第 十  聖霊の盈満



 『祭の終わりの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」』(ヨハネ伝七章三十七節)
 『そして、人々はおのおの家に帰って行った。イエスはオリブ山に行かれた。』(同五十三節、八章一節)

 愛する皆様方、神様は私共を導いて、このたびの聖会の最後にまで至らしめたまいました。最後の集会は、私には、いつも厳粛に感ぜられます。そして、主の臨在を、ことさら近く拝し奉ります。この時、いつも語らざるを得ないように覚えしめられる一事がありますが、それは聖霊の盈満であります。その理由の下に、ただいま読んだヨハネ伝の聖言が思い出されております。これは大いなる節筵の終わりです。しかも、最後のその日は恵みの日です。人々は処々方々から、多く、集まり来っておりました。そこには、清い真清水が滾々と流れております。しかも、人々は飲もうとしない。主は彼らの渇きをご覧になった。そして、ご自身の奉仕に関わる偉大なる使命の御言を叫ばれた。『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい』と。しかも主はかく語りたもうた時、彼ご自身の霊魂をその中に打ち込みなさったのであります。『わたしのところにきて飲むがよい』と、これは渇ける魂には大いなる聖言であります。これは、集まった人々にとっては絶好の機会であります。しかし彼らは、果たして、飲んだでありましょうか。否、人々はイエスについて批評し始めました。或る者は、これこそは神より来った者であると言い、或る者は、彼こそは長く待ち望んでいたメシアであろうと言い、また、或る者は好感をもって彼を迎えました。しかし、或る者たちは彼の言葉を全く拒んでしまい、ついには、暴虐をもって彼に向かおうとさえしたのであります。彼らの態度はそんな風で、しかも意見は一致せず、『そして、人々はおのおの家に帰って行った』と記されております。主イエスは聖言と共に己が生命をも打ち込んで語りたもうたのに、人々は批評の果てに、各々己が道、己が仕事、己が快楽、己が元の罪に帰り行き、誰一人あってこの活ける水を求めてご自身のもとに来ろうとする者がなかったのであります。主は痛める心をもってオリブ山に往きたまいました。かしこは主が聖父と交わりたもうた所であります。そのところで主は彼らのために涙を流したまいましたろう。彼らのために祈られしことも想像するに難くありません。皆様の中には、何故、彼らは聖言を聴かなかったのだろうと不思議がる方もありましょうか。しかし不思議がるには及びません。他人のことではないのであります。私共もここで、七日間の節筵をもちました。主は優しく懇ろに、また、厳粛に、遣わされたる使命の言葉を取り次がしめたもうた。貴い恵みは用意せられている。それがいかに私共に必要であるかを主はよく識っておいでなさる。しかして私共の教えられる時は既に去りつつ、今や、決心の時となっているのであります。彼は語りたまいました。あなたには彼に対してどうしますか。彼を受け入れる考えですか。それとも拒み去る意ですか。二つに一つを選ばなければならない時が来たのであります。兄姉よ、いずれですか。これこそ、この最後の集いにおいて決定すべき当面の問題であるのであります。あなたはまだ、イエスを信ぜず、その御霊の盈満の約束を受け入れず、あたかも、かの時の人々のように、ただ、様々に語り合っているのではないでしょうか。もしそうであればこれほど禍なことはありません。私はそれについてしばしば、様々な口実を聞いたことがある。今、そのいくつかを申し上げてみましょう。まず、こんなことを言う人がある。
 『私は、所謂聖霊を受けた人々にも、別に劣っているとは思わない』と。皆様、未信者はどう言いますか。『私は正直だ、嘘を言わない。真面目だ、勤勉だ、クリスチャンのあなたにも別に劣りはしない』と彼らは言う。しかし、皆様、これは彼らが信者にならない理由にはならないでしょう。同じ理屈です。聖霊を受けていると言う人の言うことによって云々してはなりません。それを判断の標準としてはならない。彼らの所有する所によって判断しなさい。あなたの知っている人々の中には、あなたがこれこそ真の聖徒であると思う人がありましょう。その人の有様によってご判断なさい。また、所謂恵みを告白している人と自分も同じだと思う前に、自分はあるべき筈であるそのごとくあるであろうか、自分は全く主に従ってしまっているであろうかと自ら訊ね、自ら答えなさい。これは初めの口実であります。
 私はまた、こんな口実を聞いたことがあります。『現在において、聖霊に満たされることは不可能である』と。それに対する答えは一つであります。すなわち、聖言は私共を立たせもし、倒しもする。私は新約聖書を学んで何を発見しますか。聖霊の盈満は、果たして私のためのものであるか。その結果の中には、私も含まれているか。私も、やはり、その約束された者の一人であるのであるか。しかり、これらのことを聖言の中に発見するのであります。しかし、それのみならず、私は神が更に、私共が聖霊に満たされることを命じていたもうことを知るのであります。エペソ書中の一節に二重の命令があります。『酒に酔ってはいけない。‥‥‥むしろ御霊に満たされて』(五・十八)と。第一は、酒に酔うなかれとの命令。そして、第二は、よろしく御霊に満たさるべしとのご命令であります。第一の命令があなたに対するものであると同様に、第二のもあなたに対するものでなければなりません。もし、あなたが、聖霊に満たされていないならば、それは神様に背いた不従順な生活をしていることになります。もう一つの約束があります。ペンテコステの日に、ペテロによって表された思想です。『‥‥‥そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである』(使徒行伝二・三十八、三十九)と。これは神のお約束にして、また、命令です。皆様がこれを信ずるならば、聖霊に満たされることは不可能などとは言えない筈です。
