第 四  祈祷について



 『その時ダビデ王は、はいって主の前に座して言った、「主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。」』(サムエル後書七章十八節)

 この午後の聖書研究の題目はサムエル後書七章十八節であります。この十八節を、きょう神よりの聖言として受け取りとうございます。
 ダビデ王は元来非常に忙しい人でありました。しかしここに現れている時は、彼の生涯中にもまたとなく多忙な時であります。しかもその多忙の中から神の聖前に祈祷の時を保った彼は、そこで如何なることを学んだでありましょうか。これは、今日、皆様と共に学びたい事柄であります。
 まず特に注意したいことは、祈祷のために特別に時を持つということであります。私共は睡眠を取らなければなりません。私共が睡眠を取る間にすべての器官は休息致します。心臓は私共の眠っている間にもその鼓動を止めませんが、しかしその鼓動と鼓動との間には一つごとに休止があります。また鉄のバネも緊張し続けではありません。その間にはこれを弛めておくのであります。これは霊的の生涯においてもやはり真理であります。多くのクリスチャンはあまりに忙しすぎます。祈るべき時にも働いている。祈祷の怠慢は働き過ぎからです。主は日々に、働く時と共に祈る時を与えておいでなさる。この祈祷によってこそ霊も、また肉も、新たにせられるのであります。しかるに信者はこれを等閑に附して、我と自らの霊魂を害なっております。もし私共が祈祷の時を失うならば、それによって生ずる欠陥や損失は何ものをもっても補うことはできません。ダビデは多忙の中にも神に祈るべき時を見出しました。彼は王である。一国の王たる彼でさえこの祈祷の時を持ったのであります。
 さてこの十八節の言葉にご注意下さい。『ダビデ王は、はいって主の前に座して言った』とこれは聖書中、他には見出し得ない祈りの態度であります。祈祷において私共の取るべき態度が三つある。まずそれを申し上げましょう。第一は神の前に立つこと、これは僕の態度であります。僕は主人の前に立ち侍る。それは主人の心を知りたいからであります。すなわち主人の命令を待ち望むのです。第二の態度は跪き頭を下げること、これは懇求者の態度であります。しかしこの十八節には座すという態度が示されております。これはすでに全く救われ、全き安息の中に神と寛いで、あたかも家にあるがごとき有様を示しているのであります。僕のように立って命令を待つのではない。また、懇求するために神の前に跪座平伏するというのでもない。子と父との間のように、打ち解けて神と交わる態度を表しているのであります。或る信者たちはこういうように神の前に座するということを知りません。神の前に頭を下げて罪の赦しを受けるということは知っています。しかしてそれは真に貴いことではありますが、それは私共が神に祈る時の最高の態度ではありません。祈るということは、心が心に語ることです。私共が子として父にもの言う時、父は子に応答を致します。そして二者の間には愛の交換があります。これは祈祷の最高の型であって、『主の前に座して』なる態度は、すべての神の子等の到達しなければならない域なのであります。
 しからば、次に、ダビデは如何にしてかかる態度を取るに至りましたか。これは二つの動機があります。第一は彼の神に対する感謝の念であります。彼は神に対して感恩の情に満たされておりました。それに三つの理由があります。第一、彼は自分に対する神の愛を感じておりました。神は彼に不思議な、驚くべきことをなしたもうた。彼がまだ牧童であったその昔、神は彼と共に在して彼に力を与え、恵みを与え、助けを与えたまいました。かくて彼は今や神の恵みによってイスラエルの王であります。彼が昔を回顧して神が自らを王とするために選びたまいしことを考え、神の彼自身に対する深い憐憫を感じたのであります。第二に彼の王国に対する神の大いなる恩恵を感じておりました。二十年間ペリシテ人に奪われていた神の契約の箱がイスラエル王国に返されたのであります。契約の箱がペリシテ人の手に帰していたということは、国家の非常な損失であったばかりでなく、大いなる恥辱であり、神の栄光を汚したことでありました。王ダビデはこれがために哀しみ歎きおりましたが、これを神はお返し下されたのであります。彼の歓喜は如何ばかりでありましたろう。そのとき彼は歓喜のあまり躍ったと記されております。例えば今この教会が戸を閉じたと致します。そして二十年のあいだ集会を持つことができなかったが、二十年にしてもう一度戸が開かれ、集会が保たれ、昔うたった歌がうたわれ、昔聞いた福音が再び聞かれたとしたならば、そのときの歓喜はどんなでありましょう。さながら、契約の箱の帰った時のダビデの歓喜のごとく。