聞いている間に、考えることも感じなさることも大切ではあります。しかしそれよりももっと大切なことは、あなたの意志の態度であります。聞いている間に、解決しなければならない罪が出てくるかも知れません。やめなければならない悪習慣があるかも知れません。或いは報告しなければならない事柄も起こって参りましょう。しかしそれらのことは一切、あなたの意志の態度と働き如何によってするところのものであります。また皆様は自由に罪を犯すことができる。意志の自由が与えられているからであります。すなわちすべてはあなたの意志の働き如何によって定まるのであります。
 さて、先のハバクク二章に戻りまして、彼は『思う』とは言っていない。また『感ずる』とも言っていない。『わたしは‥‥‥しよう』、すなわち I will と言っておるのであります。神様は強制なさらない。あなたも、あなた自身の意志を働かす必要があるのであります。そこで今暫く意志の働きに関して申し上げたいと思います。
  第一、私は神の声を聞くことのできる場所におろう。
  第二、私は神の語ってくださる場所に立とう。
  第三、私は見守ろう。
  第四、私は待ち望もう。
  第五、私は耳を傾けよう。
  第六、私は応答しよう。
 兄弟姉妹よ、御霊はこれら六つの言葉を私共に示していたまいます。どうぞ静かに、また考え深くあって頂きたい。
 『わたしはわたしの見張所に立ち』とは見張り人の思想であります。群衆の中にあっては、見張りすることはできません。どうしても群衆から離れて、ただ一人、見張り所に立たなければなりません。これはこの集会においても真理であります。どうか皆様がこの集会において、特にこの点について確固たる意志の態度を取ってくださるようにお勧め致します。悪魔はこれを邪魔しましょう。家庭の事情がこれを妨げるかも知れない。或いは肉体の虚弱が、友の来訪が、またはそのほか様々のことがあなたに時間をつぶさせて、独り離れて神の前に立つことをさせまいと致しましょう。しかし兄姉よ、その時こそは、あなたの意志を働かすべき時であります。どうしても独りになろう! 人間の声の姦しさから離れよう! と、断乎として神の前にお静まりなさい。この集会の間、神とただ二人になられることは極めて肝要なことであります。
 『物見やぐらに身を置き』、これもまた見張り人の立つべき所を示しております。が、同時に皆様の立場を示しております。皆様はそんなところでは神様は語りなさらないというような所に立ちなさるかも知れぬ。電線にしても電流が絶たれていては仕方がない。皆様の中には、この集会へ、説教の批判に来る人もあるかも知れぬ、また単に教会の代表者として出席されている方もあるかも知れない。しかしそんなことでは充分ではありません。恵みによって救われたる罪人としてこのところに来られなければなりません。そのとき初めて神様はあなたに語りたもうことができるのです。神様が罪人たる私共に対して語りたもうところはただ一つ、それはカルバリーです。私共はその贖いの上に立たなければなりません。自らの善や、己の義を思わず、主キリストを救い主と仰いで、その贖罪の聖業の上に立ちなさい。この時にもこれは意志の働きであります。
 『望み見て』、これもまた見張り人の立場であります。寝るのではない、眼を見張っている。自分の働きに自分の意志を凝らしている。どんなかりそめの響きにも耳を傾ける。しかもどんなことの中にも見張りに全心を打ち込んでいるというのであります。皆様のモットーも、これでなければなりません。『わが魂よ、主を俟ち望め』、『我うかがい望まん!』と叫びたい。私共がこの集会において恵みを受けるも受けぬも、この集会が意義をなすかなさぬかも、一に懸かって、ここに私共が神の御声を聞くか否かにあります。私共は神の声を聞くまで、彼が語りたもうまで、うかがい望みたいものであります。すなわち、
 『彼がわたしになんと語られるかを見』ようと。神は最初の集会において語りたもうかも知れません。或いは第二において、ないしは、最終のときまで語りたまわないかも知れません。しかしたとえ遅くとも、私共は待ち望みましょう。耳を傾けて、彼がなんと語られるかを望み見ましょう。神様の語りたもうことは、或いはあなたに予想外なことであるかも知れない。または一度も考え及ばなかったことを語りたもうのかも知れぬ。或いはまた神はあなたに非常なご要求をなさるかも知れません。さらにまた神様の語りたもうた結果、あなたの心中にはかつてない戦いが起こってくるかも知れない。しかしながら兄姉よ、よしそれが何であるにしても、兄姉は神様の語りなさる一言半句も聞き洩らしてはなりません、神様の御声全体をあなたの耳に、あなたの心の奥底に受け入れてしまわなければなりません。電信局において受信者は電信機の動くのを見つめています。そうしては出てくる一字一句を綴っている。途中でやめてはしまわない。二、三字で切ってはしまわない。通信の完結するまで待ち通す。さればやはりこれがあなたの神の声を聞く態度でなければなりません。
 もう一つの階段が残っています。第一はただ一人になること。第二は神が自分に語り得たもう所に立つこと。しかして、第三、見守ると同時に、第四、待ち望み通すこと。および第五、神が何と語りたもうかと耳を傾けること等でありましたが、第六の階段は、
 『わたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう』ということであります。神様が何と語りたもうかを見て、それに何と応答し奉るべきかを見る。これこそは全体を通じて最も大切なる点であります。神様は私共に語りたもう。そうしては何が必要であるかを示し、またいかにしてその必要は満たされるかを告げたまいます。彼は私共に『我に来れ』と仰せられるかも知れない。また『我に従え』と仰せられるかも知れぬ。また『カルバリーまで従え』と仰せられるかも知れぬ。また或る方に対しては『生命を棄てよ』と仰せられるかも知れぬ。そのとき皆様は何と答えをせられるか。兄姉よ、私共は『神様、御助けに頼ってかくのごとく致します』、『あなたにお委ね致します』、『信じます』とお答え申し上げたいものであります。その時『我かくかくなさん』と言うあなたのための新しい門戸は開かれ、意志は与えられます。あなたはそれをそのままに働かせなさい。そして彼に対しては決して否と申し上げなさるな。私はこの生涯を一貫して参りました。常に主よ然りと言い続けて参りました。ああこれは何たる恵み深き幸福なる生涯であることでありましょう。彼は往けよと仰せたもう所へは往きました。なせよと命じたもう所のことはなして参りました。
 主よ、私の意志はあなたのご意志に対して常に然りと申し上げます。おお主よ、兄弟姉妹達にもしか言わしめたまえ。ただ今ここにてかく言わしめたまえ。今宵、一同の意志の態度、願わくばあなたに向かってアーメンにてあらしめたまわんことを! かくして今一度この聖会において大いなる勝利を拝することを得しめたまえ。貴き聖名によって願い奉る。
                         アーメン、アーメン。



|| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 目次 |