 もう一つの口実があります。これは、悲しいことには、謙遜な人々の口からも聞くことです。すなわち、『聖霊に満たされるということは、他の方々にはできようけれども、私には不可能なことである』と。私は、しばしば、これを聞いた。しかもこれを言う時、その人の頬には涙の伝っているのを見たのです。彼は聖霊に満たされたいとの要求を持っている。しかし、それは他の人々のためのもので、自らのような者のためではないと信じている。私は、これに対しても、やはり主のその民に対するお約束を持って来たい。三つあります。すなわち、ルカ伝の『求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか』(十一・十三)と、ガラテヤ書の『約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである』(三・十四)と、使徒行伝の『神がご自身に従う者に賜った聖霊』(五・三十二)との三つであります。求めよ、信ぜよ、従えよ、この三つによって、聖霊は満たされるのであります。これはすべての信者の特権である。これは御霊によって生まれ変わった人々に対し、御霊に満たされよとの神の命令であります。これは、父の子に対する冠的の賜物であるのであります。
 もう一つの口実がある。これも、しばしば聞くことであります。『私はこの賜物を頂いても、すぐに失ってしまうであろう』と。失うことを心配して、満たされようとしないことの口実にしているのであります。そんな考えが、もし、あなたの中にあるならば、それは悲しむべき誤りであります。主がこの賜物を与えたもうについて、それをおまえが保てよと仰ったことは一度もない。私共は賜物を保つように召されているものではありません。御聖霊をしてあなたを保たしめ奉ればよいのであります。そして、あなたが条件を満たしさえすれば、そこに聖霊の盈満がある。そして、ただ、その条件を保ちさえすれば、そこに盈満の継続があるのであります。たとえば、誰かがあなたにダイヤモンドを進呈しようと言う時に、失ってはならないからお断りするという者がどこにあります。兄弟姉妹よ、この恵みの賜物を保つに如何にしたらよいかと心配なさるな。ただ、聖霊ご自身があなたを守りたもうことを信じてお頼りなさい。これをお勧め致します。
 もう一つの口実。この恵みを受けるために、全部を献げることをしない人がありましょう。それについて一、二の質問をしたい。聖霊を受けるために、失うまいとするものは、ほんとうに価値のあるものですか。それは、あなたの真正のクリスチャンとしての価値を高めるためにあなたに助けを与えるものなのですか。そのものは、あなたをこの世において、力ある神の子として立たしめるに力あるものでしょうか。おおあなたは、泡沫のごときものを後生大事にして貴い賜物を拒んでいる。どうか、冠を頂くために、そんなものは、全部、振り棄ててしまいなさるように。
 もう一つの口実。あなたは何故一切を彼に献げることを恐れますか。あなたは恐れている。私もかつて恐れました。サタンは私が一心にそれを求めている時に囁いてきた。『おまえはその賜物を求めるが、得ると困難がやってくるぞ。おまえは嫌なことをもせねばならぬぞ。そんな賜物を受けては、これから先のおまえの生涯は悲惨であるぞよ』と。そこで私はこれを主に持って行きました。主は仰った、『おまえはおまえの子供を愛しているであろう。その子供がおまえのところに来て、お父さん、私は何でもお父さんを一番喜ばせる生涯を送りたいと言う時、おまえは父としてその子に困難な仕事を与えるか。おまえは子供を悲惨なものになし得るか。否、最善の道を撰んでやるであろう。私はおまえを愛している。おまえのその子に対する愛よりも、私のおまえに対する愛が劣ると思うか』と。おお皆様、彼に全部を任せなさい。信頼することを恐れなさるな。ここには何の心配もありません。私は冠を頂いております。
 もう一つの口実があります。『私は御霊の盈満を求めているが、いかにお頼りしてよいか解らない』と。あなたは誰にでも信頼することをご承知でしょう。私共は信頼なくしてただの一日も生きては行かれません。食事をする時にもそこに信仰が働いている。もし毒がありはしないかと思ったらどうでしょう。毒がないと信ずるから食べるのです。また、食べたものは肉となり血となって、それが健康を支えると信頼しているのであります。また夜分、寝る時にも、もし、夜中、家が破壊するかと恐れたらどうでしょう。安全だと信ずればこそ眠れます。または汽車に乗るたびごとに、信仰の働きがあります。事実、常に信じつつ、その日その日を過ごしているのであります。人に信頼することも、主キリストに信頼することも、その心の働きにおいては全く同じことです。私は予定を変更して、出発を明後日の朝とした。そして、明晩もう一回ここに立つことを御牧さんに約束しました。兄弟は疑わない。そして私が約束を実行することを信じて安心している。彼は私の言葉に全く信頼しているのです。おお皆さんよ、あなたの神に対する信頼も同じことです。人を信頼するよりも、神を信頼する方が確かです。私は全世界のすべての人を疑うとも、神を疑いません。