あなたもために躍らんばかりでありましょう。もう一つの理由、それは三つの中で最も優しいものであるかも知れません。すなわち自分の子に対する神の特別なる約束であります。ダビデは子供達のためには苦労をして来ましたが、神が、『あなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて』と約束をなし、ソロモンを立てることを示したもうたので彼は感恩の念に満たされました。彼はかく神が彼自らのためになしたまいしことと、国家のためになし下されしこと、および彼の子供等のためになし下さることのために感謝の念に満たされたのであります。もし、神様が、あなたの子女達を特に恵みたもうならば、あなたの歓喜と感謝は如何ばかりのことでありましょう。また、未だ救われぬ子供が救われたとしたならばあなたはどう感じますか。心は確かに感謝に満ち溢れることと思います。私はちょうどそうした経験を持っております。私の子供は二十二歳になるまで救われませんでした。彼が生まれてからこの方、妻も私も彼のために祈って参りました。しかし彼は神に属ける事柄を顧みない。私共の心は悩みました。神の前に涙を流したことも幾たびか。しかるに或る時、私は旅行することになりましたが、途中、船が一つの港に着きますと、私宛の手紙が来ておりました。それはその子供がついに悔い改めて救いに入ったという知らせでありました。二十二年間祈り求めてきた子供が救われたのだ! 私の心は感謝に満ち溢れた。いきなりキャビンに飛び込むなり、内から鍵を下ろして、ダビデのごとく、神様の前に座り込んだ。感謝は止めどもなく神の前に注ぎ出されたのであります。
 以上はダビデをして神の前に座せしめるに至った第一の動機でありますが、第二の動機は何でありますか。それは彼の身にひしひしと迫った新しい責任感であります。彼がかくも恵みに感じたのも、換言すれば、彼に対する神の厚いご信任に対してであります。この神の厚いご信任に対して、ダビデは恩を感ずると同時に非常な責任を覚えました。彼は神が自分を世に置きたもう意味を自覚した。しかして王らしくあるためには、神の力と、神の恩寵とを要することを痛切に感じたのであります。私共は神より新しく何事かを託される時に責任を感ずる。そして神の力と神の恵みの必要を覚える。そこで神の御前に行くのです。皆様は牧師の職に就いた時にどう感ぜられましたか。あなたは神がかかる人々の間に自分を牧師として立てたもうた、しかし自分にはこれに対する知識もない、力もない、と感じた時に、かく叫んだことでありましょう。『神様、私はあなたに近づく必要を認めます。私はあなたに来ています。私はあなたに自らを託します』と。私もかく叫びました。或いはまた初めて子供が与えられた時も同じような感じを持ちましょう。神から託された子供を育てる力も知識も乏しい者である。しかしこの重大なる責任を感ずる。それはついにお互いを神に近づかしめ、新しい恵みを要求せしめます。ダビデを動かした動機はこれです。神に対する感謝、神に対する責任感、これは彼をして神の前に入りて座せしめるに至った二つの動機であります。
 しからば、次に、ダビデがかく主の前に時を保ったその結果はどうであるか、これは私共の学ぶ第三の点であります。この二つの章を見るとそれが示されております。その第一の結果は、ダビデはかく神の前に座することによって、神をより善く知ることができたことであります。かつて神を知らなかった有様において今や神を知ったのであります。僕は主人の心を知る、願いを持ってくる人は願いを聞いてくれる人の心を知っている。しかし、父の心を知るはただ子供等のみです。ダビデは神の前に座して、今や新しく神を知りつつ密室から出で来ったのであります。アイルランドに私の一人の友人がおります。彼には二人の男の子と一人の娘とがありますが、或る朝彼の家でこんなことが起こりました。食堂に朝飯が整えられておるあいだ彼が更衣室におりますと、一人の男の子が入ってきて、お父さん歯磨きがほしいという。そこでそれを与えると、また一人入ってきてボタンを下さいと言う。そこでまたせがまれるままに父はそれを与えました。しばらくして小さい娘が入ってきたので、おまえには何をやろうかと父が尋ねると、その娘は答えました。『何もいらない、お父さんのそばにいたい』と。
