チャールス・インウード 講演
小  島  伊  助  編纂

イ ン ウ ー ド 師 東 京 講 演


THE
LECTURES IN TOKYO

BY
REV. CHARLES INWOOD, D.D.


序 文



 この講演集は、英国大説教家としてその名高い、チャールス・インウード師の第二回来朝の時、すなわち去る大正十一年の秋、東京霊南坂教会において開催された東京聖会の講演の一部を筆記したるものであります。
 同師は英国において、毎夏開催されるケジック大聖会において、久しい間その講師として用いられ、晩年に至るも、なおその壇上に立たれる霊界の大勇士であるばかりでなく、世界四十余国を巡回したる大伝道者であります。またかの南アフリカにおいて聖霊の大傾注があり、大リバイバルの起こった時大いに用いられた器であります。今その年代を記憶しておりませんが『アフリカのペンテコステ』と題してその当時の記録が、今なお残されてあります。
 第一回の来朝は、去る大正五年八月で、東京をはじめとして、全国各地の夏と秋との諸聖会において、『火焔の使者』として、驚くべく用いられ、すさまじい勢いで、霊火は投ぜられました。今なお霊の火の流れのあるのは、確かにその時同師を通して投ぜられたものである。その時有馬における聖会の講演は筆記され『エホバの火』と題して出版され、既に再版にまでされております(東京基督教書類会社発行)。
 第二回来朝は、既に七十四歳の高齢に達せられた老聖徒であったが、その元気はなお壮者を凌ぐほどで、我等をして『聖霊に充ち満たされた器はかくあるべきである』とまで、叫ばしめた位で、聖霊は円熟したその人を通して、我が邦の諸教会に語りたもうた聖声は、その聖会に列したる者等の心に、今なお深く銘記されております。
 特に旧約聖書の聖言は、聖霊によりていと明細に開かれ、新鮮なる異象は、我等をして、いや高く引き上げなければ止まないほどに、能力をもて強迫したことは、今なお忘れることのできないものである。聖霊『我らに聖書を開きたまいし時、我らの心、内に燃えしにあらずや』と。真に我等の心は、その時大いに燃やされました。
 我等は夙にこの講演集を出版する筈であったが、かの関東大震災の時の大混雑、かつ引き続き数度の転居とで、大切な筆記の原稿を見失って、ついにその運びに至らなかった故である。しかるに先頃古書類整理中に、ふとした処より原稿を見出して、不思議な聖助を感謝し、その当時の通訳者小島伊助君に編纂校訂を乞うて、漸く出版することになった次第であります。
 主は、第一回の講演集『エホバの火』を大いに用いたもうたように、この講演集をも、『それ聖徒を全うし基督の躰を建て上げるために』用いたもうように祈り、かつ信ずるものであります。
 筆記者は、播州三木町の自由メソヂスト教会の信徒山本富久次君で、同君はその郷里の中学を卒業後、東京に出て熱心に信仰を続けつつ苦学し、ついに日本大学を卒業せられ、逓信省に勤務されていたが、かの関東大震災の時、甚だしくその健康をいためられたのが、原因となりて震災後ついに倒れ、信仰の勝利をもて昇天された若き聖徒である。かの時同君は昼間多忙な勤務の身であったために、夜と聖日との聖会に出席して、熱心に忠実に筆記されたもので、残念ながら昼間の分の欠けているのもそのためであります。
 されば、これまた我等に先立ちゆきし若き聖徒の、我等に遺されたる貴重な記念である。さぞかし、同君は天においてその労の報いられたのを聴きて、大いに感謝されることであろう。
  昭和九年師走十六日夕                  御 牧 生



編 者 序 文



 筆記の整理を終えて、感謝の心で一杯であります。よく、これだけのものがあったものであると感歎致しております。そぞろその当時がなつかしく、また、壇上に立たれたインウード先生の面影も髣髴と致します。古いものの中から破れかけた一葉の紙片、裏にはいろいろ覚え書きや落書きなどのあるのが出て来ました。某所におけるその時の集会案内でありますが、師を紹介し、また、当時の集会を思わしめるに足ると思って抜粋致しました。
 『‥‥‥師が本国においてケジック大会の講師としてその重鎮たることとその運動の闘将として活動しつつあることとは、既に師を紹介して余りあり。『そのしばしば世界の各所歴訪をし、常に信仰の覚醒を興し、前後四十年の経験、年齢七十四歳に達して今なお壮者を凌ぎ、至る所大旱に雲霓を望まれるが如く迎えられて未だ曾て期待に反したることあるを聞かず。『その六年前我が国に来るや、箱根、有馬において、神戸、福岡、東京において、いずれも大会従来の記録を破り、深刻なる感応を与えその後数年間、信仰復興の本源を作りたるを想起せざるを得ず。その論旨の明晰、教理の精確、例証の豊富、自然に詩韻を成せる語勢は聴者を魅し、聖化の光沢と聖霊の盈満によれる恩寵と権能とは、神の人として全会を震動せしむ。蓋し、一場の説教者にあらず、連続数日に亘りていよよ敬慕の念を加えますます熾熱なる印象を与えることの当然なるを記憶す。『本年新たに使命を帯び、特に中心都市における諸教会信徒の集会を望み、純粋なる福音の真理を徹底せしめ、純潔なる信仰の根拠を扶植せんことを、聖霊によりて期待して来る。師を知る者相謀り‥‥‥』云々。
 先生は東京のためには特別に重荷を負うて立たれたようでありました。これがその講演のただ三四回を除いての全部の筆記であり、また内容も意外に整っているものであることを思って感謝に堪えません。
 これがまた今日まで纏められず、ちょうど今、公にせられるに至ったについても、主の御摂理のあることと存じます。整理中、特にわが国の現状を説いて、リバイバルのための祈りへのあたり、これはメッセージではないかと、暫時筆を擱いた次第でありました。
 何はともあれ、主、これを祝して、用いたまわんことを! 承れば筆記者は若くして既に召されしとのこと。当時、君を励ましてこれを完成させしは御牧先生の奥さんであられしとか。奥さんもまた既に天に在り。そして、当の説教者、インウード先生も数年前、八十歳のご高齢もて昇天せられました。思い来って感慨無量なるものがあります。ただ編纂、校正者の短才、未熟の、宝玉を瓦礫にも致せし憾み、諸兄姉の御容恕を乞う次第であります。



Every day that comes to you,
make full use of your
Lord and Saviour,
And let Him make full use
of you.


日ごと
汝の主なる救い主を
いっぱいに働かせ奉り
主をして汝の全部を
用いしめ奉れ


師の最後のケズィック大会における
最後の説教の結びの辞


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