 もう一つ申し上げたい口実があります。これは特に、若い人々の中にある口実であります。私は主にすべてを委ねすべてを献げ切ることの大切なことを、殊に若い人々に申し上げる。そして、若い時に聖霊に満たされることの肝要なることを極言致したい。これに対して、『まだ早い』『いま暫く時を待とう』『もう少し歳をとってから』等々の口実をもって、決心を延ばす人々があります。私は二、三の質問をしたいのであります。あなたに対する神の働きはあなたを待っているだろうか。あなたは神の力なくして働くことができると思うか。あなたはその働きの中に、もっと倦み疲れたいのですか。御霊に満たされなければ金銀宝石の働きはできないのです。もう一つの質問は、あなたは聖霊の盈満なくして、暫時、やって行けるかも知れない。が、悪魔はあなたが満たされるまで誘惑を待ってくれるだろうか。彼は待たない。その時、あなたはそれに打ち勝つことができますか。あなたはそれに負けるでしょう。そして、それを境遇のせいにするでしょう。けれども、ほんとうは、聖霊に満たされていなかったから負けたのであります。また、私共が聖霊に満たされるまで、死は私共を待ってはくれまい。皆様、『まだ早い、もう少し待とう』などと言いなさるな。皆様が、もし最善の働きをなさりたければ、悪魔に打ち勝つ生涯を送りたければ、残る生涯を有意義なものとなしたければ、一瞬間たりとも猶予すべき筈ではありません。今、直ちに満たされなければなりません。私の一人の友人が、英国の或る家庭に寄寓していた。そのご家庭は、両親とも熱心なクリスチャンですが、一人娘の十七になるお嬢さんは、宗教については極めて無頓着で何の考えもなく、ただ、やがて消え去るべきこの世の楽しみのみを追い求めていました。名はメリーさんと言った。友人は、或る時、この娘さんを取り扱いました。彼女が友人に語るのに、『私はたびたび思う、もっともっとこの世の快楽がしてみたい。私はあらゆる楽しみを追い求めている。それについても私の両親がクリスチャンであることが口惜しいと思う。なぜなら両親が信者でなければ、私は自分の思うとおりにできますものを』と。そこで友人はこの娘さんに尋ねた、『あなたは、全生涯をこの世の楽しみを漁るために費やしてしまうつもりですか。』彼女はそんなことは考えたことがないと言う。それは何故かと尋ねると、彼女は暫く考えた後、『私は三十歳くらいになったらクリスチャンになりましょう』と答えました。そこで友人はこう言った、『あなたは、この世に生まれて来る人間の半分は三十前に死ぬということを知りませんか。もし三十にならないうちにあなたが死ねば、あなたの魂は何処へ行きますか。』この言葉が彼女を更に深く考えさせた。そして彼女は私の友人に向かって、『私が二十歳で信者になると決めたら安全でしょうか』と尋ねた。『安全?』、友人は言葉を上げた。そして言った、『私はあなたの安全ならんことを望みます。しかし、安全と言えば、今、それを解決しなければならない』と。この言葉が娘さんに徹底しました。そして共に祈った。彼女は神に向かって、『神様! 私が三十になるまででもいけません、二十歳でもいけません。また、今から一年先でも困ります。どうか、今、わたしに賜物を与えて下さい』と祈りました。かくて彼女は、その時、その場で救われたのであります。私はこの問題を皆様に訴える。この問題の解決を、決して、延ばしてはいけません。かの娘がなしたように、今、すぐに求めなさい。おお兄弟姉妹よ、主は栄光ある御霊を満たしめたいと、私共に聖霊を指示しておいでなさる。『いま来れ、ただいま飲め』と私共に呼ばわりたもう。あなたは近づき往くべきであります。
 このほかに、もう一つの声があなたに聞こえて来る。そんな説教を聞くのなら、まだ早い、まだ時がある。もっと楽しめ。信ずるなんて数年後のことだと。しかし、兄姉よ、これはあなたの霊魂を破滅に導くものです。そんな声に従ってはなりません。もし、そんな声に従うならば、主をもう一度十字架に釘けることです。そんなことがあってはなりません。ただ今、あなたの霊魂を彼に託しなさい。そして、かく叫びなさい、『おお主よ、あなたは私のために、カルバリに血潮を流したまいました。そして私を救い下さいました。私はただ今、私のすべてをあなたにお託し致します。どうか聖霊を満たして下さい。十年後でもいけません。一年後でもいけません。一ヶ月後でも、一日後でも、一時間後でもいけません。どうか、今、ただ今、それを与えて下さい。私は、今、あなたに来っております。ただ今、その水を飲みます。聖霊をもって、私の渇ける魂を満たして下さい』と。主、私共を満たしたまわんことを! この最後の時が、みな満たされたりと記録せられるペンテコステの時ならんことを! 主、しかなしたまえ。今なしたまえ。聖名に由りて希い奉る。  アーメン



金拾圓  


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