 これはダビデの神に対する願いでありました。私共もこうありたい。第二の結果は、ダビデが自らをよりよく知ったことであります。兄弟姉妹よ! 私共は自らを知りません。かつて自己に直面したことのない者です。しかし神に直面する時に自己を知ることができる。ただ神とのみ相対する時、初めて自己の真相を知ることができるのであります。私共は神と共におるとき自分自身の罪を知ります。神の智を見る時に自分の無知を悟ります。また、彼の偉大なることを知るにつれ、我自らのいと小さきことを悟るのです。これが第二の結果であります。第三の結果は何でありますか。それは祈りに対する新しい大胆であります。ただいま読んだ七章の終わりの方にそれがよく表されております。『それゆえ、しもべはこの祈りをあなたにささげる勇気を得たのです。‥‥‥どうぞ今、しもべの家を祝福し』(七章二十七、二十九節、英語改訳脚注参照)と。だから神様、私を恵んで下さい、私はあなたを捕らえております、あなたの約束をいま始めて下さいとダビデは神に求めている。いま始めて下さいとは不思議ですか。これは極めて当然なことであります。
 たとえば一人の方がリバイバルのために祈って、神様、どうかいま始めて下さいと言う。この今という言葉の中に、大胆なまた勇敢な気分が含まれているのです。私共は大胆に力ある祈祷を致しとうございます。けれどもそんな祈祷は、祈祷に関する万巻の書物を読んでもできません。祈祷に関する説明や説教を聞いてもできるものではありません。それは、ただ、祈ることです。私共は祈ることによって祈祷を会得し、信頼することによって信頼ということを学ぶのです。どうか神様に、大いなる驚くべきことをなしたまえと、大胆に祈る勇気を持ちたい。ただ今、このところから、その大いなることを始めたまえと祈りたいものであります。ダビデはただ一人主の前に座してかかることを学んだのであります。
 もう一つ学ぶことが残っております。この祈祷によって、新しい、勝れたる勝利が参りました。それは次の章に示されておる。すなわちイスラエルの宿敵、過去において残酷なる振る舞いをなした強国に対して、しかも最後的の勝利を獲たことであります。この勝利によって旧敵ペリシテは、もはや再びイスラエルに対して挑戦することができなくなりました。轡によって馬の全く制せられるごとく、イスラエルがメテグ・アンマを占領したことによってペリシテは全く喉を扼された形でありました。
 さらに、この祈祷は新しい敵に対しても非常な勝利を齎しました。多くの王たちは同盟をなし、精兵をもってダビデを撃とうと致しました。しかしダビデは神の人である。彼らは神と戦うわけである。またしても神はダビデに大勝利を与えたまいました。ダビデはこの時の敵の押し寄せ来るさまを描いて、『彼らは蜂のようにわたしを囲み』(詩篇百十八篇十二節)と言っています。皆様は蜂に囲まれた経験がありますか。彼らは蜂のごとく群れ襲う敵に対し、主の名によって、完全なる勝利を得たのであります。ここに皆様に対する教訓があります。私共が敵に対して勝利を獲るは祈祷の中にあってであります。祈祷によって神より新しい力を受ける。力を得て武装せられる。しかして勝利を博するのであります。私共には多くの敵がある。彼らは強い。恐ろしい。しかも協力してやってくる。しかしあなたは今、神の力をもってこれに打ち勝つことができる。あなたはあなたを愛する者によって勝ち得て余りある生涯に入ることができます。それはただ祈祷により神の力を受けることに基づくのであります。
 祈祷の結果は他にもまだいろいろあります。しかし、今はそれらについては申し上げません。どうか兄姉よ、祈祷のために時を聖別していただきたい。毎日、主の臨在の中に静かなる時を保ちなさい。様々なる快楽ないしは安逸のためにあなたの祈祷の時を奪われてはなりません。またあなたは働きのためにこの貴い時を失ってはなりません。最後にその証人として私は立ちたい。私は祈祷の静時を厳守しています。しかしたびたびそれを破らせようとする誘惑を受ける。かつてサタンは私が朝早く起きようとした時に、おまえは非常に疲れているぞと申しました。おお、そのために私はどれほど損をして来たことでしょう。しかし数年前、神様は私をお諭し下さった。私は朝まだき、神の前の静時を保つべきことを学びました。彼を俟ち望むために特別なる時を保った。それを何年か実行して参りました。おお兄弟姉妹よ、中にはまだ日の浅い信者の方もありましょうが、どうか祈りの人になっていただきたい。祈りの男子となって下さい。祈りの婦人となって下さい。祈祷のために静かなる時を守りなさい。サタンは誘惑を致しましょう。しかしこれを実行していただきたい。キリストは御腕を差し伸べておいでなさる。恵みに頼って祈りの人となっていただきたい。あなたが祈祷の時を守るならばこういう結果が起こりましょう。あなたはよりよく神を知りなさる。自己自身をよく知ることができる。また大胆な祈りの勇者、勝利のために武装せられたる者、日々輝きたる者となり得ましょう。どうか祈祷の人、いのりの男子、いのりの婦人となって下さい。祈りましょう。



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